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竹久夢二絵画小説「出帆」のメタフィクション
                                                2009年9月公開

 (独自に著述・編集し、資料を引用しています。無断複製・プリントは禁じます。 © Dioの会 )


夢二の仕事 -生誕125年をむかえた9月に-

 根強い愛好者を持つ竹久夢二(1884〔明治17〕年~1934〔昭和9〕年)は、今年、生誕125年、没後75年の時をむかえている。各地の美術館で展覧会が継続的に開催され、また、彼のデザインは便箋やブックカバーやハンカチなどの小物に再現されて使われ続けている。これは、彼の同時代の人々が、考えてもみなかった現象ではないだろうか。

 夢二は、一世を風靡した流行作家のようにみなされた。一世を風靡するとは、マスコミの概念ができて以降、時流に乗って持て囃されるということをいうが、時の経過と共に消えて行く作家であり仕事であるという意味でもある。彼の作詩による「宵待草」にしても、時代のやるせなさを唄った流行歌とみなされ、それが作者を大正期の申し子のようなイメージにすることを助長した。彼が、50歳に満たずに早世したことや、没後に戦時体制があったことなどの不遇もあり、評価は遅れに遅れた。
 
 しかしながら、それでも夢二の作品は愛好され続け、その人となりは語り継がれてきた。民間の愛好者や美術展の力によるところが大きい。今日では、竹久夢二が女性を描いた画家であり、意匠家であること、詩人であること、またその作風が、詩的な発想に負っていることはようやく知られてきている。多才な彼の詩文や絵のなかには、子供向けのものが多かったことについても周知されている。『新訳絵入物語』(吉井勇著 大正6年)の装本を嵯峨本系の挿絵を元に装飾的にまとめたことなど、何かを下敷きにした作品も多いが、それらを大正の夢二画にしてしまっている。文芸においても、マザーグーズの先駆的な翻訳・翻案にはじまり、短歌なども啄木風でもあるが、自然体ともいうことができ、哀感は夢二独特の表現になっている。(参照『竹久夢二と日本の文人』東信堂 1995年)
 彼ほどパロディ表現に長けた作家はいないほどであるが、また、憧景を集めて模写され、作風を剽窃された被害も並みならないところがある。いわゆる贋作は今日でも市場にでることがある。

 だが、彼が小説を書き、絵と文を担当した絵画小説を新聞連載したことについては、なかなか顧みられる機会が少ない。彼は、先取の画家であったが、特に当時としては新しいメディアだった新聞や雑誌などに深く関わりを持った作家だった。絵物語、絵本、画集の範疇に入る著書も多かった。絵画小説は、彼独自の仕事として大切な存在である。


新聞小説について

 竹久夢二が、絵入りで新聞に連載した小説は、次の4作である。絵を掲載するところを大きめにとっていることからも、絵画小説と呼ばれる。「自作自画長編小説」と言われたこともあった。

「岬」 『都新聞』1923(大正12)年8月20日~12月2日まで 全75回。   
ただし、関東大震災のために中断がある。小説中断の時期に重なる9月14日から10月4日まで、震災後を伝える「東京災難画信」21回を掲載。
「秘薬紫雪」 『都新聞』1924(大正13)年9月10日~10月28日 全49回。
「風のやうに」『都新聞』1924(大正13)年10月29日~12月24日 全57回。
「出帆」『都新聞』1927(昭和2)年5月2日~9月12日 全134回

 彼は、明治後期ころから新聞に掲載する報道記事や文芸欄、コマ絵を書いていたことがあり、ジャーナリストしての立場もあった。続きもの、連載記事というものの性格に親しんでいた。大震災の折にも画信を連載することで、社会に被災地の様子を伝えるという独自な仕事ができたのであった。この大震災の時には、多くの雑誌が特集を組み、作家や知識人が震災体験に筆をふるっている。夢二もほかにも『改造』など複数の媒体に依頼されて、画文で報告記を書いた。
 
