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「大欅」三木露風 詩 / 雨田光弘 絵 『赤とんぼ 三木露風童謡詩集』(Book revview)より
   (Wikipedia-野川 / -仙川 / -玉川上水 / -神田川

 公開されている作家の旧居、記念館、資料所蔵館などを、任意に紹介するHPです。
 作家の仕事やライフスタイルを偲ぶために、また、メモリアム・ミュージアムにどんなことが期待できるのかというMuseologyのために、参照サイトを掲載しながら記事を設けます。

 武蔵野を愛した作家から始めることにしました。2013.11.18
 コラムのページを設けました。2014.5.3
 三木露風没後50年にあたり、コラムで詩を紹介しています。2014.6.19
 竹久夢二生誕130年、想うことなどをコラムに書きます。2014.8.13

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 コラム2を始めました。詩について続けます。2014.9.19
 抒情詩、田園詩、それから童謡の世界に入りました。2015.4.10

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 コラム3では、国民文学を考えましょう。2015.9.30

   〔最新記事2017.2.24〕   

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国木田 独歩




城下町佐伯国木田独歩館-明治26~27年に、独歩と弟収治が下宿した邸宅です-

 武蔵野といえば、国木田独歩というほどに、東京郊外の作家の草分けであり代表です。短編に秀でていて、同世代以降の文学青年に熱心に支持されました。独歩の名作「武蔵野」は、当初「今の武蔵野」として明治31年に発表され、首都東京の発展により郊外として意識される武蔵野について書かれています。
 独歩詩碑(山林に自由存す-「独歩吟」)は、三鷹駅北口に建てられていますが、明治期に36歳の若さで亡くなったこともあってか、東京には残念ながら記念館は存在していません。ただ、野川公園など郊外に残された公園や自然が、独歩が散策した往時の武蔵野を偲ばせるという声があります。


徳冨 蘆花




蘆花恒春園-晴耕雨読の生活をした住居と庭園が公園となり、蘆花記念館と旧宅があります-

徳冨蘆花記念文学館-終焉をむかえた伊香保の家を記念館として保存、展示館を併設しています-

 『国民新聞』(明治31-32年)に連載された「不如帰」は、大きな反響を呼んで当時のベストセラーとなりました。新聞小説が隆盛しはじめた頃の作品ですが、薄幸のヒロイン浪子の生涯は注目を集め、これを原作とする映画が非常に多く製作されたことでも特筆されます。
 実人生では、思想家である兄徳冨蘇峰との間に確執を生じ、国家主義と離反して世田谷に隠棲したようにうかがえます。現在、東京都に寄付されて蘆花恒春園となっている旧居と庭園は、約7万㎡とされています。

野口 雨情




童心居-武蔵野村吉祥寺北町にあった書斎が、井の頭自然文化園の中に移築されています-

野口雨情記念 湯本温泉 童謡館-大正年間に療養した温泉が湯本温泉でした-

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童心居(井の頭自然文化園)
撮影©福嶋朝治
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赤い靴はいてた女の子
(山下公園・横浜市)
撮影©Dioの会

 「赤い靴」「青い目の人形」「雨降りお月さん」「七つの子」「兎のダンス」など、印象深い童謡を数多く書いた詩人でした。家庭の事情もあり、幾度となく各地を移転しました。井の頭恩賜公園には、彼が作詩した「井の頭音頭」を記した野口雨情碑が建てられています。



三木 露風




霞城館-故郷たつの市では、「赤とんぼ」で知られる郷土の詩人として常時、紹介されています-

姫路文学館-兵庫県出身の詩人として資料の収蔵があります-

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赤とんぼ公園(三鷹市牟礼)の赤とんぼ碑
Dioの会ホーム
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『三木露風評伝‐求道の詩人の生と作品』
福嶋朝治著 ディオの会版 バブー
 Book review

 上京して詩人として活躍し象徴詩を極めます。その後、北海道函館のトラピスト修道院に滞在して入信し、また、帰京してからは、妻なかにゆかりのあった三鷹村牟礼に入居しました。昭和3年から36年間、75歳で亡くなるまで、この地で日々、詩をノートに書き続ける生活をおくりました。




