2012年9月1日開設
ここでは、近現代の作品や、思想哲学そのものに取り組むとは限りません。大正期以降の芸術表現において、同時代の思潮、もしくは時代を超えた思想が大きく関わっていることがあります。そこに注目して行くこととして、ページを設けます。(2013.4.17)
山本有三「路傍の石」(昭和12〔1937〕年-)には、明治後期の小学生、吾一が読んで感銘を受ける本として「学問のすゝめ」は登場します。そして、作中の小学校教諭である次野先生は、実学一辺倒の福沢諭吉を「(純粋芸術としての)文学はまるっきりわからない」と評しています。
さらに、新聞に連載された当初の「路傍の石」には、起業をめざして独立する吾一を描く「独立自尊」という章がありました。明治期の多くの少年の生き方に、福沢諭吉の影響が強かったことを小説は描いているわけです。(注1)
「独立自尊」は、「学問のすゝめ」を貫いている思想で、特に経済的な独立を尊重する論調にそれがうかがえます。人も国も「同等」であることを同書は説きますが、第三編には「一身独立して一国独立すること」という大きな見出しがあり、注釈書の注には、「個人的独立心の強い国民があって、はじめてその国は独立できるというのがこの編の主題であり、著者生涯の根本精神でもあった。」と書かれています。解説には、「「独立自尊」の四字が福沢の標語となったのはごく晩年であるが、その精神は最初から彼の骨格であった」とあります。(明治33年発表の「修身要領」で、「福沢精神の中核が〝独立自尊〟の四字の標語に決められた」そうです。)自由主義経済においては「独立自尊」への関心は深く、諭吉と「学問のすゝめ」は、時代を超えて今日でも読者を失わないと考えられます。(注2)
諭吉が、単に西洋文明の紹介者としてではなく、啓蒙思想家として初めて自らの考えをまとめたのが「学問のすゝめ」であり、同時にこれが彼の代表作であると注釈書は言っています。諭吉は、「自由平等」を主唱して封建制を排し、「文明開化」だけではなく、「富国強兵」の思想を支えた当事者でした。通訳として渡欧するなどの経歴は持ちますが、その後は、明治政府に出仕することは辞退し、在野で啓蒙書の著述や『時事新報』の創刊に尽くします。
巻末の略年譜にあるように、明治27年には、「日清戦争の軍費を集める運動を起こし、自ら一万円献金」し、病死する前年の明治33年には、「著訳教育の功労により皇室から金五万円下賜」され、「直ちに慶応義塾基本金中に寄付」しました。つまり自ら創設した大学運営に、戦勝後の下賜金をあてたのです。
諭吉は啓蒙的なノンフィクション作家だっただけではなく、いうまでもなく、時代と深くかかわる啓蒙思想の真摯な実践家でした。「学問のすゝめ」がどのように読まれたかも興味深いことですが、福沢諭吉という偉人の功罪こそ、読み解かれる余地を残して私たちの前にあるようです。
注1 『朝日新聞』に昭和12年1月より連載された「路傍の石」には、「独立自尊」の章がありましたが、『主婦之友』に昭和13年11月より連載された「新篇 路傍の石」は、そこまで筋が進んでいません。単行本、普及本の「路傍の石」でも、この章は割愛されています。近年の新潮文庫『路傍の石』では、巻末でこの章を読むことができます。
注2 今日、何かと話題を提供することの多い(株)ファーストリテイリングという会社の社長が、「独立自尊の商売人」というポリシーを店長に与えて事業拡張に努めた例があります。相応しい職能と職権のある者たちに、その実践を求めたかどうかということが争論となっています。