 だが、これらの新聞小説と画信は、今日、彼の全集である『竹久夢二文学館』(1993年 日本図書センター)にも収録がなく、全貌を鑑賞することは難しい。新聞小説は、連載が完了したところで単行本となるのが通常である。そこにつけられていた挿絵は、映画のスチール写真のように連載を記念し、小説内容を伝える資料として再度鑑賞されたり、単行本に抄録されたりするようなことがある。
 しかし、夢二の場合、そのような連載小説の単行本化はなかった。そのために、生前の単行本を元に編まれた『竹久夢二文学館』には収録されなかった。没後の選集、画集の刊行は少なくないが、夢二の雑誌、新聞に寄せた仕事のうち、単行本にならなかったものは、次第に採録されないようになってしまっている。彼の仕事の幅が広いために、後の全集、選集は収録対象を限らずにはいられなくなるようである。
 夢二の新聞小説に、前記の4作があることさえ知られていない。夢二の絵画小説は、画家の生活から取材して軽い筆致で描かれている。大正期の通俗小説として顧みる課題が残されている。昭和10年前後を、挿絵の黄金時代、新聞小説の時代とみるなら、その前夜に、さきがけとなる仕事を夢二がしたこと、また、挿絵だけではなく、小説の分野にも夢二の貢献はあったのではないかと考えられる。このことについて触れる論考は、発表されてはいる。
 (『夢二抄 川の巻 絵と文芸』グラフィック社 1997年/「山本有三と竹久夢二の”死の舞踏”」収録『作家の全貌展』 三鷹市山本有三記念館 2004年)
 だが、この調査を継続させようとしても、夢二の絵画小説そのものが、鑑賞の手立てを失いつつあるという現況なのである。この場で、ほんの何点かの場面になってしまうが、顧みることにして、全貌を公開できる機会を待つほかない。


絵画小説とヒューマニズム

  「岬」連載中に起きた大震災を取材した「東京災難画信」を、新聞記事のマイクロフィルムから紹介しておきたい。大震災という悲惨な事件においても、童画のような表現で報道した夢二について、愛好者は高く評価している。彼は、どのように災害が悲惨で大きかったかを描くのではない。被災地における女性や年寄りや子供や小動物のような命あるものに目を向け、犠牲者がどのようにして荼毘に付されているかをもとらえる。芸術における人道主義を感じさせてくれる作家が、夢二である。
 恐らく、彼は、大震災の折、画家の習性であちこちの被災状況をスケッチしてまわり、これまで付き合いのあった多くの雑誌の特集記事として、絵入りの報告記を依頼された。それらをこなし、瓦礫のなかに人間の姿を再発見し、失われた江戸文化を惜しんだ。そうこうしているうちに、一度は休刊せずにはいられなかった『都新聞』が復興しても、まだ、連載小説を再開する気持ちにはなれず、少しでも首都の人々の生活の支えとなるような画信をかわりに連載することになったのであろう。だが、その画信も役目を果したあたりから、また小説の連載がはじまり(10月1日)、画信はおわる(10月4日)。







「東京災難画信」六「自警團遊び」
(『都新聞』
1923(大正12)年9月19日)












参考:「変災雑記」より<施米を受ける人たち>
竹久夢二画文(『改造』1923(大正12)年10月) 



絵画小説「出帆」

 「出帆」は、かなり自己の半生をそのまま素材にしていて、夢二の自伝として注目を集めてきたところがある。ただし、三人称小説として書かれていて、夢二に相当する主人公は山岡三太郎の名前で登場し、あと、息子たちや、離婚した妻、恋人、内縁の若妻など周辺の人々も皆、変名で登場している。
 芸術について理想を語り仕事に没頭した彼の青春時代は描かれていない。「出帆」が書かれた昭和2年は、夢二40歳の時であり、世田谷区の松原に家を建てて住んだのは大正13年であるから、自分の城を持って2,3年ほど経過した頃にあたる。

