2012年9月1日開設
大正期(1912-1926)は、都市文化が栄えたときです。そして、それと同時に、郊外が意識され、都市拡散が始まります。特に、関東大震災の後には、人々は東京郊外に宅地を求めるようになります。竹久夢二も、大正3年に、日本橋区(現、中央区八重洲)に港屋絵草紙店を構えた後、京都滞在を経て、当時の東京郊外、渋谷に住み、震災後は、世田谷にアトリエ付き住居を建てて創作しました。
建築やフレーズなどに、都市と田園と、その相関をみます。
首都東京を中心として栄えた都市文化、あるいは、新興市民の生活を伝える象徴的なフレーズとして、「今日は帝劇、明日は三越」は繰り返し引用されて来ました。これは、演劇と商業という伝統的な都市文化が、近代化を大きく踏み出したことを伝える表現です。しかも、民間の力で成されたことが注目されます。
明治期を代表するスローガン「富国強兵」は、大正、昭和期にも及ぶものですが、この政策は、大正期にはある程度の結実をみたと考えられます。「富国強兵」は、中国の『戦国策』に見られる古典的な施策ですが、これを掲げた日本は、経済を興し軍事力を発揮し、明治後期には、独自な都市計画を実行に移すまでになったのです。
また、「和魂洋才」という概念も、「和魂漢才」という歴史的な言葉から近代が生み出した目標でした。これら「富国強兵」「和魂洋才」は、開国せざるを得なかった島国が、海外を意識することで持った施策でした。それらのスローガンやモットーにより、欧風の近代国家が建設され、近代の都市文化が育まれます。
その都市文化を端的に伝えるのが、「今日は帝劇、明日は三越」のフレーズです。日本で初めてのデパートメント宣言をした三越の宣伝部長浜田四郎によるキャッチコピーは、時代文化を象徴する表現として、一人歩きをするようになります。帝国劇場の開設、三越日本橋本店の新設など、建築を主役とする都市計画が内包しようとする都市文化の西欧化・近代化を告げるフレーズです。そして、芸術や美術を含む新しい文化をさまざまに示唆してもいます。
三越(現在は、三越伊勢丹株式会社が運営)の大正3年開店の日本橋本店については、次のように解説されるとおりです。(Wikipedia 三越より)
• 日本橋本店「ルネッサンス式新館」落成。鉄筋地上5階・地下1階建てで「スエズ運河以東最大の建築」と称され、建築史上に残る傑作といわれた。商品は呉服を中心に百貨全般にわたって取りそろえ、日本初のエスカレーターが話題となったほか、エレベーター、スプリンクラー、全館暖房などの最新設備が備えられ近代百貨店としての形態を完成した。屋上庭園、茶室、音楽堂、正面玄関に「ライオン像」などが設置された。「第一回再興院展」を開催。
商品が華麗にディスプレイされていただけではなく、一種の文化拠点として、ライオン像や食堂の存在が話題になります。また、美術作品を展示するギャラリーを備えていて、継続して各種の展覧会が開催されたことも注目されます。
大正14年に、冊子『三越』を夢二が担当しています。夢二は、多くの雑誌で、美術面や記事を担当していますが、三越の仕事は短期間だったようです。展覧会場としての役割も果たす百貨店の魅力はあったかと思われますが、三越と夢二の関係についての詳細はわかっていません。 (2012.10.7)
(つづく)
東京駅 1914(大正3)年竣工/2012(平成24)年修復
国、重要文化財 丸の内南口側より撮影(2012年7月)
1889(明治22)年に、東京市区改正計画により中央停車場として立案され、
明治40年、まだ野原だった丸の内側、皇居正面に着工されました。丸の内口の中央には、
皇室専用貴賓出入り口が設けられ、国家のセレモニーを想定した駅舎となっています。
設計は、辰野金吾と葛西萬司によるもので、施行は大林組、鉄筋レンガ造り3階建て、
