Dioの会の始まり/Blog

 Dioの会、実行委員y.s.によるブログです。 (y.s.略歴 ⇒ 大正100年のページ)

Dioの会の活動と折々の感想を、ブログに書いています。


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2017年10月11日 15時59分
ノーベル文学賞の季節

 ノーベル文学賞の発表は、今年も感慨深いものでした。日系イギリス人小説家、カズオ・イシグロの受賞でした。彼は、5歳のころ両親と共にイギリスに渡り、イギリスの教育を受け、国籍を取得しています。初期には、記憶の中の日本を舞台にした作品を書きました。やがて、作中人物の回想を中心にすすめる手法は持続させながら、作品舞台は日本にこだわらなくなります。「日の名残り」「私を離さないで」など、世界的に高い評価を受けている小説があります。

 ノーベル財団では、作家の出身国を出生国とする方針とのことで、日本出身のイギリス人作家が今年のノーベル文学賞受賞者ということになります。本人は、受賞にあたり、家庭では日本人の両親と日本語を話しながら育った、自分の一部は日本人であると語っているそうです。

 

 日本文学とはどうあるべきかという、近代以降に生じた命題のひとつの回答が、イシグロ文学であるという見方ができるのかどうか。そう考えてみると、非常に関心が惹かれます。


カズオ・イシグロ - Wikipedia
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2017年08月10日 22時18分
熱帯夜に想うこと

日中は35度というような猛暑日があります。熱中症とやっかいな冷房病から、どのように身を守ったらいいのか、大きな課題です。

特に、就寝時にはどのようにしたらいいのでしょうか。

冷房嫌いには、エアコンが存在してなかった時代にもどり、そんなものなくてもいいような気がするものです。ですが、発汗で脱水症状になる恐れがあります。

もうかなり以前のことですが、もっとも頷ける答えをいただいたことがあります。「窓を開けて寝ると、夜間の気温差があり、風で喉をやられることになる、だから、クーラーを皮膚温に近い30度くらいの微風にして休むのがいい」そうです。開業医の先生で、ご高齢の方でしたが、ご自身がそうなさっているとのことでした。

お若い勤務医の先生方は、「冷房病の方には夏場は辛い季節ですね」、「設定温度はそれぞれの好みだから」等々と言われます。弱者への寄り添い方では、いまひとつキャリアの違いがあるようにうかがえます。

 

誰しも長く生きていると、次第に、体調維持が難しい健康弱者になります。

 ですから、我々の誰でもが、いずれ高齢者のための施設にお世話にならないとも限りません。今日では、ご専門の方々のお知恵で、施設では、ほどよい室温管理ができているのだろう、と思うわけですが、・・・・・

 

 今日の実態としては、老人ホームの中にいて熱中症になった高齢者が、救急搬送される事例は多々ある、とのことを聞きました。

 施設では、冷房は27度から28度などの基準はあるようです。ですが、職員、つまり、風邪もひかないような若者から脂がのった中年までのスタッフが、部屋が本当に冷えているかどうか、熱中症の事故を起こさないように、各自の体感で管理しているというのです。彼らが室温高めと判断すると、すぐに、設定温度をさげるか、あるいは大風量で気流を起こして部屋が冷えるようにします。そして、ほかにも仕事がありますから、後からその部屋がどのような状態になったかの確認は等閑にされます。

 ところが、高齢の入居者は、もともと細かなエアコン調整は苦手です。冷風に耐えられなくて自力でスイッチを切ってしまいます。そして、熱中症になってしまう、ということのようです。

さらにいうなら、スイッチを自力で切れない人は、慢性的に冷房病や夏風邪の症状に悩まされることになります。違うのでしょうか?

 

何につけても、キャリアを積んだ後半生における発言には注目されます。

文学のことを考えているのでした。作品をどのように評価するかについては、様々な観点があるでしょう。ですが、若書きや働き盛りの代表作だけではなく、熟年から晩年までの文学を読みたいものです。


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2017年07月31日 16時43分
蘆花文学セミナーについて

 

 蘆花文学セミナーが、蘆花恒春園で開催されています。5-7月の第20回の講座は終了しましたが、次は、10-12月に行われる予定とのことです。

徳冨蘆花は、明治40年に東京郊外に移り住んだ作家で、約20年を現在の世田谷区粕谷で過ごしました。来年は生誕150周年になるそうです。

 

蘆花文学セミナー 「自然と人生」


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2017年07月09日 07時41分
「たすけてくださあい!」

 自分のような世事に疎い者が、超高齢者の代弁ができるかのように、前々回の記事に書いてしまったのは僭越でした。まあ、挑戦してみます。(伝聞を中心にしての構成です。)

 

 持病を抱えながらも長く生き抜いてきて、閑静なホームで養生する段をむかえた方々です。対応するベテラン職員は、奮闘なさっています。

 

「たすけてくださあい、たすけてくださあい!」

「痛い、痛い、横にならせてくださあい、たすけてくださあい」と食堂で配膳を待ちながら、声を上げている方がいます。

ご病気のために座位が辛いのでしょうか。適切なリハビリがすすんでないのでしょうか。素人にはわかりかねますが、しきりにスタッフを呼ぶ声が止まりません。

 

 「立ち上がらないで、危ないから」

入居者は、自分が救われたいというだけではありません。車椅子からの立ちあがり・転倒リスクのある方への注意の声掛けが、専門職よりもタイミングがよくなることもあるそうです。

 

 スタッフの入れ替わりがよくあり、若手が多く入ってくることがあります。高齢者によくある病気について、「(聞いたことない)それどういうことですか」「どういう処置をするのですか」と、集団で質問を始めることがあるとか。

 当事者は、悪寒のために、口々にいうそうです。

「上司に聞きなさい」「自分で勉強してから来なさい」「家で寝ていたら治る」

「殺されるう」という声を上げている方も、いらした記憶があります。

「あなた方、お金もらってやっているのでしょ」という、叱咤もあるそうです。

 昨今の超高齢者は、お金を払いながら、若手職業人の養成に携わらなくてはならないようです。

 

そんなこんなの社会参加が酷に感じられるとき、なんとかして自宅療養に戻りたくなるのでしょう。そもそもホームは医療との連携があり、レクレーションも用意されているなどの利便性があります。けれども、病歴の長い者は、心因性のストレスやショックでも深刻な発作を引き起こす懸念があります。
 加齢や病気で周囲のことが見えなくなる、わからなくなる、というのはあることです。それに対応する介護職に、人の痛みがわからない者が就くのは、どういうものなのか。彼らが仕事に「慣れる」ことに、人々の関心はあるのかもしれません。それで、高齢者の“静養”は、どこへ行けば可能になるのでしょう。

 ともかくも、高齢者の病気、成人病、生活習慣病のことは、ネット検索できますよ。

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2017年07月03日 22時30分
シニアライフ考

 昨今、リタイアする時には、何千万場合によっては億(ひえぇぇ)という貯金を持っていなければならないのだそうです。そうでなければ、その後も働き続けて、年金では足りない老後費用を補わなくてはならないそうです。経済アナリストによって盛んに行われている試算は、眼から鱗というか、とてもとても参考になります。高齢になって、こういうことにこんなに出さなくてはならないのかと驚きます。ですが、社会科学として、それなりの根拠がある学説なのでしょう。

 

人文系の自分の場合、リタイア後の生活といえば、仕事でも趣味でも、好きなことを好きなようにするというイメージしかありませんでした。細かい計算は抜きにして、そういう生活が心身の健康を保ってくれると思いました。自分にとってかけがえのないことですし、医療費の面で国庫を脅かす負い目がなくなります。退職金は三年で無くなるという言い伝えは、教訓として受け止めながら、です。

 

そして、数年のシニアライフが経過しました。想定通りなのは、病院には滅多にかからないことです。思うようには時間を使えないことなど何かと課題を抱え、改めて教訓が身に染みることはあります。

それでも、稼ぎにでる動機は失ったままです。運よく、怖れていたほどには、お金はかかってないからです。不安に陥るほどではありません。

 どのような生き方がいいとは決められません。ただ、より充実した日々でありたいという思いは、強くなって来ているのを感じています。(Dioの会、細々とつづけましょうね)


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2017年07月01日 14時43分
“高齢化社会”の正論は?

 そもそも、高齢化社会というのは、様々なリスクをはらんでいると、問題視されるのが普通です。受給者が増加することによる年金破綻、医療費や介護費の国の負担の増大、子の負担となる親の介護、または老々介護,、認知症ドライバー等々です。たいてい、せいぜい40歳くらいの働き盛りの人たちの観点のようです。

 

 それで、長寿がもたらすだろう事業の達成や人知の進展という正論は、どこへ行ってしまっているのでしょうかね。

 年金生活者は、いかに足腰が衰え生活の質が低下したかという話題のほかは、発言しないのがマナーというような風潮も感じられます。それが、現役世代による老後不安を助長している一因かもしれないのですが。

 

 文学においては、後半生の作品には、作者の人生というものの集約が込められていると目されます。長寿社会は、文学が新たな局面を迎える可能性に満ちていると考えてもいいでしょう。

 『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子著)があります。さらに、超高齢者と呼ばれる世代の声が高まり、その声を聞く耳が増えてくれることが期待されます。年寄りの繰り言とか、何にでも過敏になるのは高齢者の特徴だとか、そういうことですべてを片付けられるとは限りません。

 

 私事ですが、佐藤氏に年齢的に近い母が、健康上の理由で病院や施設にお世話になり、気に障ることがあるたびに、「帰ります。もう来ません」を連呼します。話を聞いて、よほどのことがあれば代弁するから、となだめるのが日課になります。

 

 よく、親を老人ホームに入れるとか預けるという表現をききますが、(稼いでいる人は違うなと思うばかり)、一体、親の有料老人ホームの費用を賄える子・孫というのは、どのくらいの割合で居るのでしょうか?

 お財布は別々で、書類の署名以外のところの記入やら、買い物や車の運転、通院介助等々、煩雑なことをしてはいますが、「自分の家に自分で帰るのなら、本人の責任」というのが、本当のこと。ただ、家族と一緒に帰るといわれると窮するわけです。

 

 体調管理と介護において家族は素人ですから、病院に次いで各介護施設を利用するのがいいのではないか、という考えはあります。在宅時の良い高齢者サービスに出会えることは難題ですし、現況の住宅そのものが、介護を必要とする者のための洗面所や浴室などにおいてスペース等物理的条件がたりません。

 

それでは、各介護施設が、そんなに頼りになるものかどうか。

最新の施設は、スタッフが揃っていて、清潔感のある必要設備があり、居室からの景観にも優れています。第三者がみても快適です。しかしながら、「任せてください」「施設に慣れていただきます」と主張されればされるほど、(それで、アンケートに記入しただけで、当人の生活歴やら病歴が伝わり切るものだろうか)という心境になります。

 慣れれば大丈夫、と言われても、高齢者において、「慣れる」とは、どういうことなのか、素人には皆目わからないのです。

 

 たいてい、病後に入居なさった方は見た目にも快復なさり、歩行の練習もすすむようになり、お顔も表情豊かになって来ます。リハビリ・レクレーション施設としては、理解できて来ます。医療と介護のおかげであると同時に、本人の回復力なのでしょう。

 個人差はあるでしょうが、もう、施設から身動きできなくなった、という前に、自ら判断や決断をする猶予があるのではないでしょうか。まだライフワークを抱える者や、他人のなかで窮屈を感じる者には、自分らしい生をまっとうできるのはどこなのか、選択の自由というか、考える権利があるのだと思うよりありません。

 

 「終生」の介護をうたう特養老人ホームが、入居待ちが何倍とか言われています。経済的理由なのだそうです。「終生」のためのホームがお手頃費用であることは、なるほど誰にとっても安心ではあります。ですが、入居者本人が自分らしく晩年を過ごせるために人気が高い、わけではないことが、物足りないのは否めません。

 

 さて、また、ネットのニュースを見ますと、「介護人材」の確保という文字がありました。誰のための介護なのか、さまざまな観点なり、立脚があるものです。

有能な人材により、個々が自分らしく生きるための最良策を講じるという考えはない、らしい。高齢者だけではなく、誰でも、自宅に動線のいい洗面所や、災害・発病時における最適なシステムがあっても、邪魔にはならないと思うのですが。

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2017年05月17日 11時51分
会の活動についてなど

 当、Dioの会実行委員である自分は、同時に会のシニア学芸員を名乗ることにしました。いうまでもなく、シニアというのは、引退したという意味です。会の活動といえば、当面、縮小することが話し合われていて、Web発信だけになりがちです。一線から退いた学芸員の視点があってもいいかな、くらいのことです。

 

 コラムは継続して書こうとしていますが、時間がなかなか取れないでいます。

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2017年05月04日 10時23分
観点の違いほか、様々な“違い”について
 

