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「陋巷のマリヤ」と書いた太宰治
    
                                        2009年6月公開

 (独自に著述・編集し、資料を引用しています。無断複製・プリントは禁じます。© Dioの会 )


緒言

 昨今では聞きなれなくなった「陋巷」という言葉が、太宰治の語彙のなかにある。中期作品「俗天使」(1940〔昭和15〕年)では、小説家として文学主題を語るにあたり「陋巷の聖母」「陋港のマリヤ」と書いているのである。これは、彼が、女性独白体で、または客観描写で、書き、描こうとした女性像の総体を言っていることには違いないだろう。本来なら、太宰文学を考えるにあたり、キーワードになる言葉ではないだろうか。

 だが、今日、「陋巷」と言えば、「地域活性化が言われている時代にふさわしくない言葉」と決めつけられそうな恐れがある。実際、「陋巷」は、太宰の語彙として、注目されているわけではない。果敢な取り組みかもしれないが、古い概念に思われる「陋巷」から太宰治を顧みてみたい。


「論語」のなかの「在陋巷」

 「陋巷」は、単なる漢語ではなく「論語」のなかの言葉であり、「聖母」は、言うまでもなくキリスト教の概念である。「マグダラのマリヤ」は、罪の女でありながら、イエスの死と復活を見届けた証人であった。それを、太宰は、「陋巷のマリヤ」という「論語」からの言葉に置き換えて表現したのだった。16世紀に中国で布教活動をした宣教師により「論語」はフランス語に翻訳され、シノワズリという中国ブームを巻き起こす契機となった。そして「論語」はフランスの啓蒙思想の発展に寄与した。
 師とその周囲の人々の言行録であることで、「論語」と「聖書」には共通項がある。西欧文化に「論語」の世界が混交することは、シノワズリの文化からみれば充分にあり得ることである。今日では、やや奇異に感じられる「陋巷のマリヤ」が、太宰独創の表現であったかどうかなども不詳である。
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 あまりにも有名なくだりであるが、「論語」のなかに、「陋巷に在り」がある。孔子は、高弟の顔回(顔淵ともいう)があえて貧しい街に住んでいることを称賛した。孔子は顔回を称え、一椀の飯に、一椀の汁でしのいで、うらぶれた長屋街に住む、通常なら耐えられないような貧乏の憂いを、顔回はへこたれることなく受け入れ続けている、顔回は賢人だ、と言った、というようなことが書かれてあるのである。「一を聞いて十を知る」は、顔回のことを言った言葉であり、師の孔子もかなわないような秀才であった。顔回が30歳代の若さで亡くなったときには、孔子の嘆きは尋常なものではなかった。若くして自虐的に死を願った太宰ならずとも、「論語」に親しんだ知識人で憧憬しない者はいないほど高名な人物である。顔回は、後の老荘思想の源とさえ言われる。
 つまり、読書人であれば、「陋巷」という言葉から、この「論語」の顔回のエピソードを連想しない人はない。特に太宰の世代までにおいてはそうであった。

子曰。賢哉回也。一箪食。一瓢飲。在陋巷。
人不堪其憂。回也不改其楽。賢哉回也。
            (「論語」雍也第六)


太宰における「論語」

 

 太宰がいう「陋巷のマリヤ」は、貧しい自国のマリヤ、罪と母性を兼ね備えた女性というようなニュアンスであったろう。だが、太宰が、「論語」に触れたり、引用したりしている作品は意外に多くあるため、「陋巷」という言葉を用いた彼の「論語」観や思惑が気になってくる。それをうかがう意味で、主なところだけでも見てみてみよう。
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 エッセイ「多頭蛇哲学」(1938〔昭和13〕年)では、太宰は日本に哲学がないことを問題提起し、「論語」を「いろはがるたや、川柳」などと同様に、「日常倫理の戒律」をあらわしているものと書いている。日本においても、江戸期には、知識人や学徒であればみな「論語」を諳んじていた。昭和期でも戦前までは、多くの人々が「論語」に親しんでいたからこそ、ありふれた知恵のように考えられていた面もあった。
                