竹久 夢二




竹久夢二美術館-大正期に止宿した菊富士ホテル跡の近く、弥生美術館に併設されています-

世田谷文学館-震災後に、アトリエ付き住居、少年山荘を建てた地域の文学館です-

夢二郷土美術館-本館とは別のところに、生家の保存と少年山荘の復元があります-

竹久夢二伊香保記念館-昭和期にはしばしば伊香保を訪れ、榛名に山荘を建てています-

金沢湯涌夢二館-妻たまきの出身地が金沢であり、また、湯涌は作品にも書いた地です-

笠間日動美術館-元々は個人コレクションだった画幅などを収蔵しています-

高原のミュージアム-最期をむかえた療養所があった地で資料展示がされています-

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『宵待草ノート 竹久夢二と大正リベラルズ』
(表紙の色紙絵は三鷹市蔵)Dioの会編 はる書房
 Book review

 広く人気を集めた画家であり詩人であり、大正ロマンを代表する作家とされています。記念事業も、各ゆかりの地で展開されています。
 多岐にわたる創作量は豊富で、転居と旅が多かった人でもありました。世田谷に建てた少年山荘は、夢二自身がプランしたもので、和風と洋風を融合させた異国情緒あふれる美意識に満ちていたようです。








高村 光太郎




高村山荘 高村光太郎記念館-戦後過ごした岩手県花巻市の山荘が保存されています-

 光太郎が長く中野にアトリエを構えて彫刻に励み、そこで最期をむかえたことは、意外に知られていないと思います。高村記念会により、岩手県花巻市の山荘が記念館として整備されて資料展示も行なわれています。

萩原 朔太郎




田端文士村記念館-大正後期に田端に住んだことが紹介されています-

馬込文士村資料展示室-馬込文士村散策の拠点として資料展示があります-

馬込図書館-ゆかりの文士として多くの著書が収蔵されています-

萩原朔太郎記念 前橋文学館-詩歌を中心とする文学館が、地元に実現しました-


 武蔵野(郊外)を東京の都心をのぞいた地帯とするなら、北区、大田区は都心に近いということで武蔵野とするには異論があるかも知れません。数多くの文士や芸術家が、大正後期から昭和期にかけて仮住まいを含めて生活したのは、一種の利便性があったからとも考えられます。
 朔太郎は、一旦は帰郷して生家で暮らしましたが、昭和8年からは世田谷に新築した家に住みました。近代詩の父とも呼ばれた彼の足跡は、首都にさまざまに遺されています。けれども、朔太郎にしても、東京に詩歌文学館を開設させることはなかったと言えましょうか。


高田 博厚




福井市美術館博厚の彫刻作品全175点を収蔵して紹介しています-

 杉並区下高井戸では、多くの若い作家たちと交流を持ちました。中原中也像を制作したのもそのころのことでした。昭和6年から単身パリに住み、長く滞在して、多くの芸術家と交際したことがよく知られています。文筆家でもありました。 


中原 中也




中原中也記念館-山口県山口市の生家跡に建設された記念館です‐

 昭和12年、30歳の若さで亡くなった詩人で、「汚れつちまつた悲しみに」は多くの人々に愛唱されています。高田博厚との交際は、下高井戸のあたりにおけるだけではなく、三鷹牟礼(現、三鷹市井の頭)の高田の持家を訪問したことが明らかになっています。日本浪漫派の活動を通して、太宰治との交流も伝えられています。太宰より2歳年長でもあり、酒席では強い態度を示したという逸話があります。 


吉川 英治




吉川英治記念館-戦中に疎開して住んだ青梅の古い門構えの屋敷を、記念館としています-

 幕末の養蚕農家だった屋敷には、明治期の洋風離れがあり、そこを英治は茶室風の書斎にして使っていました。家は、草思堂と名づけられています。


武者小路実篤




調布市武者小路実篤記念館-昭和期に高年になってから、終の棲み家として愛した家と庭園です-

 住宅の保存に加え、資料館・記念館が整備されています。庭園だった実篤公園には、鯉の泳ぐ奥深い池があり往時を偲ばせます。由緒ある家柄で京都に住まいがありましたが、上京し、『白樺』の発刊など文学活動に入り、また、新しき村を創設しました。文学者であり美術愛好家であり思想家でもあった実篤を伝える資料の多くが、調布の記念館に収められています。