 退役したシニアが、議論に割り込んで、現役の方々の擁護ができるかどうか怪しいものです。ただ、このごろ、世の中の仕組みについて考えることがあり、自分の観点を意識することがあります。

 

 文化財の保存と活用の問題というのは、あまりにも古典的なジレンマです。あと、専門職が専門○○であるのか、一般のおじさんが文化を解しないのか、これも水掛け論の最たるもので、今さら、というようなことになります。

 

 任期が何年で、異動や更迭がさらに短いスパンで待っている、というようなご職業と、政策や政権に変化があっても、あまり関係ない専門職系という違いは、社会的にあります。学芸員の場合は、分野や所属先によって、一般職、専門職、総合職、研究職等々にみなされるなど、一旦、就業すれば、その職場の在り方に沿った任務があります。当人の問題とは限らない学芸員の仕事についての論議は、あってもいいのかなという気がします。

 

 あと、事業目的の違いというのがあります。平成20年に設置された観光庁については、果たして長年の歴史がある文化庁より、一般の認知度が高いのかどうかは知りませんが、ともかく、HPを開いてみれば事業内容の違いは伝わってきます。観光型博物館とか、そういうことも古典的観点であり、文化庁と観光庁のかかわりについて、近年、考察が深まっているのかどうか、寡聞にして存じません。

 学芸員は、事業の企画・実施を調査研究に基づいて行うエキスパートです。学芸員は国家資格であり、それを活用しないのは、国家的損失になります。そういう能力を持った人員により運営を成り立たせている事業所や地域というのは、全国に様々なレベルで存在しています。そのようなところを、要職にある方々が視察なさいまして、さらに、後輩達が力を発揮できるような施策がとられることを期待するものです。


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2017年04月19日 09時16分
大変だぁ、超重要な「観光マインド」
 

 今朝、ネットの記事を拝見しただけで、二条城については行ったことがあって好印象を持っているだけ.。論争になっていることの詳細にも、不案内ですが。

 地方創生という、とても重要なお仕事の代表職でいらっしゃる方が、不思議なご発言をなさっているのを発見いたしました。
 重要文化財の二条城では、「法律で決まっているわけでもないのに」「学芸員の判断で」花も生けられなかったというのです。あと、「普通の観光マインドが全くない」と述べていらっしゃいます。


 例えば、病院や施設などでも、生花の持ち込みを断っているところがありますし、役所などでも、机上でお茶などを飲むことを禁じる場合があります。そういうのは、法律が決めるものなのでしたか? そういうところは、「普通の」「マインド」がないと言われなくてはならないのですか? 
 運営主体や専門職の判断というのが、まるきり認められないものだというのであれば、社会ってどうなるのでしょうね?


 記事

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2017年03月19日 20時55分
エレベーター・ドアがピシャンと閉まる、「危ないのすきだねえ」

   郊外の永住型マンションで、エレベーターのドアが、高齢者と車椅子を押している者には非情な速度でピシャンと閉まることがあります。また、普通の人には何でもないけれども、車椅子には乗り越えるのが困難な段差が、室内や共用の駐車場などにあったりします。

子供や高齢者が多く住んでいるのに、です。いえ、ビジネスマン御用達の宿舎だったとしても、事業のスピードアップを競う企業内にあるのではありませんよね・・・。

バリアフリー新法というものがありますが、基準に合致させるのは努力義務によっているとのことです。つまり、事業主体の意識の問題になるようです。

 

 病院や施設のエレベーターのドアは、思いやりを持ってゆっくり閉まるように調整されてきています。高齢者や障害者は、普通の住宅ではなく、相応の施設で過ごすのが無難かも知れないという考えにはなります。

 

しかしながら、医療と介護の仕組みはややこしく、サービスを使う側にはわかりにくいバリアがあります。 どのようにアプローチしたらいいのか、何に使えるのかわけわからない、“注文の多い料理店”のような・・・。

何だか、あちらもこちらも、ストレスがあります。

 

ですが、ごく普通の街のなかで、当たり前のことにホッとすることがあります。

例えば、車椅子を押して入って買い物ができる店舗は有難いものです。介助する者とされる者が一緒になって、品物を選ぶことができます。

 それから、病院でも施設でも店舗でも公園でも、車を入れやすい駐車場があると、これほど嬉しいものはありません。そして、どのようにして料金を徴収しようかということではなく、駐車場から建造物入口まで、車椅子やベビーカーが移動することが考えられていたら、さらに喜ばしいことです。 

 誰にでも優しい設計をユニバーサルデザインというのだそうです。ともかくも、生涯にわたり住みやすい街・エリアのコンセプトが成長してもらいたい、近ごろそんなふうに思うようになっています。

 

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2017年03月05日 22時04分
郊外の果物畑


 野菜よりは、樹木の方が、手が掛からないために、郊外には果樹園や庭木の苗木を育てる生産緑地が残されているのだそうです。住宅街の意外なところに、果樹をみつけることがあります。

 昨秋は、そんな果物畑をながめながら、蜜柑と柿が登場する文学について読みすすめてみたい気持ちを持ちつつも、なかなか思うに任せませんでした。先ごろになってようやく、メモリアル・ミュージアムのコラム3に、果物についてとりとめないことを書いて載せたところです。

 

 想えば、地元・近隣には、成蹊学園と杏林大学がありました。果実に縁のある地域であったのです。どちらの学窓の名称も中国の果実にまつわる故事に由来しています。

 成蹊学園は、「史記」で引かれている「桃李不言 下自成蹊」という諺からきています。この句は、桃李の木がそうであるように、立派な人物の元には、自然と人が集まり蹊(こみち)を成すという意味だそうです。

 杏林大学(病院)の名称は、古代の医師が貧しい患者からは治療費を受け取らないかわりに杏を植えさせ、それがいつしか広大な林となったという伝説によっています。杏は、東洋医学では喘息の薬として用いられていました。

 

 桃李成蹊については、閲覧した限りでは、美しい花を咲かせ美味しい実をならせる桃李を、人徳ある人物になぞらえていると解説されています。ですが、果物は古代には、食用より薬用だったという説があります。桃李の甘美さよりは、薬効などを念頭にして読んだほうがピリッとくるのですが・・・。どなたかご教示願います。

 ともかくも、ただただ建売住宅が増殖し続けています。もの言わぬ果物畑が、果敢に生き延びてくれるといいのですが。

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2017年01月03日 19時35分
年が明けました

   一年前の年明けに、「無計画でどこに行くかわからないコラム」という表現で、危ぶんでいたのは、国民文学について考えるコラム3のことでした。もっと言えば、どういうふうに進めたらいいのか自分にはまるきりみえてない、ということでした。

 それが、昨年の秋冬にボブ・ディランに助けられることになりました。ノーベル文学賞というイベントを契機として、迷える羊が少しばかり導かれたのです。

 

 近代日本の国民文学は、小説を念頭にいわれがちで、また、今日においても、近代現代の文学の中心は小説であるという言説が多々あります。

 特に、童謡や小唄は、文学の中心から外れているとみなされているのが実情です。明治期の福沢諭吉「(シャミセンにのるような歌は)野鄙」発言(当ブログ2012.6.11.で触れました)に、どのような影響力があるのかないのかは見当がつきません。日本国通貨一万円札に否定的な一言を放たれては困るので、こういったものは文学でないことにしておこう、という思惑があるのかないのか、大して意味はないことなのか、まるきりわかりません。

 ただ、自分は、童謡「赤とんぼ」を国民文学だと感じているのですから、気にかかってしまいます。小説についてやらないわけにはいかないのですが、関心が詩に向かいがちです。

 

 それが、2016年のノーベル文学賞が、詩人に与えられたのです。これで、長たらしい小説・散文に眼を向けなくてはならないという強迫観念から、まずは解放されました。(ホッ)

 歌謡の詩が対象となったので、自分としては、近代詩人による童謡に再び思いを馳せる好機でした。ディランの半世紀以上に渡る活動は、大正期以降の一世紀に及ぶ文学を見直す指標にもなります。さらに、文学と思想という歴史的な課題も再浮上してきました。ディランの受賞スピーチは、多くの示唆を含んでいます。

 というわけで、何やら、もりだくさんなものが胸中にこみ上げている新年を迎えることができました。感謝の念を覚えますが、巡り合わせの妙です。自分のコラムがこれからどのような方向をたどるのかは、やはり風まかせになりそうです。


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2016年12月11日 10時12分
詩人欠席で授賞式が行われ、名言が披露される

 今年は、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した記念すべき年となりました。

例年12月に、ストックホルムでノーベル賞授賞式は行われます。今回、ボブ・ディラン本人は出席せずに、友人の歌手パティ・スミスによる名作「激しい雨が降る」の歌唱がありました。代読されたスピーチでは、受賞に謝意を表し、文豪シェークスピアは劇作にあたり、これは文学か否かという疑問を思いもしなかったに違いない、自分もまた「この歌にベストなミュージシャンは誰か」というようなことしか考えない、「私の歌は文学だろうかと自問したことはない」と明言(名言)しました。
   ⇒ ニュース1
/ 2 / ディラン スピーチ全文 / パディ・スミス歌唱「激しい雨が降る」

式典に欠席した“シャイな詩人”を、心より祝福したいと思います。

受賞が決定した後には“沈黙”を守っていましたが、それも “金”でした。

 

 当サイトでは、社会派や国民文学へ関心を示しています。もう少し、何か評らしいことをひねり出す課題もあるかもしれません。

 大国の文学には、粗放な中にいいものが生まれるところがあるようにうかがえます。そして、かえりみれば、島国の色々な気遣いから、日本文学が育てられるのでしょうか。


 追記:メモリアル・ミュージアム/コラム3の10/24に続き12/14、12/30にディランのことを書きました。


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2016年11月29日 16時05分
食のことと、元気を失いつつある人々

 前回の続編を書かないわけにいかなくなりました。我々の世代の弱体化を、痛切に感じるからです。介護疲れと持病の合併症が起きるからでしょう。年寄りが入院してくれている方が有難く、介護度が上がると様々なサービスが受けられるという期待があるらしいのです。それが、今日の介護サービスの多様化の源なのでしょう。

 

 自分の実感としては、昔、知人に聞いたアルバイトを思い出します。ただ、年寄りと一緒に留守番をしているだけの仕事だそうです。もしも、そんな何でもないサービスで確実なものがあって、所用のために留守をする2,3時間でもお願いできるなら、まずは助かると思います。

 

 清潔感のある施設で、毎回の食事を提供してくださって、昼夜の安心安全を確保していただき、回復への手助けをしていただけるというのは、どんなにか有難いことかと思っていました。リハビリ施設というのは、実際にそうなのです。

ただ、高齢者は、ささいなことにこだわって、順応してくれません。昔気質で他人にお世話になることを窮屈に感じる年寄りは、家族にそれを逐一訴えます。「こちらには何もいいことはない。」「帰る。」「帰る、帰る。」(自宅に、故郷に、古に…)と言われる度に、ずきんときます。

 

自宅では好んで食べていたお粥も、病院や施設では毎食同じプラ容器に盛られてでてくるので、…といいます。誰が悪いわけではないのですが、栄養価が高くバランスのとれたメニューも、当事者に食べてもらわなくては何も意味がありません。

 それで、食べやすいプチトマトや葡萄、蜜柑などの果物、柔らかめの炊き込みご飯、卵焼き、鮭やジャコにゴマ、海苔のオニギリなどをこちらが持っていくことになります。見た目も可愛らしい容器に詰めるだけで大変な手間となります。自宅に居てくれれば、コンビニやスーパーのシニア向け惣菜にお世話になれます。ですが、お弁当になる料理として、カルシウムなどを考慮したメニューを、独自に工夫しなくてはなりません。それでも、食事というのは、自分のためにもなるわけですから、まあ、やりましょうという気にはなるのです。

 

けれども、個々の人によって事情が違うことが大きな問題として横たわります。

年寄りとのランチやドライブは息抜きになるといいますと、怒りを覚える方もいらっしゃるかも知れないのです。過労で自分の通院のための運転もままならなくなったという例は、身近にもあります。

また、今日では、食事制限をしなくてはならない病気や疾患の方が主流だということも再認識されます。食べすぎてはいけない方々には、ほかの人の食べ物が気になってならないことがあるのです。立派なお年寄りに、率直に、こちらにも頂戴、と声を掛けられてしまいます。何とも言えません。

病院や施設に食べ物を運ぶことには、実は大変な気遣いがあります。

 

 明治のころ、患っていた正岡子規は、自分に適した食物として柿を好んでいました。一晩に七個を食したと何かで見ました。最近よく行われているような糖質制限を心掛けている方なら、老いも若きも、卒倒しそうなくらいの数です。子規には柿と蜜柑を詠んだ俳句が多くあったなあ、と思い起こしながら、その鑑賞にも気迷いが生じてしまっている、というのが近頃のことです。

   柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

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2016年11月16日 09時51分
不夜城の若くて元気な人々

 人は老いと死に勝てることはなく、また、生こそが多難にすぎるものです。それでも、まだ命を留めているという、達成感や安堵感によって、いかされることもあります。

 たまには、看病や介護に明け暮れている人たちへの情報交換として書きましょう。

 

 高齢者である家族を、しばしば救急外来に連れて行くことになります。付き添っているこちらもシニアながら、何度体験しても気が動転します。そして、大病院に働く人々の若さに眼が眩みそうになります。いや、その元気さが頼もしい限りなのです。

 

 肺炎や感染症を恐れて、高熱を出した高齢者を救急外来に連れて行ったとしましょう。「単なる風邪の症状だ」と医師は言って、検査結果を待つ間に食事を摂ってもかまわないことになります。

それから、こんな医師や看護師や相談員のこんな診断やらご意見やご下問があったことなど、微に入り細に入り書き綴ったとしたら、膨大な小説になってしまいそうです。できるだけ割愛して記しましょう。

命を救ってくださることには、謝意を表しなくてなりません。ただ、病院もまた、社会の一環であることを痛切に感じます。ハードとしては歴史的に築かれた不夜城であっても、次世代の研修施設なのです。さらに、人知は万能ではないので、その治療行為が試行錯誤に似ていることがあります。この分野に疎い者にはそう見えただけなのか、それは、こちらにはわかりません。

 

検査結果がでると専門医は、「天寿をまっとうしたと思ってください」と言います。入院となり、誤嚥を恐れて厳戒令、つまり禁食の元での加療となります。とりあえず、何を食べてもいけないのです。

そこに、老病者が食べなくなることの原因がわからないので研究している、それに協力してもらいたいと言う専門家が現れます。家族としては、回復をめざした治療を優先してもらえると思っていたのですが。

若くて丈夫な人のダイエットには向いているような(つまり食欲減退しそうな)病院食とは関係あるのかどうか?まったく素人には判断がつきません。歯が丈夫な高齢者に、単一な流動食とか、何でも小さなサイコロに刻んだメニューばかりです。一人一人に合わせることが、急性期病院ではできないと言われましたので。それは了承済なのですね。

病気を治すことにエネルギーを傾けているときには、摂食に防御が働くのかもしれないとは思います。ですが、病後にその防御が解消しないケースへの疑問と対策が、なるほど専門的には山々あるのでしょうね。

 

不夜城では、若さと元気のどちらか片方が欠けただけで、不眠になるような気がします。それが、夜間眠ってもらうためには、昼間は起こしておかなくてはならないと、入院患者を車椅子でステーションなどあちこち連れまわします。病人の神経が高ぶって効果がないどころか悪循環になっても、看護師の交代勤務で延々とそれが行われます。昼寝の一時間もさせてくれないのですよ。

 

よく聞こえている者の耳元で、耳が遠い方に対するような若い方の大声が響きますと、混乱が始まることがあります。不眠や不穏に陥る高齢者は、環境への適応力を失っているのだそうです。それをことさらにいうのは、働き盛りの目線からの観察。後半生を視野に入れた人生観からすれば、個人差はありますが、年齢と共に悠悠自適を志向し、社会人を卒業していくものです。適応力の準備がないのは当たり前のような。病気のために、治療を受けるという加重がかかっているときに、これまでに経験薄かった環境に馴染めないのも自然の理。最善の治療を受けられると思って入った大病院自体が、本人の身体にいわばアレルギーを起こさせる存在であったら、どうなのでしょうか。不穏な高齢者に薬を飲ませたり、食事を摂らせたりするのが不得手な(できない)専門職も、プロとして立派に働いているのが社会というものです。介護施設についても、同様のことが懸念されてきます。

壮年者の観点から設けられた施設や介護サービス制度であれば、ダメージを受けている老齢者に合うものなのかどうか、本人も家族もただ逡巡します。それに対して、年齢が高くなると判断力が鈍るという評がありました。無論、お決まりの専門用語もしばしば聞かされました。

 

高齢者の世話は、いわゆる勤務とは違って休暇がありません。常に、滋養のある食品や心身の安息を運んでやらなくてはならないからです。その者が、自宅に居ようが入院・入所していようが、同じことです。「今の季節、柿が一番いいよ」と言われて、いまさらながら医食同源を想います。さらに、世間的な医療や介護のことにも、本人に代わって対応しなくてはなりません。

体調管理や通院介助、付き添いには、時間を奪われます。それから、様々な申請書やら何やらの煩わしくわけのわからない書類が多々あり、それが、次々に、あとを絶たずに襲って来ます。多様なサービス内容は把握しきれないくらいです。

引退して、晴耕雨読のはずの生活が、雨の日も風の日も・・・、それらのことに忙殺されます。こちらの健康管理やライフワークが棚上げ、とか言ってみても無駄なこと。何にしても産業なのですから、金銭や人の命に直結しないことには、感知がなく手薄になります。

 

私事ながら。今年91歳の母親が、複数の病名を乗り越えて、嬉しそうにカレーライスを完食するようになったところです。もともとなにかと過敏症ですが、自分が好むものはよく食べます。以前と同じように野川公園へのドライブも再開しました。入院中に、一句作りましたが、これまでのようにはできないことを悩んでいます。

 

ともかくも、七週間余り不夜城に付き添ったとき、芭蕉の句に老病の焦燥を詠んだものがあることがしきりに思い起こされました。こういう心境にならないうちが華なのだ、という鑑賞もあるように思われてきます。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 

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2016年10月14日 08時31分
ボブ・ディランが受賞、ノーベル文学賞

とうとうボブ・ディランが、2016年のノーベル文学賞を受賞して、そのニュースで沸いています。賛否があるようにも伝えられています。

  国民文学というものと詩の分野に関心をもつ側としては、その時が来たのか、という祝福の気持ちです。うたわれる詩への評価は、時代を変えるかもしれません。

 アメリカの国民的なシンガーそして詩人として、再認識されたのでしょう。さらに、彼が世界的な存在であることを思います。直裁な表現の用い方とか、同時代的な社会観とか、日本の文学にも影響力ありましたし、ありますね。


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2016年09月23日 12時17分
マネーと寄付について
 

 震災で飼い主と一緒に暮らせなくなったワンコやニャンコの生活費とか、大学の記念事業とか、Web上の百科事典など、寄付した方がいいかなあ、と思うことはしばしばあります。ですが、ワンコインを募金箱に落とす以外の寄付をした記憶はほとんどありません。まず、寄付に必要な煩わしいPC操作や文書作成が大の苦手です。さらに、実際の事業と運営に賛同できるかどうかこころもとないからです。

 

 独立性のために一切の広告を掲載せずに寄付で運営していると繰り返し力説されますと、かえって、本当だろうか、と思ってしまいます。いまどき、広告を掲載しただけで、独立性が損なわれるものでしょうか?

 Dioの会のHPは、会費を設定し書籍のPRをしているだけで、広告を掲載しない形態です。それでも、トップのページなどでは、一般社会や近隣への配慮はしないではいられません。下層ページになると、実行委員もしくはひとりの論者として書く傾向が強くなります。どこかのページに広告を掲載したとしても、しなくても、それが目障りかどうかくらいしか、関係ないような気がします。広告広場があっても、フリーなのではないかと思います。

 

 寄付を募るというのはクラシックな方法です。ほかに、運営金あつめはできないのかしら、というようないらないお世話の心理になってしまうのです。

 今年の前半、ヘリコプターマネーというのが盛んに言われました。つまり、建て前などにする餅撒き、のようなもの。与党なり政権が、これから大規模な政策を展開するにあたり、大勢の人を巻き込むための宣伝とも思われます。ですが、元々独立性があるなら、誰でも受け取っていい一個の餅だけを自分の衣服で受け止めて、さっさとその場から立ち去ればいいのに、という気もいたします。まあ、実際にヘリマネ的なバラマキが行われているところを察知するのは、簡単ではないのかもしれませんが。

 ことの運営というのは難しいものです。Dioの会で寄付を検討しても、この程度の知恵がでるくらいです。

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2016年09月14日 14時14分
レトロな妄想にスローな現実
 

 もともと、本は置き場に困るものだから、図書館に頼るのがもっとも良いことだと考えて来ました。それでも、まるきり何も持たないわけにはいきません。

それで、次第に、空想というか妄想のようなものが湧くようになりました。山間に別荘を建てて、ともかく本の置き場に困らないようになりたいものだという願いです。その地で、葉物野菜を育てながら、午後のひととき、読書にふけるのではなく、蔵書の整理をしていたいのです。そして、読む人がいてもいなくても、自分の原稿を書くことをしたい、と思うのです。

 

 さらに年を経てみると、田舎に壮大な書庫だの書斎だの菜園だの、持てる状況ではない現実がありありとしてきます。オンラインでの文献や情報の検索には慣れてきましたし、そういうレトロな別荘は大して意味がないような気もしないではありません。

 ただ、妄想の青い鳥を、自宅マンションの鳥かごのなかに見出すことができるかというと、そういうわけではありません。何かを整理するとか片付けるというのは、ものを捨てることだと知ってはいるのですが、それができない人間性というものがあります。ある意味で文化史を惜しんでいるのだといえば、あまりに口幅ったくなります・・・・。

 

 そのレトロな山荘は、妄想のなかでは、Dioの会の活動拠点のひとつとなるはずでした。現実のDioの会は、ただ、スローに情報発信しています。ともかくも、人畜無害な虚妄は捨てがたいものです。

 

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2016年08月20日 11時11分
眞子さまの進路

 秋篠宮家の眞子内親王が、この9月より、国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科博士後期課程にすすまれ博士号取得を目指されるとのことです。新聞報道などで知りました。

眞子さまは、国際基督大学を卒業後、レスター大学大学院において博物館学で修士の学位を取得なさいました。修士論文は、「博物館におけるオブジェクトの解釈の可能性」帰国後は、東京大学総合研究博物館に、非常勤研究員として勤務なさっています。内親王としてご公務をお持ちなので、勤務は非正規を選ばれたと伝えられています。

 

博物館事業の学芸員(専門職・研究職)としましても、眞子様は望ましい進路のひとつを選ばれているようです。専門家をめざしながら、社会人として研鑽を積まれる姿勢には好感が集まるのではないでしょうか。博物館という学術的にして社会に開かれた事業では、そのような幅のある体験は有効です。

 

ただ、世間一般の博物館事業における職場や職員が、どのように眞子さまを鑑とすることができるかといいますと、運営など様々な課題が横たわるのが現状のようです。そんななかで、眞子さまには、期待の新星になっていただきたいという思いがいたします。


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2016年08月15日 21時07分
新設ブログの紹介

 『三木露風評伝』著者福嶋朝治氏のブログです。
                ⇒ 八ケ岳トモちゃん日記 林の中から天下を覗く
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2016年07月15日 17時44分
ついに、『三木露風評伝』が電子書籍になりました

 長い年月をかけた『三木露風評伝』(福嶋朝治著・三木露風文学館)の上梓です。
 応援してきたDion会の一員として、感慨深いものがあります。⇒
電子書籍パブ―

 追記:コラム3に、評伝への思いを書きました。
     著者からのメッセージ「電子書籍事始め」が届いています。
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2016年05月20日 17時07分
久しぶりにコラムをアップしました

 高山樗牛から、改めて明治期は難しいと思いました。メモリアムミュージアムのコラム3に書いています。
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2016年01月28日 19時18分
本年も抱負を述べます
 

 無計画でどこに行くかわからないコラムを、今年も続けられたらいいなあ、と思っています。 

 国民文学の記憶が覚めて来まして、高山樗牛にたどり着いたところです。メモリアムミュージアムからコラム3をご覧願います。

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2015年12月30日 15時02分
無事に一年が終わります

 今年も、Dioの会HPを閲覧してくださった方々、ありがとうございました。

 お正月休みに入りますが、サイト管理などは従来通りです。

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2015年12月20日 16時57分
電子書籍発刊のお知らせ

福嶋朝治著『童謡「赤とんぼ」あれこれ』
、閲覧自由です。
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2015年09月30日 18時03分
本業のコラムにもどりました

メモリアル・ミュージアムに、コラム3を設けました。国民文学について考えてみるつもりです。
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2015年09月22日 13時12分
“free paper Dio vol.15”発刊のお知らせ
 

 久しぶりのフリーペーパー・ディオ、三木露風文学館からご覧ください。


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2015年09月01日 10時45分
更新中です

Web新聞で、最近のシェア畑について記事を更新しています。

 ⇒ 菜園のたしなみ


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2015年07月14日 17時00分
課題など

 夏休みの課題に、Web新聞をひとつ制作し、既存のものを更新しました。

 何か生活に役立ちそうなエッセイ(試論)が、気になりました…。

  夏休みと瞑想 / 初心者のNISAWebは…/ 演習の下層ページです)