 日本には、哲学として独立し体系づけられて在る思想は少い。いろはがるたや、川柳や、論語などに現わされている日常倫理の戒律だけでは、どうも生き難い。学術の権威のためにも、マルキシズムにかわる新しい認識論を提示しなければなるまい。ごまかしては、いけない。
これから文化人は、いそがしくなると思う。古いノオトのちりを吹き払って、カントやヘエゲルやマルクスを、もういちど読み直して、それから、酒をつつしんで新しい本も買いたい。やはり弁証法に限る、と惚《ほ》れ直すかも知れない。そうでないかも知れない。    
                          
 「多頭蛇哲学」<青空文庫>より

 太宰が「論語」を引用し、それに言及するときには、アンチテーゼを多分に含ませている。その好例が、「巧言令色」という言葉である。「論語」は、「子曰、巧言令色鮮仁」(学而第一)といって、言葉巧みなものには道徳上の理想である仁が欠けている、と言う。だが、太宰は、作家として、倫理道徳よりも、「巧言令色」を選びとらなくてはならないと主張しているのである。

君、僕は覚悟している。僕の芸術は、おもちゃの持つ美しさと寸分異るところがないということを。あの、でんでん太鼓の美しさと。(一行あけて)ほととぎす、いまわのきわの一声は、「死ぬるとも、巧言令色であれ!」
         「もの思う葦」(「ふたたび書簡のこと」 昭和10年)<青空文庫>より

私は、死ぬるとも、巧言令色《こうげんれいしょく》であらねばならぬ。鉄の原則。   
                       「めくら草紙」(昭和11年)<青空文庫>より

 太宰の「正義と微笑」(1942〔昭和17〕年)にも「論語」が登場する。主人公の少年が大学の漢文の時間に「論語」の冒頭の句をならったことを、日記の形で書いている。これも「論語」のなかでも有名な「有朋自遠方来、不亦楽乎」(学而第一)を題材にしている。

 きょうの漢文の講義は少し面白《おもしろ》かった。中学校の時の教科書とあまり変りが無かったので、また同じ事を繰り返すのかと、うんざりしていたら、講義の内容がさすがに違っていた。「友あり遠方より来《きた》る。また楽しからずや。」という一句の解釈だけに一時間たっぷりかかったのには感心した。中学校の時には、この句は、ただ、親しい友が遠くから、ひょっこりたずねて来てくれるのは嬉《うれ》しいものだ、というだけの意味のものとして教えられた。たしかに、漢文のガマ仙《せん》が、そう教えた。そうして、ガマ仙は、にたりにたりと笑いながら、「たいくつしている時に、庭先から友人が、上酒を一升、それに鴨《かも》一羽などの手土産をさげて、よう! と言ってあらわれた時には、うれしいからな。本当に、この人生で最もたのしい瞬間かも知れない。」とひとりで悦にいっていたものだ。ところが、それは大違い。きょうの矢部一太氏の講義に依《よ》れば、この句は決して、そんな上酒一升、鴨一羽など卑俗な現実生活のたのしみを言っているのではなく、全然、形而上学《けいじじょうがく》的な語句であった。すなわち、わが思想ただちに世に容《い》れられずとも、思いもかけぬ遠方の人より支持の声を聞く、また楽しからずや、というような意味なんだそうだ。的中の気配を、かすかにその身に感覚する時のよろこびを歌っているのだそうだ。理想主義者の最高の願望が、この一句に歌い込められているのだそうだ。決して、その主人が退屈して畳にごろりと寝ころんでいるのではなく、おのが理想に向って勇往邁進している姿なのだそうである。また楽しからずやの「また」というところにも、いろいろむずかしい意味があって、矢部氏はながながと説明してくれたが、これは、忘れた。とにかく、中学校のガマ仙の、上酒一升、鴨一羽は、遺憾ながら、凡俗の解釈というより他《ほか》は無いらしい。けれども、正直を言うと、僕だって、上酒一升、鴨一羽は、わるい気はしない。充分にたのしい。ガマ仙の解釈も、捨て難《がた》いような気がするのだ。わが思想も遠方より理解せられ、そうして上酒一升、鴨一羽が、よき夕《ゆうべ》に舞い込むというのが、僕の理想であるが、それではあまりに慾《よく》が深すぎるかも知れない。とにかく、矢部一太氏の堂々たる講義を聞きながら、中学のガマ仙を、へんになつかしくなったのも、事実である。やっぱりことしも、中学で、上酒一升、鴨一羽の講義をいい気持でやっているに違いない。ガマ仙の講義は、お伽噺《とぎばなし》だ。  
     「正義と微笑」(「四月二十六日。水曜日」の項より) <青空文庫>より