山本 有三




三鷹市山本有三記念館-戦前から終戦まで住み、代表作「路傍の石」を書いた洋風住居です-

山本有三ふるさと記念館-栃木の生家近く、蔵作りの旧家が並ぶ通りの一軒を記念館としています-

 ドイツ文学を専攻して劇作家として出発した有三は、滞欧経験がなかったにもかかわらず、三鷹の洋風建築の家に書院造りの書斎を設けて住みました。そこで戦争へと突入する時代をむかえながら、彼の長編小説としての集大成である「路傍の石」を執筆して、自らの時代を検証します。高年になってからは、湯河原の理想郷の和風の趣ある家で暮らしました。


中島 菊夫




中野区立歴史民俗資料館―長く住んだ地として、直筆ノートほかゆかりの資料の多くを所蔵―

 ほとんどの資料を、長く遺族が所蔵していました。戦中に小学校教員を務めた教育者だったことなど、特異な漫画家でした。「日の丸旗之助」などの戦前の人気少年漫画に加えて、疎開した小学生のために絵入りで描いた「鷺宮だより」を掲載した肉筆の慰問新聞を知る人々が、彼を記憶しています。
 没後50年の2012年をすぎてから、ようやく、Wikipediaに中島菊夫の項目が設けられました。これから、記述がすすむことが期待されます。


田河 水泡




江東区森下文化センター 田河水泡 のらくろ館-代表的キャラクター「のらくろ」の展示を常設-

町田市民文学館 ことばらんど-戦後に住んだ地では、ゆかりの漫画家として紹介しています-


 生家近くにのらくろ館が開設され、高年になって住んだ街の文学館でも資料公開していることになります。「のらくろ」は、昭和初期の子供漫画を代表するもので、主人公のキャラクターは広く愛されました。様々に商品化もされ、今日盛んなキャラクター・グッズの最初の成功例とも言われています。
 都心のベッドタウンとして開発された町田市は、多摩地区の南部に位置して人口増加もめざましく商業都市として発展しました。多くの作家や文化人が住むようになった街です。


井伏 鱒二




杉並区郷土博物館-「杉並文学館 井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士」という展示が常設されています‐


 『荻窪風土記』を著したことで特筆される井伏鱒二は昭和2年から杉並に住み、太宰治ほか世代の若い作家たちの世話をしたりまとめ役でもあったことで知られています。


太宰 治




太宰治文学サロン-太宰一家が通った三鷹の酒屋、伊勢元酒店の跡に設けられました-

斜陽館-青森県有数の素封家だった生家が記念館となり、往時の生活を偲ばせます-

日本近代文学館-「斜陽」「人間失格」など代表作の原稿ほか主要資料が収蔵されています-

山梨県立文学館-美知子夫人との新婚生活を過ごした地に、原稿、書簡などが収められています-

神奈川県立文学館-神奈川を描いた作家のひとりとして、書簡や初版本などが収蔵されています-

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『三鷹という街を書く太宰治』
Dioの会編 はる書房
Book review

 もっとも創作に力の入った三鷹時代は、まだ畑に囲まれていた3間ほどの借家に住んでいました。戦争末期には生家に疎開し、戦後に東京にもどって来ます。戦前、戦中の人々の姿を描き、終戦直後に飛躍的に人口が増えた東京郊外の街、三鷹を数々の小説に書きとめています。
 特に「十二月八日」は、大戦勃発の日を三鷹に住む小説家の妻の日記に仮託して書かれています。歴史的な開戦を市井人の眼でよく記録していて、貴重な日本文芸といえます。







川合 玉堂




玉堂美術館-晩年を過ごした青梅市御岳の渓谷に建設された美術館です-


 玉堂は、伝統的な日本画を守り、自然と人を描いた画家でしたが、昭和19年から亡くなる昭和32年まで御岳で過ごしました。美術館では、若い日の写生から84歳の絶筆までを公開し、季節感のある展示を行なっています。


