公開されている作家の旧居、記念館、資料所蔵館などを、任意に紹介するHPです。
作家の仕事やライフスタイルを偲ぶために、また、メモリアム・ミュージアムにどんなことが期待できるのかというMuseologyのために、参照サイトを掲載しながら記事を設けます。
武蔵野を愛した作家から始めることにしました。2013.11.18
コラムのページを設けました。2014.5.3
三木露風没後50年にあたり、コラムで詩を紹介しています。2014.6.19
竹久夢二生誕130年、想うことなどをコラムに書きます。2014.8.13
コラム2を始めました。詩について続けます。2014.9.19
抒情詩、田園詩、それから童謡の世界に入りました。2015.4.10
コラム3では、国民文学を考えましょう。2015.9.30
コラム3-2では、拾い読みをつづけます。2021.9.17
〔最新記事2021.9.17〕 武蔵野といえば、国木田独歩というほどに、東京郊外の作家の草分けであり代表です。短編に秀でていて、同世代以降の文学青年に熱心に支持されました。独歩の名作「武蔵野」は、当初「今の武蔵野」として明治31年に発表され、首都東京の発展により郊外として意識される武蔵野について書かれています。
独歩詩碑(山林に自由存す-「独歩吟」)は、三鷹駅北口に建てられていますが、明治期に36歳の若さで亡くなったこともあってか、東京には残念ながら記念館は存在していません。ただ、野川公園など郊外に残された公園や自然が、独歩が散策した往時の武蔵野を偲ばせるという声があります。
『国民新聞』(明治31-32年)に連載された「不如帰」は、大きな反響を呼んで当時のベストセラーとなりました。新聞小説が隆盛しはじめた頃の作品ですが、薄幸のヒロイン浪子の生涯は注目を集め、これを原作とする映画が非常に多く製作されたことでも特筆されます。
実人生では、思想家である兄徳冨蘇峰との間に確執を生じ、国家主義と離反して世田谷に隠棲したようにうかがえます。現在、東京都に寄付されて蘆花恒春園となっている旧居と庭園は、約7万㎡とされています。
「赤い靴」「青い目の人形」「雨降りお月さん」「七つの子」「兎のダンス」など、印象深い童謡を数多く書いた詩人でした。家庭の事情もあり、幾度となく各地を移転しました。井の頭恩賜公園には、彼が作詩した「井の頭音頭」を記した野口雨情碑が建てられています。
上京して詩人として活躍し象徴詩を極めます。その後、北海道函館のトラピスト修道院に滞在して入信し、また、帰京してからは、妻なかにゆかりのあった三鷹村牟礼に入居しました。昭和3年から36年間、75歳で亡くなるまで、この地で日々、詩をノートに書き続ける生活をおくりました。
広く人気を集めた画家であり詩人であり、大正ロマンを代表する作家とされています。記念事業も、各ゆかりの地で展開されています。
多岐にわたる創作量は豊富で、転居と旅が多かった人でもありました。世田谷に建てた少年山荘は、夢二自身がプランしたもので、和風と洋風を融合させた異国情緒あふれる美意識に満ちていたようです。
光太郎が長く中野にアトリエを構えて彫刻に励み、そこで最期をむかえたことは、意外に知られていないと思います。高村記念会により、岩手県花巻市の山荘が記念館として整備されて資料展示も行なわれています。
武蔵野(郊外)を東京の都心をのぞいた地帯とするなら、北区、大田区は都心に近いということで武蔵野とするには異論があるかも知れません。数多くの文士や芸術家が、大正後期から昭和期にかけて仮住まいを含めて生活したのは、一種の利便性があったからとも考えられます。
朔太郎は、一旦は帰郷して生家で暮らしましたが、昭和8年からは世田谷に新築した家に住みました。近代詩の父とも呼ばれた彼の足跡は、首都にさまざまに遺されています。けれども、朔太郎にしても、東京に詩歌文学館を開設させることはなかったと言えましょうか。
杉並区下高井戸では、多くの若い作家たちと交流を持ちました。中原中也像を制作したのもそのころのことでした。昭和6年から単身パリに住み、長く滞在して、多くの芸術家と交際したことがよく知られています。文筆家でもありました。
昭和12年、30歳の若さで亡くなった詩人で、「汚れつちまつた悲しみに」は多くの人々に愛唱されています。高田博厚との交際は、下高井戸のあたりにおけるだけではなく、三鷹牟礼(現、三鷹市井の頭)の高田の持家を訪問したことが明らかになっています。日本浪漫派の活動を通して、太宰治との交流も伝えられています。太宰より2歳年長でもあり、酒席では強い態度を示したという逸話があります。
幕末の養蚕農家だった屋敷には、明治期の洋風離れがあり、そこを英治は茶室風の書斎にして使っていました。家は、草思堂と名づけられています。