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2015年06月09日 17時06分
夏期休暇について
 

多くの人達は、学生時代を過ぎてから、ほとんどまとまった夏休みをとったことがないのではないでしょうか。いつも、ほんの申し訳の数日の休暇くらいで・・・。

近代作家にも、夏期休暇に大事な原稿を書いたというようなエピソードがあります。これは通常時には、自分が最もやりたい仕事を優先できないから、ということでしょう。働き盛りのうちには、こういうことはあるかもしれません。国民性からしても。

 

けれども、本来、休暇というのは、勤勉さを捨てて、普段とりにくい休養について積極的になることです。それも長期的に休むことで、リセット効果が期待できます。

 

というわけで、当Dioの会では、本年より夏休み体制を導入することにいたしました。

現在、コラム記事の準備を何本かしておりますが、それは出来上がり次第、アップいたします。その後、2、3ヶ月は夏休みといたします。

休暇中も、必要最低限の連絡とサイト管理は行うつもりです。休み明けは、9月を目安にしておりますが、未定です。では、よろしくご理解をお願いいたします。

 

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2015年05月29日 14時14分
ボランティアって何だろう
 

 博物館事業では、ボランティア(市民有志の奉仕活動)を取り込むことが必須のように考えられています。ですからDioの会は、ともかくも始めることは、できました。

 

 しかしながら、現実には、事業内容が芸術文化であっても、ほとんど一般企業と同じように行われる場合があります。おおよそ社会的な事業には、利潤に関することが付きまといます。無償といいますか、対価とか収支の概念では計りにくい活動は、色々な意味において進展しにくい傾向があります。

 最近、GDPの伸びや市場の活況についての指数をニュースで聞きます。けれども、我々の分野が発展していないのは、長引いたデフレのためとばかりは元来考えられません。経済活況の恩恵を受けるとは限らないことを、改めて思います。

 

 当会では、分野はあまり絞ることなく、東京圏の作家について、できるだけ正しい姿を追究しながら伝えて行く活動を目指しています。そのなかのひとつを言うなら、文化的資産としての詩や童謡や詩人が生きた証を、同時代や次代に示していくことです。

 自主的なボランティアですから、各自の知恵を持ち寄って活動を共にできるような仲間が集まってくれたらと願うばかりです。

 言い訳がましくなりました。さて、人手も足りない当会では、HPによる情報発信をなんとか継続して行こうとしているところです。

  -HP三木露風文学館開館しています。-

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2015年04月04日 18時30分
寒暖が拮抗する新年度入り

 東京郊外の作家に注目しながら、メモリアル・ミュージアムを発信しています。コラムでは、近代の抒情詩と抒情画、童謡など、話があれこれ広がったり、元に戻ったり、です。

 

三木露風については、詩と童謡のうち親しみやすい作品を紹介しています。あまり知られていない童謡にも、興味を惹かれるままに書くことになりました。

これから、話題はどのような方向となるのか、書き手としても楽しみです・・・?


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2015年03月30日 18時20分
大正期の創作童謡について

 

 童謡・唱歌は、研究が盛んとは言えない分野です。

大正期には、『赤い鳥』(大正7年創刊)をはじめとする児童雑誌で、童話だけではなく、創作童謡が盛んとなり、それに曲がつけられることがよく行われました。大正から昭和にかけて童謡は広く歌い継がれましたが、そのムーブメントの実態には、検証をすすめる余地が残されたままになっています。

 

 三木露風が童謡・唱歌などの作詩において多くの仕事をしたことを、再発掘した当事者といえるDioの会です。ここで、創作童謡について少しばかり考察をすすめておいてもいいかも知れません。

  メモリアル・ミュージアムのコラム2に書いています。

 


Book review
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2015年02月20日 15時10分
「継続は力なり」

 久しぶりに、山本有三を読む会から次回、3月28日の集まりについて連絡が来ました。
 各自のスケジュール調整をしながら開催しているので、日程を組むことの苦労があるとのことです。 ⇒  
“山本有三を読む会”のページ

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2015年01月04日 16時35分
抱負のようなこと

 毎年、新年にあたり抱負のようなことを書いてきました。
 メモリアル・ミュージアムのコラムページに馴染んで来たところですので、今年も続けていくことになると思います。ただ、内容については、計画を決めてしまわないことにしています。
 当面は、まだ少し、詩と童謡についてやっていこうとしています。

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2014年12月18日 16時35分
今年も無事故を感謝。
 

 運転のキャリアが浅いためもあり、車に乗るとつくづく思うことがあります。世のドライバーの方々の運転能力が優れているので、今の自分が無事でいられる・・・のです。ドライバーだけではなく、歩行者や自転車も同じく、交通規則を守って慎重に通行してくれているために、こちらが助かっているということなのです。

 

 何につけてもそういうことがあります。HPでの発信という活動にしても、継続できているのは有難いことです。Dioの会があまりに微力なことに気が引けていますが、もともと個人レベルの任意活動にそんなに大層な力があるわけはありません。

 今年は、メモリアル・ミュージアムにコラムページを増設して、竹久夢二生誕130年と三木露風没後50年を記念する記述ができました。

感謝、の一言です。

来年以降も、無事に発信を続けて行きたいと願っております。

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2014年11月15日 16時33分
メモリアル・ミュージアムのページ開設から、早や、1年です

 どうにか、メモリアル・ミュージアムが見えて来ました。
 当初は形になるかどうか危ぶまれましたが、何でも、やってみることに意義があります。コラム、コラム2には、作家を伝えていくことについての感慨も述べています。

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2014年09月29日 13時35分
夢二は活きています

 生誕130年 竹久夢二展
               ベル・エポックを生きた夢二とロートレック
     日本橋高島屋にて 10月6日まで 
    主催:夢二郷土美術館、朝日新聞社
    協力:竹久夢二伊香保記念館竹久夢二美術館ほか

 夢二生誕130年・没後80年記念特別展 愛蔵の夢二画
           ―ゆかりの人びとのコレクションを中心に
           10月4日~12月14日まで  金沢湯涌夢二館

 各ゆかりの地では、生誕130年を記念する展覧会に力が注がれています。もしも、日本橋まで出か掛けたら、呉服橋交差点近くのM信託銀行前に設置された夢二の港屋跡記念碑まで歩いて数分です。大正3年、のっぱらだったところに東京駅が開通した年、夢二は港屋絵草紙店をオープンさせたのでした。⇒
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2014年09月27日 15時56分
詩を読むことを続けます

 メモリアル・ミュージアムに、コラム2のページを設けて詩を読んでいます。

 三木露風文学館の「評伝」連載は止まっていますが、内容は書き進められてほぼ完成に近づいたそうです。
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2014年08月18日 15時38分
夢二のことが、よく伝わりますように。

 今年、夢二生誕130年展は、北海道から九州まで、ゆかりの地、または彼の資料が集積した各地域で、行われる模様です。

 当Dioの会では、
メモリアル・ミュージアムのコラムページで、夢二のことをご紹介することにしました。
 Dioホームには、復刻された夢二デザインによる一筆箋を掲載しています。
 追記:特選Book reviewに、CD「夢二の歌」をアップしました。
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2014年08月02日 16時56分
竹久夢二生誕130年

 生誕130年を記念する竹久夢二展は、次のように企画されています。

三鷹では、久々の高相コレクション公開となります。

 

 *竹久夢二生誕130年 ~高相コレクションより~ 大正ロマンの恋と文(ふみ) 

                       8/30-10/19   三鷹市美術ギャラリー


*生誕130年記念 再発見!竹久夢二の世界   竹久夢二美術館

【前期】美人画家・夢二女性をおしゃれに、美しく  7/4-9/28  

【後期】ボヘミアン・夢二 ~大正ロマンの画家、知られざる素顔~ 10/3-12/25

 

 

 三鷹市所蔵となってからの高相コレクションは、各地の企画展に出展されて来ました。そのなかで最も注目されて来たのが、妻たまき宛の書簡で石川啄木の死を悼む内容のものです。この資料については、コラムページで紹介しています。

 


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2014年07月31日 16時55分
お問合せありがとうございます!

 『三鷹で暮らした「赤とんぼ」の詩人 三木露風の歩み』(Book review)は、各オンライン書店でご購入できます。発売元のはる書房には、当サイトのDio Booksからもお問合せいただけます。

 このほかの三木露風関係の図書については、同書巻末に一覧があります。

 

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2014年07月22日 18時48分
詩を読んでいます

 『三鷹で暮らした「赤とんぼ」の詩人 三木露風の歩み』『三木露風童謡詩集 赤とんぼ』(Book review) この2冊を手元において、露風詩を読むことにしました。
 象徴詩にして、抒情詩、そして田園詩である彼の詩は、朗読、声に出して味わうことが大切です。

  メモリアル・ミュージアムのコラムのページをご覧ください。
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2014年06月06日 15時10分
三木露風没後50年 

 三木露風文学館の「露風紹介」では、三鷹時代までの露風について解説が進んでいます。

 コラムのページでも、露風について書いています。

(明治22年6月23日、現在の兵庫県たつの市に、三木露風[本名:操]は生まれました。上京して詩人としての活躍があり、昭和3年から三鷹牟礼に住み、昭和39年暮に、市内の路上で交通事故に遭い、12月29日永眠しました。
三鷹村は、露風が入居したころには人口約7千名、昭和30年代後半には10万名を超える都市となっています。東京郊外がもっとも変貌した時代でした。)

Book review
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2014年05月04日 15時09分
コラムを書くことにしました

 メモリアル・ミュージアムのサブとして、コラムのページを加えました。
 郊外の作家について、伝えて行きます。

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2014年04月23日 17時54分
忙中閑話としての菜園づくり

 パセリや葉物野菜の自家栽培は、気楽にできます。あまりにも趣味的なことになりますが、Webは誰のものなのか!? / 演習・studyに、「菜園のたしなみ」として報告しました。ジャガイモなど、根菜類に詳しいどなたかのレポートもお待ちします。
 

 郊外や山郷に住んだ作家のことから、家庭菜園について無視できなくなってしまったのでした。作家そのものについての記事は、準備中です・・・。




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2014年04月03日 16時00分
祝‼ 弥生美術館30周年

 開館されて1,2年後に、弥生美術館を知った自分は、以来、好きな美術館のあることの幸せを覚えたと言えばいいでしょうか。今、30周年を迎えられた美術館の挿絵画家・出版美術の追及という事業には共感を深め、さらに、私設のミュージアムが社会に根付いて来たことについて、心から祝福しないではいられません。

 

さて、30年というのはどういうことでしょうか。

物置に、引っ越しのときに処分し残したガスストーブを見つけて、これがちょうど30年くらい前に購入したものだということに気づきました。けれど、これはなにも関係ありません。

おりしも、「笑っていいとも」(フジテレビ)が、3月で長寿番組32年の歴史を惜しまれながら閉じました。どのような人脈も、逸材も、「いいとも」なり「レギュラー出演」にしてしまう強引ともいえるようなパワーがありました。この国民的な番組を当初から率いた稀有なタレント、タモリの存在があり、バラエティ番組の評価を高めた32年間だったのではないでしょうか。

 

 ミュージアムというのは、文化的な価値のあるものを保存・公開するのが使命ですから、そもそも永続する機能を持っています。一般にむけての文化発信を継続する事業展開には、学芸員、館員、関係スタッフが育まれていく結果がついて来ます。これからにも期待が膨らみつづけます。

 というようなことを見せていただいた30年であり、弥生美術館であったという感慨を新たにしています。

ミュージアムって、「いいもの」ですよ・・・。

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2014年03月21日 15時40分
サポート体制に感謝! 最新バージョンへの移行

 当Dioの会サイトは、ついにXPを脱して最新Windowsから発信しております。

 電機店・PC館のご助力と、HP制作ソフト会社のサポートセンターにすっかりお世話になりました。従来、「テンプレートが崩れる」「周辺機器やソフトが使えなくなる」「リンクが壊れる」などなど、HPの移行については恐ろしい教訓話を聞かされ、「安心バックアップ 移行ツール」というものの仕組みに見当がつかない者には、そのHP移行の日が怖くて、怖くて、作業が遅れておりました。

 しかしながら、すべて、ご助言・誘導してくださったご専門スタッフの皆様方のお力により、このように、無事、当サイトを移行させることができました。(実際にバージョンアップの必要性に迫られ、使い勝手が変わったソフトなどはありますが・・)

 
 これからも、よりよいページの制作に努めることができそうです。

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2014年02月13日 13時31分
独自な境地から時代を描く画家

