masterpeice 散文

散文

 小説とエッセイ、評論をここではみていきます。特に、文学の主流となっていく小説、また、単なる感想ではなく文芸評論として育っていく分野を注視する必要があることでしょう。



絵画小説については、竹久夢二絵画小説「出帆」のメタフィクションをご覧願います。


絵画小説

 竹久夢二には、絵画小説つまり絵と小説の両方を担当した連載がありました。大正12年の「岬」をはじめとして『都新聞』に4回ほど書いていることは、「竹久夢二絵画小説「出帆」のメタフィクション」で紹介しているとおりです。
 夢二は、当時、画家として他者の小説にも挿絵を描いていますので、連載小説における挿絵について評価することがまずは考えられます。しかしながら、今日の『東京新聞』の前身であり、読者数も少なくはなかった『都新聞』に4回も連載小説を書いているということから、新聞小説もしくは連載小説の歴史のなかでの位置付けも必要となってきます。
 大正期には、挿絵付きの新聞小説が盛んとなり、新聞購読者も飛躍的に増えて行きます。『都新聞』は大正中期ころから文芸欄に力を入れるようになりましたが、昭和8年から連載された尾崎士郎の「人生劇場」は大ベストセラーとなっています。夢二はこのような自伝大河小説に先駆けて、自伝的な小説の連載をしているのです。 
 しかしながら、夢二の絵画小説は、挿絵付きの連載小説のジャンルが成長した大正期の象徴のようではありながら、彼の代表的仕事として注目されてきたとは言いがたい現象があります。連載小説は、小説である以上、単行本になることで後の読者を得るのが普通であり、挿絵は連載が終ると忘れられる傾向にあります。そして、魅力的な絵に彩られた夢二の絵画小説は、生前に単行本になることがなかったのです。(注1)
 多作で多様な仕事に手を染めた夢二でもあり、当時は話題になったはずの絵画小説ですが、後の評価はなかなか及ばないままになっているわけです。自己投影と軽味のある小説内容に加えて客観的に物語る文体が、新聞小説の生成に寄与したものなのか、あるいは、現代のライトノベルに通じるものなのか、それを問うのは早急なことになります。
 夢二における小説の挿絵と、彼の文芸そのものを、もう注視してからでなくては、絵画小説の姿を見失ってしまう恐れがあります。おそらくは、画家としての自身の人生の回顧であると同時に、日常の発信としての連載であり表現であったようにうかがえます。小説家として書いたわけではなかったことから、洒脱な作品も位置付けが難しくなります。あえていえば、この時代にはまだなかった連続テレビ小説や、ストーリーマンガのルーツと考えてみたいところがあります。ただ、作者夢二がどのようなことをねらって絵画小説を描いたのか、また、同時代、それ以降の作家に与えた示唆についてたどってみることの方に、強く関心が惹かれるのです。(注2)(2013.7.12)


補注

注1 このような挿絵の現象について、次のような拙稿において注目はして来ました。
「“絵入り”小説の系譜‐有三の「生きとし生けるもの」から‐」(『生きとし生けるもの展』 三鷹市芸術文化振興財団 1998)
「通俗にして純粋‐山本有三「風」と川端龍子の挿絵‐」(『「波」「風」展』 三鷹市芸術文化振興財団 1999)

注2 夢二の小説挿絵について多少の考察をしたことがあります。
「山本有三と竹久夢二の"死の舞踏"‐「路傍の石」絵解きの試み‐」(『作家の全貌展』 三鷹市芸術文化振興財団 2004)


夏目漱石「こゝろ」は、青空文庫で読むことができます。

新聞連載の長編小説は、明治40年に漱石が登場して、
知識層の読者を獲得するなどの質的な変化をとげました。
大正3年に『朝日新聞』に連載された「こゝろ」は、
明治から大正へと時代が移ったことによる作者の精神的な
喪失感が表されていると読むこともできるでしょう。
また、「自序」に書かれているように、単行本の装幀を自ら考案しています。
最終的には、いつも担当していた橋口五葉が装幀をまとめあげました。
美術に造詣の深かった漱石を偲ばせると同時に、
小説が作者の手作りであったことを感じさせるエピソードです。
⇒ 『心』自序

阿部次郎「三太郎の日記」は、青空文庫で読むことができます。

奇しくも、大正教養主義の代名詞ともいうべき「三太郎の日記」は、
漱石に師事したこともある阿部次郎により、 「こゝろ」連載と同じく大正3年に発表されました。
ただ、「三太郎の日記」は、小説ではなく、感想、評論の分野になります。
小説ほどの虚構構造を持たず、青春の思索を内在しているという位置づけかもしれませんが、
大正から昭和初期ころまでの若者の必読書となり、非常に多くの読者を得ました。

三太郎という主人公


 今日では、阿部次郎を読む人も少なくなったようです。けれども、内容はともかくとして、「三太郎の日記」という題名が、親しみやすいものであることは誰しも気づくのではないでしょうか。それまでの物語の主人公といえば、数奇な運命にもてあそばれる人物か、近代人としての宿命を背負わされた人だった傾向がありました。しかしながら、三太郎は、世襲制度がまだ残る近代においては、活躍の場が用意されてなく、期待もされていない者のことです。男子として三番目に生まれたことを意味する名前だからです。
 これは、漱石の「三四郎」(明治41年)の流れを汲む作品だったと考えられます。主人公が体験をとおして内面的な成長をとげる教養小説は、近代日本では、漱石の「三四郎」から始まりました。森鴎外の「青年」(明治43年)も、「三四郎」を意識して書かれたと言われています。教養小説もしくは発展小説と呼ばれるものは、自己形成期にある青年を主人公とするものであり、「三太郎の日記」は、小説の形式ではないにしてもその範疇にある作品と考えられます。作中の青田三太郎は、阿部次郎30才代を記念して仮想された人物なのです。

 竹久夢二の「出帆」(昭和2年)の主人公は、山岡三太郎です。実在の人物が多くは変名で登場する小説で、三太郎は夢二自身の分身にあたります。阿部の「三太郎の日記」が若者によく読まれていた時代に発表されたものですから、「三太郎の日記」を踏襲して主人公の命名がされたと考えられます。「出帆」は小説ですが、文体もエッセイ風の気負いのないものです。小説ではしばしば用いられる手法ですが、回想や日記風の文章で構成されていて、その時間の流れの扱いはシンプルなようでいて、夢二の創作キャリアを感じさせます。また、絵は回想された当時のスケッチが元になっているように見えるものが少なくなく、興味深いものです。愛好者は、夢二の半生を知るための読み物として親しんだようです。それ以上の読み方、研究はほとんどされずに時が経過したようです。
 「出帆」の三太郎は、息子を連れた中年男性として登場します。幼年期から思春期までは記されてなく、大人の教養小説を試みたもののようにうかがえまが、作者の意図は、判然とはしません。青春ものではない、ということは言えます。漱石「三四郎」以降の作中人物像が、夢二の「出帆」では変貌をとげていると見ることはできるかもしれません。童話、童謡の分野に属する作品を多く書いてきた夢二が、筋立ての面白さによる通俗小説というだけではない小説に手を染めたという進展は、注目されるのではないでしょうか。
                                (2013.8.19)