総建築面積9,545㎡、長さ330mに及び、豪壮華麗な洋式建築といわれます。
大正3年の開業より名称は東京駅で、日本国有鉄道からJRとなった今中央駅の位置づけです。
昭和20年5月、6月の東京大空襲では、屋根と内部の大部分を焼失する被害を受けます。
昭和22年の修復工事では、南北ドームは角屋根化され、3階建ては2階建てに変更されました。
平成15年には重要文化財に指定され、設計当初の姿への復元工事は平成19年に開始、
平成24年、東京駅は67年ぶりに大正期建築としての外観を取り戻し、新たな歩みを始めます。
歌や小説のなかに登場する駅と言えば、上野駅のほうが印象深く思い起されます。石川啄木は、「ふるさとの訛りなつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」(『一握の砂』明治43年)と詠んでいます。太宰治は、初期作品「列車」(昭和8年)に、「動員された兵士」の姿も青森行きの車中にある上野駅を描き、「たずねびと」(昭和21年)では、疎開を急ぐ人々で大混乱となった終戦間近の上野駅と空襲で焼け野原となった上野の街を書き留めています。北国を故郷とする人々にとっての上野駅は、今を生きるために故郷と向き合う重要な拠点であることが、文芸のうちにもみることができるのです。
望郷の念と生きるための闘いが錯綜しているのが上野ですが、東京駅も、関西以南を出身地とする人々にとって大切な望郷拠点であるはずです。ですが、筆者は寡聞にして、東京駅から故郷に向かう思いをあらわした文芸作品の好例を知りません。
ただ、竹久夢二の歌には、東京駅に降り立ったことが詠まれています。岡山県を故郷とする夢二は、古都を愛して、京都、金沢、室津などに旅しています。注目される一首は、京都滞在を精算して東京駅に降りた大正7年の体験を元にしたものです。(注1)
親と子が知らぬ他国へきたやうに悄然と下りる広い停車場(『山へよする』大正8年)
おそらくは、広大な洋式建築が彼の逃避行における終着の上り駅であり、近代都市東京にしか住めない自分と息子を作者は自覚しています。思えば、日本人には、南西地帯に発して北方へ移動・移住をしてきた歴史があります。それにつれて首都も移動し、東京の出現と繁栄がやって来ました。若い夢二が最初に上京した明治34年には、無論、東京駅は存在していませんでした。北上する志向が何故なのかはさておき、東京駅は、エキゾチックなフォルムで都市化の進行を待ち構えています。そこに降り立つ者は、故郷への計り知れないほどの距離感を背後に覚えたのではないでしょうか。東京駅は、大正期以降の未来を志向する首都の駅として建築され、存在しているのです。(2012.9.22)
東京駅の設計者、辰野金吾〔1854(嘉永7)年~1919(大正8)年〕は、近代日本の代表的な建築家です。佐賀県唐津市の出身で、工部省工学寮(後の工部大学校)でJ・コンドルに師事し、英国留学を果たします。帰国してからは後進の指導にあたり、帝国大学工科大学長、日本建築学会会長を務めます。辞職後も、設計事務所を開いて国家的な建設に関わりますが、国会議事堂の最初のコンペで審査員を務めた後に、スペイン風邪で倒れ亡くなります。日本銀行本店(国、重要文化財)ほか、地震に強い堅固な建築の作例を日本各地に残しています。
辰野が、国会議事堂の建設には直接に携わることなく他界したことは惜しまれています。彼の代表的建築は、東京駅に留まったわけですが、志の高い明治の気運に育まれて実現した大正期建築の雄大な秀作となっています。設計時には、鉄筋による頑丈な構造と、近代日本に普及した赤レンガにこだわりました。当時は新しかったコンクリート建築は、とうとう採用しなかったことは語り草となっています。さらに、空襲で焼失していたものが修復された南北のドームについては、時代を超えて、聖堂もしくは公共施設を象徴する形態の優れた装飾建築とみることができます。(2012.9.23)