 画家の生涯と仕事を紹介し続ける美術館・・・

 伊藤彦造は、精緻なペン画による迫力ある場面で人気を博した画家です。伊藤一刀斎の末裔として剣の道の師範でもあった彼は、魂を込めて武人を描き、戦中には、戦地に赴き、彩管報国に命をかけました。終戦後は、自ら戦犯に問われながら、戦争責任を糾弾される人々の弁護に尽くしたと伝えられています。
                         *
 伝統的な遊びであるすごろくが、子供雑誌の付録に欠かせないものだった時期がありました。竹久夢二による<パラダイス双六>(『少女画報』明治45年1月)には、数々のアミューズメントな施設があり、屋上庭園や動物園と共に、美術館が描かれています。
 画家の独自な境地でとらえられた近代社会の縮図・・。それが、今日の美術館で公開されています。

 弥生美術館・竹久夢二美術館で、3月30日まで開催 :
  生誕110年 降臨!神業絵師 伊藤彦造という男 ペン一本で極めた挿絵道  
  夢二の子ども絵とすごろく展  -大正~昭和初期の小さなワンダーランド- 
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2014年01月28日 19時40分
 「懐かしの’70年代!」特集『週刊女性』本日発売です

 『週刊女性』で「懐かしの’70年代!」の特集をしていることを知りました。10ページほどで、漫画、映画、歌謡曲などを振り返っています。

 ここでインタビューに応じているのが本間正幸氏です。漫画は、やはり「ベルサイユのばら」(池田理代子作)が一位です。フランス革命という史実をもとにして数奇な漫画物語が誕生し、宝塚の舞台における定番となったことが紹介されています。


 ベルばらは、漫画史のなかでも特異にして大きな存在であることをいまさらながらに思います。大人にとっては、あたり前のような文化史も、ときおり回想してみることは、大切です。その時代や文化を知っている者たちが、歴史的な評価を固めていく作業を繰り返して行くということになります。(写真:『週刊女性』2014年2月11日号)
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2014年01月26日 15時35分
Windows xp サポート体制あと少し 

 当方のPCは、XPですし、数年も使っていますとなにかと不具合も出てきます。これまでも、買い替えたくないわけではなかったのです。ですが、聞くところによりますと、最新のPCにしますと、従来のソフトが使えなくなることがあるというのです。その上、その機器に適合する最新のHP制作ソフトにしたとしたら、従来のテンプレートで構成されたサイトそのものは、移行させても崩れてしまって継続ができないということだったのです。(え、)

 目覚しく進展する分野です。xpのサポート切れがこの4月に迫った本年まで、技術が進むことを念じて待ちました。XPからの移行とHP制作に詳しいスタッフの方が、ようやく電機店の店頭に立たれるようになりました。それでも、崩れる部分はあるそうです・・・。それで、どうしたらいいのかということです。
 
 当サイトは、どうしても無事に継続させたいので、あと少しだけ待ちたいという気持ちです。ご関係者の知識とご経験が深まりますことだけが頼りです。

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2014年01月06日 18時33分
恐縮しつつ抱負など

 一年前の「本年の抱負」に、自分のサイトを充実させながら「たゆまず急がず、方向性を見出したい」と書いたのを読み返しますと、まったく、不思議なほどに現在の気持ちと同じです。進化とか進展に乏しいようで、恐縮します。
 ただ、Dioの会が、前向きな姿勢を保っていることは、感じることができます。

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2013年12月22日 15時53分
年の瀬になりました

 今年の目標は、ブログを書くよりは、当サイトのページを充実させていこう、ということでした。free paper Dioの紙面作り、大正100年のmasterpeice 、そして、新設のメモリアル・ミュージアムに取り組みました。さらに、刊行計画です。

 結果としては、思うほどにはすすめられず、来年に持ち越しとなりました。
 時間を作ることに努めたのですが、何ともかないません・・・。
 来年こそは、来年こそは、と納得のいく活動を目指す心境です。
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2013年11月25日 14時51分
“free paper Dio vol.14”が発刊されました

 Dioの14号は、三木露風文学館のトップページからweb版をお届けいたします。

 何かと文化を考える内容です。常連になりました岩崎輝行氏が、筆を振るっていらっしゃいます。 

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2013年11月18日 20時00分
武蔵野を愛した作家のメモリアル・ミュージアム
 

 Dioの会では、Webサイトで作家を伝えていくこと(またはその応援)を課題にしています。しばしばそのことについて話題がでることは、言うまでもありません。できれば、詩人、小説家、彫刻家、画家、漫画家について紹介したいという考えがあります。ですが、片端からやっていくと、ただ情報量が膨らみ、まずは混乱するに違いありません。

 よって、武蔵野を愛した定番(と思われる)作家の記念館と記念事業からライフスタイルを偲んでみましょう、というさわりの案内ページを始めることにしました。

                    ⇒ メモリアル・ミュージアム
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2013年10月16日 19時06分
“free paper Dio vol.14”の編集準備中です

 フリーペーパー(free paper Dio)14号は、11月初めに出る予定です。新たな執筆者を含めて、原稿が準備されているところです。
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2013年10月12日 16時44分
<黒船屋>の時代でしょうか・・・

 このごろ、女性の力の活用ということを保守政党がしきりに掲げたり、TPPという自由経済の協定について論議が続いたりしています。
 一枚の絵を連想してしまいます。マルチな天才画家とも呼ばれる夢二の<黒船屋>、大正中期の画幅です。
 黒船屋というからには、何か交易にかかわる店のようで、つまり、夢二自身が経営していた絵草紙店港屋のような先端的なショップを思わせる画題です。女性が腰掛けている古風な箱は、千両箱にも似ていて、そこに、黒船屋と黒々と書かれています。着物という日本文化を身にまとった女性が抱きかかえている猫は、幼い子供の姿であるという説もあります。母性と知性をそなえた理想の女性像であると同時に、夢二の想い人の姿が写されています。西洋的な聖母像が下敷きになっていると見ることはできるかもしれませんが、ほぼ純和風な近代女性です。

 レトロな抒情画と呼ぶこともできます。ただ、女性と経済にかかわる宿題を描き残しているような気もしてくるのです。

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2013年09月13日 14時12分
竹久夢二は、プレスとしてロサンゼルスオリンピック(1932年)を観た

 夢二の場合、外遊(1931~33年)といっても、画会などの企画をもっての渡米・渡欧でした。『若草』ほかの雑誌に画信を書いて送る約束もありました。ただし、夢二のエッセイは、後の全集に網羅して収録されているわけではありません。ロサンゼルスオリンピック開催当時(1932年7月30日~8月14日)、ロスにいたという傍証はあります。ですが、どのような資料をもって、彼のオリンピック観覧を証明したらいいのか、迷うところもあります。
 プレスとしての入場パスは入手したものの、現地についてみると関心が薄れ、実際に観覧はしなかったのではないかという説もあったと記憶しています。
 ただ、夢二は、卓球などのスポーツ愛好家であり、また、好奇心旺盛な人でした。観たことは観たのではなかったでしょうか。友人にあてた手紙には、次のように一行でオリンピックに触れています。

 オリンピックは毎日出かけて(プレスとして)応援しました。
     高相利郎宛 昭和7年9月20日 (『夢二の手紙』講談社)

 さらにこの時期に「サンフランシスコの花嫁」(『えとらんぜ』ノーベル書房)と題された一文を残しています。たしかに、入手困難だったロサンゼルスオリンピックの入場パスを、画家としての評価で取得した経緯を軽快な筆致で書き、開催前日のパレードを「ブロウドウエイの騒ぎ」「仮装行列」「市長も州長も行列に加はる」等などと臨場感のある描写で書き記しています。
 そして、その先からが、夢二の関心がアラウンドビューで、ひとところに留まらずに死角なく延びていくことを思わせる記述になります。夢二は、「新開地ロス・アンゼルスは世界民族の掃溜」と言われるなかでも、実に様々な人と同宿となる「メイン街」に宿をとったそうです。その同宿人のうちのひとりである国籍不明な男について、紹介したいといいます。彼は、日本からの移民で、多少の貯えもできたサンフランシスコ在住時に、故国から花嫁をむかえようとしたのだそうです。それが、ふとしたことで、片目に碧眼の義眼を入れなくてはならなくなり、その女性に怖がられて逃げられてからは、港から港を渡り歩くようになり、いつかうらぶれてしまったといういうことです。

 人間に深い関心を持つ作家である夢二は、国際的な祭典の報道よりも、外地に生きて、寒々とした晩年をむかえようとする人の逸話採取に、嵌ってしまったかのようです。あるいは、明治の小説の登場人物が老いた姿を、うつつに見つけたのだったでしょうか。何とも不思議な文章ですが、夢二のロス体験が内容の濃いものであったということは感じるのです。

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2013年09月08日 11時21分
オリンピックの競技種目に、“リリカル・バラッド”は採用されないのか?!

 抒情詩の表現形式を持たない国や地域は、ないと思います。「詩のボクシング」というのはありますが、100年を超える歴史を持つオリンピックに、そろそろ抒情詩で身体能力を競う種目があらわれないものでしょうか。まず、詩選手の原語で朗詠され、各国語への同時通訳者も詩人でなくてはなりません。

 歌合の伝統をもつこの国の皇室や国文学者から、このような歌合戦の提案がでるようになるには、まだ何世紀もかかるのでしょうか。10年余り前のことですが、大学の研究会で、「オリンッピックなんか見ないで、毎日、研究、研究ですよ。」と発言された教授がいらしたことを、鮮明に記憶しています。
 一般人は、オリンピックを国際的な祭典と認識し、開催国のインフラ整備の理由付けとか経済効果というものを考えます。スポーツ振興ということにさえ、なかなか意識がまわらないところがあります。ですが、その存在が国際社会に根付き、巨大化すれば、若い人たちのピュアな能力と可能性が、どのような方向に伸びていけばいいのかという問題にもなります。
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2013年08月28日 16時31分
宇野亜喜良説の“抒情画”

 今更のことですが、近代の挿絵や抒情画の再評価は、弥生美術館が開設されてから進展がありました。現代のイラストレーションや少女マンガの隆盛が、そのルーツを意識させた面もありました。
 ただ、『よみがえれ!抒情画 美少女の伝説』(やなせ・たかし編 サンリオ 1986年)、『竹久夢二と抒情画家たち』(細野正信著 講談社 1987年)というような懐かしい名著を前にして、こういうのを今風の言葉では、「痛い」本といえばいいのだろうかなどと思います。あるいは、「失われた20余年」という一般論に逃げたくもなります。自分が、抒情画論者の後裔として、あまりに力がなさ過ぎるからです。

 前掲書のうちの前者において、宇野亜喜良氏は、「抒情画、あるいは鏡の国の少女たち」という一文で、「百科辞典を開いてみても「抒情画」という部分はすっぽりと欠落して」いる実態を述べ、「歴史的な展開は別にして」、抒情詩についての解説が、「ほとんど抒情画論になってしまう」と書いています。今日読んでも、ビビッドな実作者の証言です。
 恐らく抒情画は、ジェンダーとしては女性であり、作家の内面と深くかかわる絵画であるとはいえそうです。
 
 まだ定義されてないものの魅力を一杯に引き出して見せてくれる弥生美術館ですが、来年は開館30周年を迎えるそうです。記念の時に、抒情詩全盛期に発達した抒情画について卓見を出して花を添えることができたなら、シニア(引退)学芸員として冥利につきるのですが・・・。想うばかりです。

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2013年08月12日 13時56分
奇想、耽美を硬質に描いた村上芳正の展覧会、9月29日まで

 鬼才三島由紀夫の小説やジャン・ジュネ全集で、村上芳正氏の硬質で耽美な装幀に親しんでいる方は少なくないことでしょう。現在、弥生美術館で開催されている村上芳正展では、覆面作家沼正三による『家畜人ヤプー』を装幀したときの原画が公開されています。氏の仕事をまとめた最初の画集も刊行されました。

 現在、91歳となられた村上芳正氏は、創作活動からは退いていますが、本展ギャラリートークとして、宇野亜喜良氏との対談を行なうそうです。9月7日(土)午後6時を予定しています。  ⇒  弥生美術館HP

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2013年07月24日 20時06分
ページの進み具合

 先月、もっともらしい報告をしましたが、“大正100年のmasterpiece”など、少しずつしか進んでないことを気にしています。大正3年あたりにさまざまな事象が多く、その扱いは容易ではありません。
 HPに直に書き込んで、そのままアップすることがあります。思いつきのメモにすぎないページになりがちです。草稿を書いてある場合もあります。ですが、発表するときに手をいれると、とても時間がかかります。その割りに効果はありません。

 次のカフェトークの時期や、次の本の準備のことをたずねられると、その期待に嬉しくなります。ですが・・・。
 会の代表は、「露風評伝」を大正5年まで書いたが、草稿なので、当分は三木露風文学館にアップするつもりはないと言っています。
 