平櫛 田中




平櫛田中彫刻美術館-昭和44年98歳のとき、小平市に建てた和風邸宅が美術館になっています-

井原市立田中美術館-生誕地、岡山県井原市に開設されています-

 享年107歳という驚くべき長寿の彫刻家の活躍期は長きにわたり、美術館として残された終の棲み家においても日々創作に励んだそうです。


北村 西望




井の頭自然文化園彫刻園-動物園のなかに彫刻園が設けられ、約250点の彫刻展示があります-

西望記念館-長崎県南島原市の生誕の家が記念館になり、彫刻のある声望公園が設けられました-

 長寿の彫刻家として知られているとおり享年102歳でした。昭和28年に井の頭公園の土地を借用してアトリエを建て、そこで平和祈念像を約5年かけて制作しました。


恩地 孝四郎




東京国立近代美術館ー恩地の版画作品を多く収蔵しています-

  創作版画の先駆者のひとりとして、日本の抽象絵画の創始者として評価されている版画家ですが、非常に多くの本の装幀をした装幀家としても知られています。大正の初めころまでに夢二の元に集まった若い芸術家のなかでは、もっとも夢二と長く交際があったと伝えられています。杉並区に住んでいました。


中村 研一




中村研一記念小金井市立はけの森美術館-戦後に住んだ地に遺族が建設した美術館です-

中村研一・中村琢ニ 生家美術館-母屋は明治40年築という、福岡県宗像市の生家です-

  空襲によって代々木のアトリエを焼かれた研一は、戦後には小金井市に住みました。画壇の重鎮として活躍した研一の没後、遺族が独力で記念美術館を建てましたが、後に小金井市に寄贈されて今日のような市民美術館となりました。旧宅は敷地内に保存されてカフェとして用いられています。


東郷 青児




東郷青児記念 損保ジャパン興亜美術館-当初は東郷青児美術館として、始まりました-

 ダンディな「二科会のドン」として華やかに活躍した東郷青児は、この世のものと思われないような美しく若い女性像を描き、カレンダーや様々なグッズを彩った画家です。損保ジャパンの前身である安田火災に自作と絵画コレクションを寄贈することで、新宿に美術館が誕生しました。アトリエは、杉並区にありました。井の頭線久我山駅のほど近くです。


向井 潤吉




向井潤吉アトリエ館-昭和8年から住んだ地のアトリエ兼住居が、世田谷美術館分館となっています-


 約40年にわたり北海道から鹿児島までを旅して、古い民家を描いた洋画家です。特に、高度成長期に次々に姿を消して行った茅葺屋根の家の絵で知られます。武蔵野の面影を遺した世田谷弦巻の自宅は、昭和37年にアトリエと住まいを兼ねて建築され、昭和44年には岩手県一関から土蔵が移築されました。本人の意思で自宅が美術館となりました。


池田 満寿夫




池田満寿夫美術館-長野市に開設され、満寿夫の作品を多角的に紹介しています-

京都国立近代美術館-版画作品を収蔵しています-

パラミタミュージアム-三重県にある私立美術館で、満寿夫の陶彫「般若心経シリーズ」を収蔵-

 権威あるヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受けた版画と、芥川賞を受賞した小説で、時代の寵児となった池田満寿夫ですが、活躍が多岐に渡るために正当に評価されにくいところがあります。芸術家として知名度が高く、テレビ出演も様々にこなし、充実した作品群を遺しましたが、転身が多すぎると言われることがありました。長野市で育ったために、没後の評価は地元が中心となっています。若いころには、多摩地区に住んでいたことがありました。





後記: 作家を記念する施設は、今日では非常に多く開設されています。文学館や博物館を紹介する書籍も、すでに幾種も刊行されています。ですが、分野ごとのミュージアム紹介はありますが、日本における作家の記念館とはどのようなものかについては、考察がすすんでいるとは限りません。“作家を伝える”という観点を顧みる余地があります。事業主体、あるいは支持者がリアルタイムに発信しているHPから、情報を得ることも大切なことです。 
   (参照:Wikipedia-文学館 / -美術館 /-博物館
  博物館は、何らかの文化財(資料)を収集、保存、調査研究、一般公開(展示)すると共に、知的情報の発信と生涯学習を担う役割りを果たすものです。今日、Web発信を含めて、多様な事業展開が期待されます。