 大正9年5月2日の日本で最初のメーデーに、次男と一緒に出くわしたことの回想から始まる。実は、大正9年1月に最愛の恋人だった彦乃が病死していて、この年は夢二にとってメランコリーな時期であったと考えられる。物語中の時間は、夢二が30歳後半だった大正後期から昭和初期までを中心としている。それ以前の結婚と離婚なども回想されていて、現在の生活にいたるまでの遍歴が書かれている。父親である三太郎は、次男の成長を待って、外国への遊学を考えるところで終わっている。夢二は、ようやく昭和6年には、欧米へ出発する。その計画を予告した作品としても読める。幼少年期については書かれていない。彼には、「忘れ得ぬ人々」(『少女画報』大正元年)があり、幼い頃のことについては既に断片的にだが作品化されているためであったからであろう。
 また、夢二の作品の多くは子供や女性や青少年の鑑賞に向いたものであった。40歳をむかえた夢二が、自伝的要素のある小説で、少し大人の作風へ出発しようと準備していることが暗示されているとも考えられる。
 夢二は、いわゆるリアリズムに傾くことはなく、イマジネーションと軽みのある詩情が身上である。その作風の延長上で、さまざまに実験的な表現を試みている。特に、「自画自賛」「自作自画」の範疇で、絵に詩文を添えた表現、色紙や画幅として残されている作品に特長があり、また、随想などには必ず彼自身の絵が添えられて発表されるのが常であった。
 この「画賛」については、夢二は、絵を描いてみると、そこに何か書きくわえるなら、夢二自身の詩文がもっとも合うためにそうしたと言われている。夢二においても、言葉の表現が先にある場合と、絵画表現があって後に詩文が添えられる場合がある。だが、いかに同一人による画と賛であっても、局面の変化や時間的経過があった場合、その絵と文には、微妙に食い違いが生じはしないだろうか。
 
 夢二は、物語のストーリィは文章であらわし、そのうちの山場や感情の高まりを絵であらわすという方法をとることが多い。あるいは、背景というより登場人物の見ている風景を描く。考えるに、画賛や絵と文による表現は、多分にメタフィクションの要素を持っている。新聞小説は、インスタレーション的な特質があり、小説に付けられた絵は、即興的で、仮設性が強い。冷静な鑑賞をするなら、言語表現によって小説は成り立っているのであり、挿絵は、小説では表わしきれなった背景や人物の情報や時代考証などを含みながら、独立して鑑賞することさえできる。例えば、文章では登場人物の服装を含む風采について何も書かれていなかったとしても、モダンな容姿と服飾を描くことで人物像を浮かびあがらせるようなことができる。
 
 だが、小説よりも絵に力量がある場合、絵と文が総合した絵画小説になっていたとしても、その小説は、小説を超えたメタフィクションにならないだろうか。絵が独自に提供する情報や画家の自己表現が強いがために、言語で形成される小説を壊す、超える可能性が強いのである。
 夢二の場合はまさにそうである。言語表現の作家と同じ作家が絵を描いていても、実は、絵画表現が言語表現を超えて、過剰な夢二の個性の表現となりがちである。
 「出帆」は、自伝的作品として、書かれる三太郎のキャラクターと、それを書く作者の人格の双方が作品にあらわれ、書かれている時代と書いている現在の時間も同時進行することになる。書いている作者が登場するのは典型的なメタフィクションであるが、この小説では、連載小説を執筆中の作者が登場するところは、きわめてビビッドである。
 
 絵画小説を書いている作者は、銀座の明治屋で、買い物をしている久米正雄と出会う。自分のことを書くのが芸術だという持論を持ち、小説においては大先輩の久米に、作者は小説について教えを請おうとする。小説中で久米だけ本名で登場するということは、ここだけ枠内の三太郎の物語とは別の次元の物語となっている。だが、実際に仕事仲間であったとしても、進行中の小説について助言をもらおうとするのは、ここも実話を装った小説中のことであろうと読者は読む。作者は、小説は「とても大変だ」といい、「あれで絵が拙かった日にゃ立つ瀬はないからね」と発言する。「おやおやこれは読者諸君、これは作者の日記でありまして、小説の本文ではありませんが、」と続けられている。
 