 当会自体が、今後の展開を待ち望んでいるような状態です。

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2013年06月21日 13時45分
年半ばの報告

1.HPとフリーペーパーで情報発信しています。Web exhibitionとしてのページ、“大正100年のmasterpiece”ほか、記述をつづけています。

 

2.大正期文化にかかわる選集の刊行について、検討中です。

 

3.先のことですが、協力させていただきたい事業があり、楽しみにしています。

 

 本年前期中に、普通自動車免許を取得することができました。いつか会の活動にも役立てることができれば、嬉しいことです。

 自動車学校には、駅から無料の送迎バスで通うことができて助かりました。そのとき、文化施設にも、巡回シャトルバスがあったらどうだろうとしきりに思いました。そういえば、「民間の活力云々」ということは聞かされますが、利用者の立場を考えた「民間のサービス」というのは、公が発想すると矛盾になるのでしょうか? 芸術文化や生涯学習の推進のためにという発想も、なかなか通りにくいことでしょう。ですが、だからと言って、都市が世界の経済拠点になり有料事業が発展すれば、私たちの生活が充実するという図式は、成り立つものかどうか・・・。

 などなど。ペダルを漕いでいるのでもなく、運転しているのでもなければ、忙しく走行している人たちを邪魔することもなく、本人は頭の中で文案を考えることもできるのです。

 

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2013年06月10日 14時54分
プリントできるWeb新聞
 

 HPを開設した当初から、延々と論議されて来たことがあります。Web版とプリント版を2種作成しなくても、フリーペーパーやお知らせ記事が、アップロードされたままにきれいに印刷されるのであれば、どのようにいいだろうか、ということです。(プリント利用価値のあるものを、我々がどれほど発信しているかは別問題として・・です)内外から多様な意見が続出して、これという解決策はでないままでした。

 ですが、ともかく簡単でシンプルなWeb版お知らせ・新聞なら、一紙面ずつプリント可能な形式はできます。よって、Webは誰のものなのか!?-演習の下層ページに解説を設けることにいたしました。  ⇒ プリントできるWeb新聞


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2013年05月26日 11時41分
経済と雇用のことなど

 一般に、経済と雇用の問題はよく討議されているようです。終身雇用は廃れ、非正規雇用に続き、限定正社員、無期限雇用などという言葉を耳にします。

ですが、我々の分野では、特に変化があるということでもありません。いわゆる就職がない、ポストがない、ということが言われ続けています。教員は少子化傾向によりポストが減少したといわれますが、学芸員の資格を持つ者に対する職の割合は元々非常に低く、そして、創作家となると、どのような企業や団体に職を求めたらいいのか、言い表せないところがあります。

 

 記録保持者のようなスポーツ選手は、スポーツ活動のリーダーとして活躍する余地があるようです。生涯学習の立場からいえば、そのようなリーダー、講師、インストラクター、イベント企画者などの職を設けることで、雇用を創出し、人々の充実した生活をサポートする社会貢献事業になります。

 

 あるとき、日本の代表的商社のトップ経営者のセミナーを受講しました。かつては、いわゆる有名大学に入学すると安定した人生コースへの切符を手にしたわけだが、今は、就職がひとつの目標となっていて、入社してきた新人は、就職したという達成感に浸っている、そのような若者に仕事とは何かをわかってもらうことが、社員教育の第一歩である、というようなお話がありました。離職率の極めて低い超優良企業です。

 ただ、あまりに良い会社は、お手本としてはどうでしょうか。社会体勢としては、企業や個人の経済が成り立つような雇用調整に終始しなくてはならない状況のようにみうけられます。就職したら、すぐに次の転職先を考えなくてはならない場合もあるなあ、という感想を持たないではいられませんでした。その企業に求めること、というアンケートには、とりあえず「社会貢献」と記入して帰路につきました。

 

 それから、ある造形作家の方のお話をうかがう機会がありました。一流メーカーに長く勤務なさっていて相応の肩書きを持った方でした。自分の好きな趣味として孤高に(オタクと自称なさっていましたが)創作活動を続けていらして、たまたま、手放したくなかったので高い値段をつけておいた作品を買ってくれたお仲間がいたのだそうです。すると、それまではオタク趣味に抵抗していたご家族の方が、「給料が上がらない分を作品売却の副収入で補って」もらいたいと、出来ないことをいい始めたそうです。(明治時代に、夏目漱石が小説を書いたころの逸話を思い出しました。)

 芸術・文化の活動を成り立たせることの難しさについては、何かと考えさせられます。無論、間接的には経済・雇用問題と複雑にかかわっていることです。(が、Dioの会が考えても、下手な考え・・・にすぎないでしょうね・・・)

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2013年05月09日 14時57分
芸術文化が非課税投資で支えられるでしょうか!?


 ときおり、さまざまなセミナーに参加してみることがあります。勉強になることは多くありますが、NPOの運営に直結すると思われることはなかなかありません。

 

 会の内外で、個人の活動資金について話題になります。たまたま、来年からスタートする少額投資非課税制度に話が及びました。ただ、利潤追求モードになりにくい立場や個性もあると、身につまされます。各人が、自分流の投資法を身につけて、その果実で自律した活動ができるなら、それは望ましいことには違いないでしょう・・・。

            ⇒ 初心者のNISA

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2013年05月07日 11時44分
“free paper Dio vol.13”が発刊されました
 お待たせいたしました。Dioの13号は、三木露風文学館のトップページからweb版をお届けいたします。

 おなじみの寄稿者に加えて、河村善二郎氏が露風の母かたについて書いてくださいました。
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2013年04月17日 14時01分
「思想」のページを開設

 東京、もしくはその郊外からの視点で、文学・芸術文化をみていく姿勢でいます。フリーの活動には、特定の作家のことに責務があるわけではありません。

 

 ただ、昨年の初夏にもこのブログで、触れましたが、山本有三「路傍の石」に、近代という時代の背景がよくとらえられていることは気になります。作中に書かれた実在の啓蒙思想家、福沢諭吉は、今日、知名度は高くても、わかりにくい人物です。実際、事典で諭吉の項を開いても、解説が詳しすぎてかないません。

 そのため、福沢諭吉「学問のスゝメ」のわかりやすい注釈書(伊藤正雄校注)は、紹介しておきたい一冊になります。

 

大正期以降の表現において、それ以前の思想が様々な意味でかかわっていることは見逃せません。 ⇒大正100年のmasterpiece 思想


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2013年02月26日 18時33分
“free paper Dio vol.13”の編集準備に入っています

フリーペーパー(free paper Dio)の13号を4月に出す予定で、寄稿のお願いをしています。内容は、いつものようにイベント情報やエッセイなどです。
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2013年02月21日 20時05分
俳人は元気!?

 高齢になってから俳句を習い始めた私の母のことから、日本文芸について改めて考えさせられました。母は、いつもの句会のお仲間に誘われて市民句会(調布)に投句したのですが、申し訳ないことに、それをすっかり失念していたのだそうです。

 1月末のある日、電話が鳴り、「特選」と言われても、今年米寿になる母は、オレオレ詐欺からの電話かと思ったそうです。それを聞かされた姉や私も、「聞き間違いじゃない」「何か、勧誘されなかった?」と口々に言いました。そして、「でも、間違いないっていうなら、間違いないよ」という若い孫娘の発言により、事実の確認となったのです。

 特選された10名ほどの者は、表彰式のかわりに選者の方々と共に記念撮影をすると言われました。母は、10年ぶりに和服を出し、草履に杖をつく練習もして、これを機に箪笥の中の整理もいたしました。「おかあさんは表彰される」と母はすっかり若やいで、221日、市民会館での句会に臨席いたしました。

 付き添いした私は、選者五名のうちでご出席いただけた青柳志解樹、棚山波朗、坊城俊樹、三氏の「選評と俳話」を拝聴する機会を得ました。食材を詠んだ句の紹介などが印象的でした。

 

 曰く。今日、ここに集まることのできた者は、高齢化社会において様々な意味で恵まれた者だ・・・。今は景気が低迷しきったときだけれども、経済面について政府はよくいろいろなことを面倒みてくれている、ただ、心のケアは自分でしなくてはならない。晩学と言って、90歳になっても初めて発見したミミズのことなどを俳句につくる、俳人は元気な人が多い・・・。長寿なのは、医者、僧侶、画家、俳人だといわれている。前二者は金があるからだろう。後二者は五感を働かせるからだ。見たり聞いたり、食べたり料理したり、嗅いだり触ることが大切だ。いい大学をでていい会社に入った人には、大抵よい句はできない、頭の中の引き出しのなかのもので作ろうとするからだ。俳句は五感を用いて、知識欲をもって、新しい表現をするものだ。小手先でできる句には限りがある、吟行して1日100句を作ることでおすすめしたい。俳人は、さっぱりとした短気な人が多い。自分は、小説を書きたいと思ったけれども前に書いた筋を覚えていられない、短歌でも長すぎる、作っているうちに、上の句が何だったか忘れてしまう・・・。流れゆく大根の葉の早さかな(虚子)
(あくまで記憶に残った言説から抜粋させていただきました。なお、坊城氏は近く句集を刊行なさるそうです。)

 

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2013年02月18日 17時58分
成蹊ミステリ・フォーラム(3/16土)には、どなたでも入場できます

 日本出版美術研究会でご一緒させていただいている浜田雄介氏より、ご案内を頂きました。成蹊大学図書館と4号館で、夢野久作書簡ほかのミステリ資料の展示や、島田荘司氏講演などが企画されているとのことです。懇親会だけはお申し込みが必要ですが、どなたでも無料でご参加できます。  ⇒クリック

 大学図書館は、欅並木の中央に位置する正門を入ってすぐ左手にあり、現代的な情報図書館です。4号館は、さらに奥に進んで行ったところにあります。
 大正ロマンの香りを残す本館を中心に、さまざまな施設があり、大学建築を堪能することもできそうです。   ⇒キャンパス

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2013年01月29日 14時43分
Web exhibition をやっています

 小さな会のことでも、事業企画やら運営のことなど、あれを考え、これを考えしていますと、なかなか時間がたりなくなるものです。

 

 ようやく、大正100年のmasterpiece の詩歌のページを書き始めました。大正100年データ と exhibition 竹久夢二 のページと合わせて、当方のWeb exhibition の役割を果たせるようになりそうです。

 

 夢二にしても、大正期以降の芸術文化にしても、代表作や重要作に注目するにしても、知られてないことや忘れられていることが多々あります。希少にして知られていない資料を紹介しながら、その観かたを示していくことで、仲間との会話につながればと思います。無論、こちらが次ぎに原稿を書くときの覚え書にもなります。

 イージーなexhibitionを試みたかったので、そうなっていきそうです。

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2013年01月04日 13時20分
本年の抱負

  新しい年をむかえて、Dioの会のことがあらためて気になります。

 例年のように、フリーペーパーとHPで情報発信し、また、カフェトークも開催できれば嬉しいことですし、予ねてからの刊行計画を具体化したいものです・・・。

 ただ、あれもこれもということになりますと、手が回らなくなりがちです。まずは、自分のサイトのページを書きつづけなくてはと思います。

 

 「下手な考え、休むに似たり」かもしれません。たゆまず急がず、方向性を見出したいというのが新年の気持ちです。

 

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2012年12月24日 13時42分
『三木露風童謡詩集 赤とんぼ』のこと
 
 ご存知の方も多いと思いますが、ネット武蔵野の社主、塩澤昭典氏が84歳になられたのを期に先の10月で会社を閉じられました。これまで仕事ばかりなさっていたので、楽しむ人生を送りたくなられたそうです。

 それに伴いまして、在庫の図書を整理なさいました。6年前に福嶋朝治編著で出された『三木露風童謡詩集 赤とんぼ』については、最終的な残部だと思うのですが80冊をDioの会実行委員に配布などについて一任したいとのご意向でした。

 

 さあ、大変。CD付きの誰でも欲しくなるようなご本にして、後世にも残したい露風の名作集です。

提供してくださる塩澤氏には、長い間お疲れ様でしたと心から感謝申し上げました。ですが、当方が無料配布などするのは僭越なことにならないでしょうか。もしも、もらえる子供ともらえない子供がでたら、どうしたらいいのでしょうか。

 もっとも公明正大な配布を審議しようにも会議費がありません。会内部や関係者と盛んに電話やメールのやり取りはいたしましたが、「無策」という言葉がでました。そんなにお金もちの会なのか、とも言われました。自転車で奔走して、電動アシストのバッテリーが切れた日もありました。

 

 「売りましょう」と私は言いました。

 11月のカフェトーク開催に尽力くださった方々には、有効な活用にもご協力いただく意味で進呈いたしました。それから、購入してくれた知人もいたのです。代金は、この件における通信運搬費など経費の一部にあてさせていただきます。助かりました。

 