 また、もう一つの作品にも太宰は、「論語」学而第一の「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人知而不慍、不亦君子乎」という孔子の学問論に触れている。
 『新釈諸国噺』(昭和20年)所収の「貧の意地」(1944〔昭和19〕年)である。主人公の原田内助を紹介する長いセンテンスのなかで、「論語」をひらいて学而第一と読むと必ず睡魔に襲われると書かれている。「貧の意地」の元になった『西鶴諸国ばなし』のなかの「大晦日あはぬ算用」は、長屋住まいの貧乏人が小判をめぐって引き起こす騒動と武士の意地が書かれている。内助の功のある妻がいて、彼女が機転を利かす場面もあるが、原文は非常に簡潔な文体である。そこを、太宰の饒舌体で膨らませて原田内助という人を語っている部分である。

 容貌《ようぼう》おそろしげなる人は、その自身の顔の威厳にみずから恐縮して、かえって、へんに弱気になっているものであるが、この原田内助も、眉《まゆ》は太く眼はぎょろりとして、ただものでないような立派な顔をしていながら、いっこうに駄目《だめ》な男で、剣術の折には眼を固くつぶって奇妙な声を挙げながらあらぬ方に向って突進し、壁につきあたって、まいった、と言い、いたずらに壁破りの異名を高め、蜆《しじみ》売りのずるい少年から、嘘《うそ》の身上噺《みのうえばなし》を聞いて、おいおい声を放って泣き、蜆を全部買いしめて、家へ持って帰って女房《にょうぼう》に叱《しか》られ、三日のあいだ朝昼晩、蜆ばかり食べさせられて胃痙攣《いけいれん》を起して転輾《てんてん》し、論語をひらいて、学而《がくじ》第一、と読むと必ず睡魔に襲われるところとなり、毛虫がきらいで、それを見ると、きゃっと悲鳴を挙げて両手の指をひらいてのけぞり、人のおだてに乗って、狐《きつね》にでも憑《つ》かれたみたいにおろおろして質屋へ走って行って金を作ってごちそうし、みそかには朝から酒を飲んで切腹の真似《まね》などして掛取《かけと》りをしりぞけ、草の庵も風流の心からではなく、ただおのずから、そのように落ちぶれたというだけの事で、花も実も無い愚図の貧、親戚《しんせき》の持てあまし者の浪人であった。  

