大正100年データ

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      2010/7/30開設  2016/2月更新  © 品川洋子


「宵待草」と「赤とんぼ」‐抒情の時代のはじまり。

 1910年代、20年代というように、国際的に通じるような西暦の合理性に対して、和暦の年号は、用いる者の主観に関わるきらいはありますが、一定期間の文化を大きく括って示すことができます。明治、大正、昭和、平成と続く近代以降の時代のなかで、もっとも短く終わった大正期ですが、この時代には、日本文化が復興したと同時に国際化が始まっています。西欧文化を移入して国家体制を整えようとした明治期から一歩進んで、日本の近代文化を独創し世界に発信して行こうという意識さえ生まれた時代でした。
 
 大正デモクラシー、または大正ロマンという言葉にうかがわれるように、思想や芸術、生活上の美意識において、近代性と日本人としての自我が明らかになった時代、現代文化の萌芽期として、大正期は考えられます。文芸が復興し、女性と子供の文化が注目され、童謡と童話の振興がありました。けれども、明治末にあたる大正前夜には、すでに様々な新しい文化が胎動しながらも、大逆事件によって思想的に急進的な人々が処刑されるというショッキングな出来事もありました。体制の圧力が大正期を支配し、軍国主義の時代へと進むことになるのです。
 竹久夢二が作詩した「宵待草」が時代の閉塞感とやるせなさを謳いあげて大流行したことが、大正時代の象徴的な文化史のひとコマです。憂いをふくんだ美人画や自分で装幀・挿画した著書でも人気を博した夢二の活躍期が、ちょうど大正期を挟んだ明治末から昭和初期までとなり、夢二は大正を代表する作家のひとりとして注目されます。(夢二本人は、いつも西暦を愛用していましたが、はからずも大正期を象徴する存在とみなされます。)
 
 また、三木露風も、明治後期より詩人としての活躍を始め、『廃園』をはじめとする数々の詩集を上梓して北原白秋と並び称されました。昭和に入ってからは田園に隠棲し、中央詩壇での活躍は大正期でほぼ終えています。露風の童謡「赤とんぼ」は、大正中期に作詩され、昭和30年代以降、盛んにうたわれるようになり、日本でもっともよく唄われる抒情歌となりました。大正期に重要な仕事をした詩人の動静をあわせみることにより、この時代の文化が浮き彫りになってくるのではないでしょうか。


大正期前夜の文学

『「宵待草」ノート -竹久夢二と大正リベラルズ』より     引用文クリック ↑ )

 明治後期には、大正期のリベラルな芸術表現をリードするような文学が生まれました。独歩、蘆花、鴎外、啄木などは、文学青年たちに熱い支持を受けて読み継がれます。


プレ大正100年-1911年以前の出来事

 文学史を顧みれば、大正元年(1912)には、石川啄木の歌集『悲しき玩具』が上梓されています。大正の文学は、三行に書かれ、句読点がつけられた画期的な短歌から始まったとみることができるのです。けれども、自らの生活を直截にうたったことで後世に絶大な読者と支持者を持つことになる啄木の『悲しき玩具』は、遺稿集であり、彼は、明治末に新しい思想による文学活動を開始しながらも若くして病没しました。明治期に生成された近代の文化が一度死んで再生されたのが、大正期の文化ではないかとも考えられます。
 明治の終わりに起きたことには、例えば、夏目漱石の「文学論」、文展の開始、鴎外の戯曲の翻訳活動と小説「青年」の発表、自由劇場の始まり、徳冨蘆花の講演「謀反論」、パンの会、『夢二画集』の発刊、『白樺』創刊、露風『廃園』と白秋『邪宗門』の上梓、などなど多くの興味深いことがあります。ここでは、これら大正前夜の新しい波とでもいうことがらの個々を思い起こしてみます。

                          