 そして、埼玉県坂戸市の某私立幼稚園が名乗りをあげてくださいました。責任をもって図書を園児に手渡してくださるとのお申し出です。こちらでお預かりしていたうちの40冊については、童謡詩集の編者にして、会代表者個人がとりまとめて寄贈する手はずとなります。

 

 版元から離れた図書の販売を、継続しているショップもあります。『三木露風童謡詩集 赤とんぼ』は、三鷹市芸術文化センターで、まだ入手できると聞きました。


    参考⇒ Book review

追記:12月30日、合わせて200冊の『三木露風童謡詩集 赤とんぼ』が、幼稚園に寄贈されたそうです。
来年も、良い年になることを念じます。
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2012年12月17日 14時59分
本年の反省など

 Dioの会サイトでは、新たなページを幾つか開設させていただき、フリーペーパーもいつものように出せました。さらに、大正100年を記念して、初めてのカフェトークを実施させていただいたのが、今年の収穫でした。

 

 そして、よくもまあ、これだけブログを書いたものです。

 少し活動報告をすれば、会の存在理由になるだろうと思ったのですが、それが、意外なほどに周辺には話題があり、それがミューゼオロジーの展開へむかわせました。

ブログを書くうちに、業務日誌をつけていなくては申し訳ないような心理にもなってしまったようです。(お節介やら貧乏性のたまもの、とも言えます。)

これを自省しまして、少し早めに本年の反省を書いて締めくくってしまうことにいたします。

 

「今、調べ物をしています。」などと平然としていて、Dioの会のNPO法人化にむけて準備でも進めていられたらいいのですが。なかなか、そうは行きません。


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2012年12月05日 14時54分
詩人のことなど
 

 1997年、文京区に個人運営で開設された立原道造記念館は、20099月をもって閉館され、その建物は今年の夏、取り壊されました。ですが、詩人で建築家だった立原を想う人々の熱意は継続されて、信濃デッサン館(長野県上田市)に立原道造記念展示室が、年頭から設けられました。詩人を記念する事業のあり方のひとつかと思います。

 

 言わずもがなのことがあります。昭和初期には、新聞・雑誌に小説や挿絵を連載して人気を博すと、当時では御殿とみなされるような家に住めたようです。それが、文献だの統計だのを紐解くまでもなく、詩については読者や理解者が少なすぎるのです。戦後の繁栄の後にも、谷川俊太郎が、詩でご飯を食べているのは自分くらいではないかという意のことを言っていました。

 

 私は、詩が好きなだけです。専攻したのは散文で、仕事でも小説や挿絵との関わりが多かったと言えます。ただ、NPOとしてDioの会が詩人のことをするようになったことには、いまさらながら、順当ではないかという気持ちになってきたところです。

 つまり、極言すれば、詩とは実益と対極にあります。もっと、ましなこと、権威のあること、人気のあることをやれ、と前途ある若い人たちは言われる時が(いえ、言われ続けることも)あります。いつの世も、公的な事業であれば、ますますそうなるかもしれません。

そういうことには左右されることなく、Dioの会は、“武蔵野の詩人と童謡”というテーマでカフェトークをスタートさせることが、できました

ただ、個人やNPOは、微力であり、限界があるということが大きな課題です。


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2012年12月02日 16時44分
久しぶりの三木露風についての新聞報道です

 三木露風を東京新聞が記事にするということを聞いた時には、嬉しさがこみ上げました。露風がどういう詩人であったか、僭越ながら取材に応じて協力させて頂きました。

 

 ですが、心配に陥りもしました。つまり、露風の直筆資料を数多く受贈したゆかりの地は、まだ、決まった保存・展示の場を設けられず、その資料についても、露風という詩人についても、話すことのできる人員はなく、微力なNPOに頼らなくてはならないということになるからです。

 

 取材されたときには、「赤とんぼ」の詩人は、自然にあふれた赤とんぼの里がある地方都市のほうが合っているのではないか、という設問がありました。それは、都会人なら自然を必要とはしていないということはないので、そうではないと言えます。ただ、私は質問を受けて、フリーになってからすっかり忘れていたことを思い出してしまいました。

 

 地域というのは、文化を理解して、(文化事業を)やりたくてやっているとは限らないという説です。

 ですから、文化施設となる家・土地や、このくらい人気があって集客力があるという実績を提供すると、ようやく行政側も動くのだ、そうです。作品や原稿の価格を示せ、という話もありました。地域や市民に何かいいことはないか、実益を考えろ、という言説がひとり歩きすることもあったようです。

近代詩人の書いた原稿やノートは、“文化遺産”です。今日に通用する不動産や知名度や市場価値ではなく、“文化遺産”です。ただ、陋巷に“文化遺産”は、ネコに小判だということも聞かされた覚えがあります。そこまでだと、もうダメだという声もありました・・・。

ともかくも、私は思い起して痛み入るばかりです。街をあげての議論になると、地域住民の脳が活性化するかもしれませんが。

 

 「赤とんぼ」は無論のことですが、露風の詩は、自然と親しい生活を表現して、不滅の美しさをもっています。詩は、ただそこにあります。

 

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2012年11月27日 19時55分
カフェトーク”開催のご報告

 “無事” 終了、と思わず書いてしまいそうになるような、最初のカフェトークでした。
 課題はいくつも残りましたが、これからも、気張らないトークの会を企画できたらと思います。

 多くの方々の思いなど、記録しきれないことの方がたくさんあると感じています。
 ともかくも感謝を込めてご報告のページを設けました ⇒ 
talks

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2012年11月02日 16時41分
ランチタイムのカフェトーク” vol.1  お申し込み締め切り迫る!!

 11月25日(日)に武蔵境でランチをご一緒しましょうという“カフェトーク”には、初期のころのDioの会で活躍してくれた仲間が、遠くから駆けつけてくれるという嬉しいお申し込みが届いております。ワクワク感を高まらせながら、準備にいそしんでいるところです。どなたでも、ご予約してご参加いただけます。

 ☆花よりダンゴ。メニューの発表!
    パスタ2種、サラダ、ドリンク1杯
          ―豊富なドリンクメニューからおひとつお選びいただけます―

 ☆武蔵野の詩人 トピックス!
 三鷹に住んだ三木露風のお話に加えて、竹久夢二が武蔵野を詠んだ知られていない短歌をご披露します。某文芸雑誌に発表されながら、刊本への収録は未詳です。郊外の生活から生まれた作品は、すっごく、いい歌なのです・・・

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2012年10月23日 20時45分
大正100年の東京郊外

 Dioの会では、近代、特に、大正期以降の文化を扱い、東京郊外の作家に注目しながら、郊外を拠点に活動を展開しています。

 今年、初めてのカフェトークを1125日に開催することになり、そこで、三木露風についてのイベントと共に、「大正100年の東京郊外」と題した活動報告をさせていただく予定になっています。

 

 それで、少しずつ広報をして、質問などにもお答えしています。ここで、予告めいたことをしておいたほうがいいかなと思います。

 

 三木露風の童謡「赤とんぼ」のように、里山の稔りある自然のなかで子供があやされている光景は、かつては日本のいたるところにみられたものでした。これを原風景として、人々の生活は、都会だけではなく郊外や山里まで、近代化・都市化されて激変を遂げたといえます。今日では、放射能を恐れて、戸外で遊ぶことを制限された子供たちもいます。耕作を諦めた田畑もあります。崩れゆく文化を童謡に定着させ、100年間人々にうたわせてしまう詩人の表出をあらためて感じます。

 かつての山里を偲ばせる自然や生活が、残された地方もあります。それが優れた地方文化なのか、それとも、コンクリートで固められた東京郊外の街に遊歩道や公園を見出して、そこで歌を口ずさむことが進化なのか、何ともいえません。

 天災や人災を、未然に防ぐ、防げない、ということは、人智の問題です。ただ、自然と人工を共存させる街づくり・国づくりはまだまだ終っていないという意味において、「赤とんぼ」がうたわれるのなら、人々に永く希望を与える文芸であるといえます。

 地域であろうが、民間の個人であろうが、このように評価することができれば、「赤とんぼ」と大正・昭和の詩歌と童謡を応援することになるでしょう。

 (追記:ともかくも“武蔵野の詩人”に触れる機会として、カフェトークを企画いたしました。)
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2012年10月15日 18時59分
ブログ上のミューゼオロジー

  

 人間は、ことの難しさを知ってしまうとなかなか動きがとれないものです。私のミューゼオロジーも、理論武装でなければ、本人の「脳の鍛錬」のように聞こえるかもしれません。

私は、詩歌は専門とは言えず、ただ自分の好きな歌を引用することには抵抗がなく、しばしばやります。しかしながら、詩歌を専攻した方々からは、「和歌を知っているとなまじ短歌はできない」、あるいは「実作経験がなくて論じても仕方ない」などなど難しいご意見がでがちです。

 

 free paper Dio 12掲載の「認知症の発症と進行の予防に川柳を」(松崎茂氏)には、医学上の健康法ってこんなに新鮮だったろうかと感心しました。高齢者は適当な運動でもしていたらいいというような安易な話ではなく、制約が少なく多様な題材を扱える川柳のような「奥の深い」ことをめざしたほうがいいという御説なのです。文学の効用についての力強い論考でもあります。

これを拝読して、思いつくことがあります。もしも長寿ミュージアムができて、ヨガや園芸と並んで、川柳などの創作講座があったなら、楽しいことです。無論、観ること、読むこと、歩き回ることで鑑賞する展覧会は、どのような人にも刺激と感動を与えます。そこには、学芸員やインストラクターも大勢いたほうが、多様なニーズに応えることができるでしょう。

 

それが専門家を育てて文芸を向上させることになるのか、教育放送に任せておいたらどうだろう、などという声はあがるかもしれません。ですが、地域社会で、市民の健康維持と高齢者対策として、生涯学習の場をグレードアップすることは、可能性のあることです。

長寿社会に適応したミュージアムというコンセプトで、専門や観点の異なる方々を結集できれば面白くなります。よほど長生きしなくては読破が難しいような、いわゆる純文学や古典文学が、そこで扱えるようになったとしたらさらにいいでしょうね。

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2012年10月09日 13時22分
作家の記念事業に想うこと

 暗いことを言うと嫌われます。かと言って、懲りることを知らずに、「キンタロアメ」を否定すればいいだろうというような発言をする大臣がでてくる国に期待したりしますと、(難しい)くらいに扱われる恐れもあります。

 

  石をもて追わるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし (啄木)

 

 作家や詩人の表出が、レトリックによって成り立っているにしても、うそとかごまかしとは違う自己凝視が根底にあることは感じとることができます。消えない悲しみがあるのが人間です。

 私が、作家の記念事業に携わっていたときには、個性の尊重にいまひとつ理解のないこの国に必要とされる仕事ではないかという思いを持っていました。ひとつの文芸分野というよりは、作家という人間を理解しようとすることが、何かに通じないだろうかということです。

 異なる立場の人を理解することが、いじめや国際紛争を緩和することの一助にならないわけはないのです。教育や文化において、人間理解を深める機会を設け、そのような能力を育むことは大切な事業だと私は考えています。

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2012年10月05日 17時16分
建築とそれが内包する事業について

 東京駅の美しさにしても、その修復・復元の技術にしても、当初事業の継承・進展においても、大正100年である今日の見事な事業モデルになると思います。今回のオープンを契機に、文化遺産である古建築を活かした事業が、再認識されていくかもしれません。

 

 もともと復元・再現好きの日本には、作家の書斎復元を含めた記念室・記念館などが、各地に数多くあります。ただ、日本の住宅建築における限界もあり、住居はできるだけ往時のままに保存し、展示などのミュージアム機能は新館においてなされるかたちが普通です。徳冨蘆花の蘆花恒春園をはじめとして、武者小路実篤、石川啄木、高村光太郎、萩原朔太郎などの記念事業は、それぞれの規模と内容によって運営されています。

 

 西欧の住宅ならそのものが展示施設になるという好例は、パリで多くみることができます。バルザック、ヴィクトル・ユゴー、ロダン、ブールデル、ドラクロワ、ギュスターヴ・モローなど、個性的な魅力に満ちた記念館や美術館の数々が点在しているのです。

 また、作家の住居ではないけれども、建築として興味深い個人美術館もあります。母国スペインを離れてパリで仕事をしたピカソの美術館が、パリのマレ地区に開設されています。その建物がサレ館という確か17世紀の白壁の邸宅なのですが、ピカソ芸術と共に、建築の窓や階段や装飾の機微を堪能させる美術館となっていました。

 

私は学芸員ですから、作家や作品にこそ関心を持たなくてはならないのかも知れません。ですが、例えば、ルーヴル宮に行って、宗教美術やモナリザとその時代の美術史の展示を見てきたつもりですが、あれだけの建築システムがミュージアムを成り立たせていることの大きさが忘れられません。