                           「貧の意地」<青空文庫>より


「貧」「陋」への関心

 古来の宗教・思想では、「貧」「乞食」というような概念は、むしろ神に近づくことのできる概念である。「新約聖書」(マタイ書5章3節)には、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」とある。物質的に恵まれず満たされない心を持っている人は、これからイエスの語る王国の希望と慰めを受けることができる、という意味とされる。
 先に引いた「論語」学而第一の一文は、直接には物質的な「貧」を語っているわけではない。だが、やはり、世にむかえられることなく、うらぶれた生活をしている状況では、顔回の逸話と同様である。つまり、太宰が「貧の意地」で、主人公原田の生活は風流ではない落ちぶれであるということを強調するのは、世に容れられることなく「陋巷」に暮らす賢者の生きざまと価値観が、「論語」以降の東洋にあったからだった。それを否定するために落ちぶれの浪人の個性を饒舌に語ったのである。太宰文学は、「論語」や「新約聖書」のようには、禁欲や逆境を称えず、近世以降の現世的な価値観をかかげているのである。
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 また、太宰は、「陋巷」だけではなく、「陋屋」「茅屋」「草舎」という言葉も用いている。特に三鷹入居後の小説「鴎」(1940〔昭和15〕年)に、「陋屋の机に頬杖ついて」「畑の中に在る」「私の陋屋」などと書いているほか、しばしば作中で自宅を謙遜して表現している。「乞食学生」(1940〔昭和15〕年)には、自宅が三鷹駅から「歩いて二十分以上かかる畑のまん中に在る」さまを書く。随想「金銭の話」(1943〔昭和18〕年)では、自分は「あばらやに住んでいる」と書いている。
 彼には「論語」だけではない中国文学の受容もあり、作品化された一例に、「清貧譚」(1941〔昭和16〕年)がある。原典は、『聊斎志異』のなかの「黄英」という菊の精である女性の名前が題名となった説話である。
 太宰の「清貧譚」では、菊作りを趣味としていた主人公才之助は、菊の精である女性とその弟と出会う。清貧を誇っていた才之助であったが、妻とした女性の願いを受け入れ次第に菊作りによって豊かになり、その生活になじんでいくのである。
 原文「黄英」には、主人公の生活をあらわす「清貧」「陋」「茅」の言葉があり、その漢語、漢字から太宰が着想を得て物語化したとうかがえる。太宰における、「貧」「陋」という物質的な貧しさの概念への関心が感じられる作品である。


「陋巷」に在った太宰

 太宰は、自身のことを書く小説や随想にも翻案ものにも、「貧」「陋」という概念をしばしば用いているわけである。そこから考えれば、「陋巷」の生活は、太宰が文学において題材にしたかったことのひとつであることには違いないであろう。
 だが、太宰が「貧」の概念を、中国文学から持ってこなくてはならなかったのはどうしてなのだろうか。当時にしては平均的な郊外の借家に住んで、そこを「陋屋」「あばらや」と書けることは、そもそも大家に生まれた者だからではなかったかと思わせる。ともかくも、自国の物質的な貧しさを指摘するのに、観念的な「陋巷」の言葉よりほかになかったということのようだ。太宰自身は、分家されて生家とは距離をおいたつつましい生活であるかのように振舞っていたようだ。だが、実際には、彼は素封家であった生家からの支援を得て小説に専念していたのであった。

 親しい友人であった亀井勝一郎は、太宰が「ナロードニキ的感慨」によって、あえてありふれた借家住まいをすることで心安らかに過ごしていたと書いている。これは、三鷹時代に親交が深かった評論家による希少な証言として参考になる。だが、それは、ごく親しい者にはそう見えたことであったろうが、一般読者には見えにくいことではなかったろうか。『新釈諸国噺』は、太宰文学のなかでも人気を集めた作品集だったが、このなかには、「貧」や「落ちぶれ」が非常に良く描かれている。武士の心意気を描く「貧の意地」も、よく書かれているだけに、本当には餓えているのではなく、何か別の事情を持つ作者の姿をくらませてしまう。

 しかし、「論語」が少しばかり作中に差し込まれていることで、ようやく戦時下に作家活動をした太宰の実態が透けてくる。太宰は、「論語」の政治的な面をほとんど無視し、学問を極めることでによりラジカルになる孔子のような人間像とは真逆な作中人物を造形したと考えられるからである。太宰が、陋巷の生活を描いて日本の社会をとらえ、それを小説に組み込もうとしたのは、革命や世直しができないにしても、せめて自国の実態を把握して書き留めておきたかったからではなかったかと思い至ってくる。
 太宰文学に潜む「論語」へのアンチテーゼは、倫理的に表現されている「論語」についての太宰独自の解釈や翻案でさえもあるのではないだろうか。彼が語ろうとしたのは、陋巷にあった顔回のような賢い弟子ではなく、陋巷の原罪を持つマリヤだったのである。

〔参考図書〕
『無頼派の祈り』 亀井勝一郎   1964年 審美社
『「論語」の話』  吉川幸次郎   2008年 ちくま学芸文庫
「タンポポの花一輪の贈り物」渡部芳紀『学士会会報』№876 2009年5月



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