住宅の保存に加え、資料館・記念館が整備されています。庭園だった実篤公園には、鯉の泳ぐ奥深い池があり往時を偲ばせます。由緒ある家柄で京都に住まいがありましたが、上京し、『白樺』の発刊など文学活動に入り、また、新しき村を創設しました。文学者であり美術愛好家であり思想家でもあった実篤を伝える資料の多くが、調布の記念館に収められています。
ドイツ文学を専攻して劇作家として出発した有三は、滞欧経験がなかったにもかかわらず、三鷹の洋風建築の家に書院造りの書斎を設けて住みました。そこで戦争へと突入する時代をむかえながら、彼の長編小説としての集大成である「路傍の石」を執筆して、自らの時代を検証します。高年になってからは、湯河原の理想郷の和風の趣ある家で暮らしました。
ほとんどの資料を、長く遺族が所蔵していました。戦中に小学校教員を務めた教育者だったことなど、特異な漫画家でした。「日の丸旗之助」などの戦前の人気少年漫画に加えて、疎開した小学生のために絵入りで描いた「鷺宮だより」を掲載した肉筆の慰問新聞を知る人々が、彼を記憶しています。
没後50年の2012年をすぎてから、ようやく、Wikipediaに中島菊夫の項目が設けられました。これから、記述がすすむことが期待されます。
生家近くにのらくろ館が開設され、高年になって住んだ街の文学館でも資料公開していることになります。「のらくろ」は、昭和初期の子供漫画を代表するもので、主人公のキャラクターは広く愛されました。様々に商品化もされ、今日盛んなキャラクター・グッズの最初の成功例とも言われています。
都心のベッドタウンとして開発された町田市は、多摩地区の南部に位置して人口増加もめざましく商業都市として発展しました。多くの作家や文化人が住むようになった街です。
『荻窪風土記』を著したことで特筆される井伏鱒二は昭和2年から杉並に住み、太宰治ほか世代の若い作家たちの世話をしたりまとめ役でもあったことで知られています。
もっとも創作に力の入った三鷹時代は、まだ畑に囲まれていた3間ほどの借家に住んでいました。戦争末期には生家に疎開し、戦後に東京にもどって来ます。戦前、戦中の人々の姿を描き、終戦直後に飛躍的に人口が増えた東京郊外の街、三鷹を数々の小説に書きとめています。
特に「十二月八日」は、大戦勃発の日を三鷹に住む小説家の妻の日記に仮託して書かれています。歴史的な開戦を市井人の眼でよく記録していて、貴重な日本文芸といえます。
玉堂は、伝統的な日本画を守り、自然と人を描いた画家でしたが、昭和19年から亡くなる昭和32年まで御岳で過ごしました。美術館では、若い日の写生から84歳の絶筆までを公開し、季節感のある展示を行なっています。
享年107歳という驚くべき長寿の彫刻家の活躍期は長きにわたり、美術館として残された終の棲み家においても日々創作に励んだそうです。
長寿の彫刻家として知られているとおり享年102歳でした。昭和28年に井の頭公園の土地を借用してアトリエを建て、そこで平和祈念像を約5年かけて制作しました。
創作版画の先駆者のひとりとして、日本の抽象絵画の創始者として評価されている版画家ですが、非常に多くの本の装幀をした装幀家としても知られています。大正の初めころまでに夢二の元に集まった若い芸術家のなかでは、もっとも夢二と長く交際があったと伝えられています。杉並区に住んでいました。
空襲によって代々木のアトリエを焼かれた研一は、戦後には小金井市に住みました。画壇の重鎮として活躍した研一の没後、遺族が独力で記念美術館を建てましたが、後に小金井市に寄贈されて今日のような市民美術館となりました。旧宅は敷地内に保存されてカフェとして用いられています。
ダンディな「二科会のドン」として華やかに活躍した東郷青児は、この世のものと思われないような美しく若い女性像を描き、カレンダーや様々なグッズを彩った画家です。損保ジャパンの前身である安田火災に自作と絵画コレクションを寄贈することで、新宿に美術館が誕生しました。アトリエは、杉並区にありました。井の頭線久我山駅のほど近くです。
約40年にわたり北海道から鹿児島までを旅して、古い民家を描いた洋画家です。特に、高度成長期に次々に姿を消して行った茅葺屋根の家の絵で知られます。武蔵野の面影を遺した世田谷弦巻の自宅は、昭和37年にアトリエと住まいを兼ねて建築され、昭和44年には岩手県一関から土蔵が移築されました。本人の意思で自宅が美術館となりました。
権威あるヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受けた版画と、芥川賞を受賞した小説で、時代の寵児となった池田満寿夫ですが、活躍が多岐に渡るために正当に評価されにくいところがあります。芸術家として知名度が高く、テレビ出演も様々にこなし、充実した作品群を遺しましたが、転身が多すぎると言われることがありました。長野市で育ったために、没後の評価は地元が中心となっています。若いころには、多摩地区に住んでいたことがありました。