明治39(1906)年
 夏目漱石『文学論』刊行
 島崎藤村「破戒」発表
 木下藤次郎、丸山晩霞ら水彩画講習所を設立する。
 『社会主義の詩』(堺利彦編集兼発行人 由分社)に、夢二歌「絵筆折りてゴルキーの手をとらんにはあまりに細き我腕かな」が収録される。
 日露戦争凱旋式記念記念切手・絵葉書発行(4月) 絵葉書ブームが興る。
 早稲田文学社(島村抱月)編『少年文庫壱之巻』刊行(11月) 小川未明の起用が特筆され、夢二が詩文数点と表紙、挿絵を担当した。口絵として夢二絵葉書「小春日」が貼りこまれる。
                          * 
 明治後期の浪漫主義文学の高まりが大正期以前の出来事とするなら、明治30年代をもう少し顧みなくてはならなくなるだろう。しかしながら、詩歌の時代とも言える明治の文化ではなく、何か混沌とした芸術文化が大正期のものだとするなら、日露戦争後からが注目される。日露戦争を記念する絵葉書が出され、対抗するように庶民像としての美人画や生活から取材した様々な題材の絵葉書が盛んに製作されるようになる。戦勝気分をひとひねりした絵葉書文化が、ある程度の経済基盤を持った民間に興っていくのである。『少年文庫壱之巻』は、大正期の童謡・童話の運動をさきどりしているだけではなく、夢二絵葉書が付録のように挿入されていて、この状況を伝えてる一例である。水彩画が普及し、洋風の絵画も淡彩で日本人好みに描かれるようになったことも、この絵葉書ブームを支えた。
 思想や志を掲げる明治文化へのアンチテーゼのようにして、個人の感性を開放する芸術文化が生まれたことは、夢二歌「絵筆折りてゴルキーの手をとらんにはあまりに細き我腕かな」にもみてとれる。
 文化史上、この年の産物でもっとも注目されるのは、文芸作品としての藤村「破戒」もさることながら、何といっても漱石の「文学論」である。英国ロンドン留学からの帰国後に帝国大学でなされた講義などの記録としての膨大な論考であるが、ロマンを、最初に「浪曼的」と漢字にしたことで顧みられることがある。ロマン主義は、甘美な夢想を抱くこと、あるいはそのような表現形態と捕らえられがちであるが、本来的には、悟性よりも個人の感情や想像力を重視し、既成のあらゆる体制に反旗を翻す革新的思潮である。ロマン主義は、決まった表現様式をさすのではない。そして、既成のロマンチシズムを否定する革新性を持つ創造もまたロマン主義であると言える。近代の芸術文化は、伝統にも西欧文化にも近代的権威にも拮抗しながら、芸術の本質ともいえるロマン主義的傾向を発揮しながら進展していく。

                                              (未完)

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品川洋子(しながわ ようこ)〕略歴〕

 NPO活動(学芸員 / 文学、芸術文化)。1954年、北海道旭川市に生まれる。成蹊大学大学院、文学研究科修士課程修了。団体職員(学芸員)として展示・企画事業、資料調査、文化施設開設などに携わった後、フリーランスとなる。日本出版美術研究会(弥生美術館主宰)・会員。山本有三を読む会、Dioの会などの発足と活動に関わる。現在、Dioの会実行委員として、Web exhibitionなどHPによる情報発信に力を注いでいる。
 
 <著書・編著書>
『竹久夢二と日本の文人‐美術と文芸のアンドロギュヌス‐』(東信堂)
『夢二抄 川の巻 絵と文芸』(グラフィック社)
『夢二抄 山の巻 絵と画論』(グラフィック社)
『大正・昭和の“童心”と山本有三』(笠間書院)
『山本有三と三鷹の家と郊外生活』(はる書房)
『みんなで読もう 山本有三』(笠間書院)
『三鷹で暮らした「赤とんぼ」の詩人 三木露風の歩み』(はる書房)
『三鷹という街を書く太宰治 「陋屋の机に頬杖ついて」』(Dioの会/はる書房)
『「宵待草」ノート -竹久夢二と大正リベラルズ-』(Dioの会/はる書房)
 
 <主な論文>
「竹久夢二 人と作品 夢の後ろ姿」(『美術の窓』1987.8・9月合併号)
「“絵入り”小説の系譜‐有三の「生きとし生けるもの」から‐」(『生きとし生けるもの展』 三鷹市芸術文化振興財団)
「通俗にして純粋‐山本有三「風」と川端龍子の挿絵‐」(『「波」「風」展』 三鷹市芸術文化振興財団)
「山本有三と竹久夢二の"死の舞踏"‐「路傍の石」絵解きの試み‐」(『作家の全貌展』 三鷹市芸術文化振興財団)
 
 <講演会>
「竹久夢二の海水館滞在と港屋―啄木『悲しき玩具』に触れた夢二式表現―」タイムドーム明石(中央区)
「ライフスタイルについて 竹久夢二・不二彦&辻潤・まこと」大田区南馬込文化センター(馬込早苗の会)
「大正100年の東京郊外」カフェトークⅠ(Dioの会)





Dioの会は、文学・芸術文化のNPO活動をめざします。