 実際に夢二は、小説家の書く作品の挿絵だけではなく、文章ともに連載の仕事をこなしていたが、自分がどのように見られてきたかを述べていることになる。絵画小説として提供される夢二の小説は読者には下手とは思わせない。むしろ読みやすいのだが、それは絵に助けられているのだと自分で釈明しているのである。夢二は、自分の絵に賛をつけることや、詩歌を絵画化することは様々に行なってきた。自分の書いた小説に絵をつけることについて、第三者には理解されにくい新たな試みを展開していることへの自負は、言葉の裏に隠されている。

 線描は、自由な筆致で生命感があふれている。自在に作者の過去の場面を描いている。自身がこれまでにスケッチした周辺の風物や人物が集約されて次々に登場している。作者が女性と過ごした京都や酒田などの実景も数多く描かれている。
 作中、地名と風景のほかには、実名が登場するのは、代表作「黒船屋」を章立ての名称にしているのと、一世を風靡した唄「宵待草」である。このことも、自分の仕事をよく把握しての表現と考えられる。「黒船屋」は、夢二がたまき夫人に運営をまかせた絵草紙店港屋を暗示させるように描かれている。「宵待草」の着想は明治末であったが、多忠亮により作曲されて唄として完成したのは、悲恋におわった彦乃との交際の頃であった。
 
 女性は皆、変名で登場するが、メモリアルとして作中に書かれたのであろう。実際には、悲恋を含む女性たちとの半生の悲喜劇が書かれている。モデルとして夢二の前にあらわれたお葉とは内縁の関係となるが、彼女もまたほかの男性の元へと巣立つ。この女性は、「三太郎」のことを、「気の毒な寂しい人だわ」と思った「お花」として、執筆時に近い時に作者の近くに長く居たためか、ほかにも女性は現れるのではあるが、中心的に描かれている。

 小説の文章は、くったくなく軽く書かれているが、実はレトリックに支えられていることは絵と同様である。回想は、スケッチの整理と編集と加筆のように、次々と駆け足で書かれている。そして、小説内の時間は、作者が書いている時に近づき、そこで少し足踏みしてさまざまの逸話を描き、自宅で成長しつつある息子に対する姿を描いて終わる。小説にはどのような形式もありえるとしたら、絵画で描かれた小説も小説であろう。だが、すべて作品は自画像であると言った夢二においては、小説も自画像である。シリーズ画で描かれたセルフイメージである。
 「出帆」については、本文に挿絵原画からおこした絵をつけて復刻された本がある。夢二七回忌の記念に刊行された限定本(400部)である。そこから少しばかり紹介しておこう。



〔『出帆』全3巻(竹久夢二作 恩地孝四郎構成 昭和15年 アオイ書房  〔個人蔵〕)



「出帆」1 五月祭1 (1927〔昭和2〕年5月2日 『都新聞』掲載)
小汚い洋服を着た一団の行列が、いろんな思ひ附きの旗を押立てて、隊伍粛々と練ってくる。
「パパ、何?」
三太郎の息子の、その頃小学生だった山彦がパパの手にすがりながら訊いた。
・・・・・(中略)・・・・・
 三太郎は、その日暮らしの自分の生活に草臥れて、彼が二十代に抱いたような社会意識などは、もはや、忘れていた。新聞のきらいな彼は、今日の五月祭のことも知らなかった。




「出帆」3 五月祭3
三太郎もまだ二十代の青年の頃には、芸術家的敏感から、地上にユウトピアを持ちきたす夢を信じていたものだ




「出帆」4 黒船屋1
彼女と子供のために、下町の方に小さな美術店を出させて、旅行券を求めている矢先に、欧州戦争がはじまった。




「出帆」7 誕生日1
友達の世話で高台寺の辺に紅がら塗の家を一軒借りました。




「出帆」24
鏡花の女仙前記にたしかあったとおもう湯涌という人間放れのした山間の部落だった。




「出帆」48
「人を食った絵が近頃の流行だからね、しかし小説の方は馬鹿にむづかしいね」




「出帆」51
「私、しこし早く来過ぎましたでしょうか」お花は遠慮がちにききました。




「出帆」134
・・・出帆を待っている旅人の心持だった。



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