参照⇒工事中の東京駅で、夢二が降りた広場とそびえるドームを想う
注1 『竹久夢二と日本の文人-美術と文芸のアンドロギュヌス-』(拙著)東信堂 1995
本書第一部(4)で注目して以来、筆者は、東京駅を詠んだ歌を、夢二を知るための重要作と考えています。
独歩詩碑 山林に自由存す (昭和26年3月 武蔵野市 建立 三鷹駅北口)
碑文 武者小路実篤 書 肖像 佐土哲二 刻
東京郊外に建てられた文学碑としても代表格であり、また、明治の詩のうちで、
これほどまでに大正から昭和の人々に愛された詩句はないといえるほどです。
(詩の全文については、大正期前夜の文学として大正100年データにあります。)
国木田独歩〔1871(明治4)年~1908(明治41)年〕は、詩人、小説家、ジャーナリスト、編集者として活躍した作家です。千葉県銚子に生まれ、父親の転勤に従って広島県広島市、山口県などで育ちます。幼名は亀吉、のちに哲夫と改名します。筆名は、独歩のほかにも孤島生、鏡面生、独歩吟客、独歩生など多くがあります。
明治24年、洗礼を受け、徳富蘇峰、宮崎湖処子と知遇を得ます。同年、東京専門学校を中退し、明治27年に国民新聞社に入社、日清戦争に従軍して戦時通信を発表し好評を博しました。明治28年、佐々城信子と結婚しますが、翌29年には破綻し、後に離婚します。この年の9月より一時的に東京渋谷村の茅屋に住みます。新聞や雑誌に発表した詩を、田山花袋らとの合著『抒情詩』(明治30年)に「独歩吟」としてまとめます。ここに「山林に自由存す」の詩が収められました。「欺かざるの記」も起筆されます。さらに、短編集『武蔵野』(明治34年)に続いて『独歩集』(明治38年)、『運命』(明治39年)などを刊行します。「牛肉と馬鈴薯」(明治34年)では北海道開拓について語られていますが、実際に明治28年に北海道へ渡ったこともあります。明治38年には『婦人画報』を創刊しますが、やがて独歩社は破産し、肺結核のために満36歳で亡くなります。
ロマン派とも自然主義の先駆とも言われています。技巧を感じさせない文章でとつとつと書かれた短編に独歩の特質があり、代表作には「源叔父」(明治30年)があり、「巡査」(明治35年)は夏目漱石が絶賛したことで知られています。(注1)
明治後半から大正にかけての文学青年とは、つまり独歩を愛読している人であったと言っても過言ではないかもしれません。一般読者よりも、作家に読まれた作家という一面があるようにうかがえます。自由恋愛とその破綻、野望と失意、流転という独歩の身にしばしば起こり、作中にあらわれた主題を、近代知識人は切実に感じていました。また、それを近代人の誰にでも起こりえることとして文学にあらわすこと、さらには日記のような記録もしくは告白文学もまた、課題として意識されます。
そして、竹久夢二も独歩を読んだ一人でした。彼には、独歩文学のなかの素材や文体などを意識した表現をうかがうことができます。独歩の生まれ故郷である千葉県銚子に行ったときことを書いたらしい日記(明治44年1月8日)には、「何かの言葉に林間に自由ありといふことがあつたつけ、ほんとだ。」などとあります。幸徳秋水の大逆事件公判が近づいたころの記述です。傍観的な書き方ですが、独歩の詩「山林に自由存す」を思い起しているのです。独歩を、自らのうちに見出していく作家精神のあり方のひとつとみることができます。(2012.12.17)
注1 参考図書:『武蔵野』国木田独歩 注解 三好行雄 / 解説 滝藤満義 新潮文庫 2012改版
『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』国木田独歩 注解 滝藤満義 / 解説 中村光夫 新潮文庫 2005改版