専門ではないのに、建築が気になります。。

東京には、旧ナントカ邸というかたちで建築だけを見せている事業例が多々あります。それが、ヴェルサイユ宮殿ほどの歴史ドラマを伝えるミュージアムに、いつかなるのなら、じっと待っていたいと思うのです。

建築学でも、建築は内包する事業が伴ってこそ活きるという考え方があるようです。東京でも、庭園美術館(旧朝香宮邸)などの事例があります。復元・再現にばかりとらわれずに、保存と活用ということで、新たな事業を加えてコラボすることも選択肢のひとつになると思われます。古建築という文化遺産を活かした事業展開は、相当な実業センスが求められることですが、今後のことには期待したいものです。

 

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2012年09月23日 17時28分
ランチタイムのカフェトーク” vol.1  お申し込み受付中です

 11月25日(日)の“カフェトーク”でハープを演奏してくださる柴崎なおみ氏からは、楽曲の練習に入ったとの連絡をいただきました。また、福嶋代表によりますと、参加のお申し込みもそろそろ届いているとのことです。
 コリウス武蔵境というパスタのおいしいお店で開催します。

 “カフェトーク”お知らせページより、お申し込みはメールでお願いします。
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2012年09月20日 14時59分
生涯学習について
 

 この夏は、たまたま話題が進展して、ミュージアム事業に関することをブログに書いてしまいました。見聞が蓄積してもいて、NPOとしては、少しでも理解を広めたいという気持ちにはなってしまいます。

 

 生涯学習という概念があります。かつては、社会教育と呼ばれていて、学校教育の外で行なわれる教育や学習をいいます。

 合否とかレベルとか、階級、職位、社会的地位ということが、学校や社会では存在します。その立派な成員である方々には、盲点ともなり、理解しにくいことがあるかもしれません。某アニメ主題歌で恐縮ですが、「・・・学校も、試験も、なんにもないっ」というような世界です。中高年になっても、「いまだに、スポーツクラブ通っています」というようなことです。

 ライフワークとして何かに取り組むことは、万人にできることです。よほど、社会人、家庭人として萎縮してしまわない限り、向上心や、何かを調査研究する探究心は、誰でも持ち合わせています。

文化的な価値のある資料を展示し、生涯学習の場を一般に提供するために、学芸員には、学識も技能も必要とされます。ですが、基本は、自ら探究心をもって生涯学習にいそしむ率先者となることだ、ということもあります。世に認められる大論文や大著をものすることが目標とは限りません、というのはこのような意味です。


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2012年09月18日 14時05分
ショップについて

 人並みに買い物好きの私は、旅先の土産物店と共に、ミュージアムショップをのぞいてみることがあります。博物館でも、ショップに学術書ばかりが並んでいるわけではありません。詩が書かれた一筆箋、銘菓に文学作品の名前がつけられたもの、あるいは作家の図案を活かした小物など・・・、楽しませてもらっています。

 

1.ミュージアムグッズとして、ある程度の水準・内容に達していること。

2.そのグッズの存在と売り上げが、ミュージアム事業にプラスになること。

 この二つのことが、ミュージアムショップのグッズには必要だと私は考えています。
 それが、見るも気の毒にモノが並び、何も考えてないので、ぶれるべくしてぶれているのだと聞かされることがあります。「博物館は、人です」という考え方がありますが、通常の雑貨店などでも、自ずと運営者のセンスはでるものです。

 

 当サイトでは、念願のDio BOOKSをスタートさせたばかりです。ネット上のブックショップなどにリンクさせる以外に、ささやかながらDioの会の本のショップを開店したのです。グッズの開発は考えてはいるのですが、まだ、手がまわらないでいるところです。

 

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2012年09月15日 16時07分
刊行についての報告

 我々の仲間で、大東京には、図書館をわかったつもりの人がいても、博物館がわかる人はいない、という話題になることがあります。博物館法は、文化の向上についての原理をよく説いている法律なのですが、読み違い、はき違いされることさえあるように見受けられます。

 

 文化財の発掘、保存・収集、展示公開は、博物館の領分になります。図書館は、閲覧や貸出しが主事業ですから、仮に展示による一般公開があっても、図書以外においては考えにくいなど、制約が生じがちです。さらに、図録や各種刊行事業となると、なかなか及びません。

 そして、博物館的な事業について言えば、図録も、物産・販売物という概念でしか扱えなくなっているところが少なくありません。博物館における学術的な刊行を、資料収集・展示公開と連鎖して効果的に成り立たせることが、さまざまな意味で難しくなっているのが現況です。

 

 電子書籍元年ということが言われる時代だからというだけではなく、図書刊行の難しさを訴える方々が多くなってきています。

 こういう時代において、 昨年12月6日のブログで述べたように、私たちDioの会は、図書刊行を志向するようになったとはいえます。あれからも、さまざまなお話を頂き、勉強になっております。ただ、何かお手伝いする意味では、やはり微力です。企画は練っているのですが、個人レベルのNPOでは、文化向上モデルとしても、果たしてどこまでのものになるのか、という思いです。

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2012年09月13日 14時20分
ミューゼオロジー以前のこと

 
 
文学館なら、国立の機関としてできないのだろうか、という思いにいたったことが、私もしばしばありました。何かのきっかけで記憶に上ってきます。

 

 市制○周年記念事業とか、名誉市民や郷土の偉人の顕彰というのは、全国の地方自治体で行なわれていることです。是非をいう以前に、それはそういう概念の事業なのです。

 一般市民を満足させるだけではなく、世の高踏的批判に耐え、専門社会の期待に沿うような内容であろうと、事業に取り組む健気なスタッフがいます。いつ何が好転しないとも限らないのですから、諦めない、懲りない側も、うるわしく思われます。

 ただ単に、こちらではできないから、そちらでやってくれ、というのでは、お互いに水掛け論でしかありません。やってみなくてはわからないと、何十年も、何もないところで振り出しに戻り続けることもありましょう。

 

けれども、実態把握を飛び越えてのブンガッカンコウソウで、まだ存在しないものについての重責が生じては、誰が負いきれるのか、はらはらものです。作家への地道な評価に責任を持とうという態勢が、あるかどうかです。

個人レベルのNPOは、微力も微力です。安心安全のための実態把握が進んでもらいたいと願って、情報発信することくらいしかありません。

 

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2012年09月12日 15時52分
続 ミューゼオロジー

 

 文系の専門職としては、教職のほか、これよりないほどに重要な職業にもかかわらず、社会的な認知度の低いのが学芸員であるといわなくてはなりません。“日曜美術館”的な注目が集まることがあるかと思えば、少数派の職種なので立場が弱くて当然ともなりがちです。

 

 展示事業にかかわる専門的な業務に長期的に就いている者が学芸員であり、大学に履修課程があり資格を取得します。国立の館や都道府県の教委に登録された博物館でなくても、ユニークな活動をしているミュージアムは近年ではかなりの数となっていて、学芸員もようやく絶対数が増えたのではないかと思います。

 

 過去の話で恐縮ですが、ある質問に答えられなかったことがあります。

「(博士号を持つ若手研究者でもないのに)短期契約で働くシステムはどうしてだ?」学芸員は、地域やミュージアムの仕事に就くことにより、その地域文化を担当する専門職としての学芸員になります。学芸員は、地域の課題に長期的に取り組むことで、ようやく地域文化の向上に尽くすことができるはずです。

 私も疑問を持つ側であり、どこに聞けば回答が得られるか悩みました。

 

 つらつら考えてみるなら、多くの場合、学芸員は、博物館学芸員としてではなく、“なにかにみなされて”雇用されているに過ぎないというになるのかもしれません。あたかも、ポスドクにみなされて、一般職か事務職にみなされて、というのが実態でしょう。

 財政や運営が許さないために、博物館が登録されないのと同じように、学芸員は雇用側の都合や認知によって、ポスドクや個人事務所の職員や展示デザイナーにされてしまっている、ということでしょう。認知違いが万延しているのであり、それで、わけのわからないご下問が、あちらからも、こちらからも、やってくるのです。学問的裏づけを探す暇なく、推察力で回答作りをしなくてはならないこともあります。

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2012年09月11日 19時36分
ミューゼオロジーなど
 

 学問としての博物館学もありますが、一般には、ミュージアム事業を向上させるためのもろもろの情報が、ミューゼオロジーと考えていいでしょう。

 

 現在、ミュージアムスタッフ、特に学芸員は、大変な努力を重ねて良い仕事をしています。しかしながら、職場が博物館として位置づけがされてない逆境や、恵まれない処遇など、これでいいと思われては、背筋が冷たくなることもあります。

 難しい状況のうちで、いろいろ聞いてくる方、関心を持たれる方々がいます。両腕に荷物を抱えた現役時代には、もの言う余力がありません。

NPO活動として、それを補うことができたら嬉しいことです。ただ、援護射撃をすると、その流れ弾が味方に当たる危険があるのだそうです。

 

 日本におけるミュージアムは歴史も浅く、とくに、小規模な事業は、「経済バブルのおかげでしかない(成熟していない)」ことが多々あるのは事実です。それでも期待や要望によって成立したのであり、意欲的に従事している人たちがいます。日本の文化そのものが向上していくならいいのですが、一部に期待が偏ると、ただ危険な負荷となるような懸念は覚えます。例にするのも憚られますが、日本固有の存在であるブンガッカンの運命やいかに・・。

 しっかりした組織と施設を持つミュージアムを建設し運営すること、それが成されれば、事業展開はノーマルになるはずです。正論にすぎることを、明らかに言える日のあることを祈るばかりです。

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2012年09月04日 12時02分
作家間の「格差」と、再評価について

 以前(2月10日ブログ)にも書きましたが、作家には、生前・没後における評価の運・不運があり、状況次第、あるいは後の者の責任ということがあります。全集・選集が次々に刊行され、記念館や公立館で、ひきもきらず展覧会が開催されている人もいます。片や、ほとんど忘れ去られた作家もいます。分野や作家個人の間に、世間的な処遇の格差があることについて、是正を訴えたくなるお立場も察することができます。

 

 しかしながら、本当の評価は、作家本人を知っている人が誰もいなくなってから始まると言う人もいます。長寿をまっとうした作家でも、没後50年は経なくてはその時は来ないことになります。夭折した作家なら、著作権が消滅してからさらに何十年かたたなくては、時代がまわりません。

さらにいうなら、そのころに評価が「始まる」のであり、定まるというわけではないと考えられます。人の世には、絶対的なものはなく、すべてが相対的な評価と考えられます。フェルメールの美が看過されるときも、高い評価が集まる時代も繰り返されるということではないでしょうか。

 としたなら、作家遺族や同時代の愛好者の思い入れ、ときには時代錯誤、固着としか思えないようなことも、何も意味がないと言い切ることはできないことになります。すべて、時間が解決する、ということでもなく、ただ、時の流れが、処遇の格差を修正し、再評価の波を起こすことはあるということです。

 

 竹久夢二は、著作権の消滅後も、作品が古書店の目録表紙絵に用いられ、小物デザインに使われるなど、常時活かされています。没後80年に近づいても、私設美術館を主とする複数の館の懸命な運営により展示が継続されていることも、稀有な例といわなくてはなりません。

 ただ、夢二が生きた時代は、実際には遠い世界です。自分の支持する作家が、作品としてまだ生きて働いていることは嬉しいのです。が、体系的な評価や位置づけが、なかなかすすまないことは、気がかりです。(追記:仕事として関わりを持っていたことのある者として自責の念です。)

 

 というわけで、小さな声をあげてみたいと思います。

 夢二とは限らず、死後50年以上経過した作家については、従来の世評がどのようなものであれ、その時点で必要を説く人がいる場合は、相応の見直しがなされてもいいのではないか、ということです。読者や鑑賞者の思想というか、良識として、作家は、没後半世紀以上を経過したら、再評価の潮時なのだということを、認めるようにしたいものです。

 

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2012年09月01日 16時35分
竹久夢二を起点に、大正100年の表現をたどる

 夢二に関心を持ってから、20数年が経過し、やがて30年になります。展覧会を企画し、本を出す機会に恵まれ、頼まれて原稿を書いたりお話したりすることもありました。そうなりますと、次第に資料が集積し、ほかのことにかまけていると、かえって課題は山積して来て、どうにもつづきをしないわけにいかなくなります。

 

 夢二のことをやっていると、すべての道が夢二に通じているようにみえて、ほかのことには目が向かず、はまり込むと言われています。私も多才な夢二に魅力を覚えていることはそうなのですが、どういうわけか、関心が拡散します。夢二が大正ロマンの旗手だったころとそれ以降の100年の表現というのは、何だったのだろう、くらいに漠然とした思いが広がるのです。

 

 準備中のサイトがいつ完成するのか、しないのか、あてはありません。構想100年になりそうだ、と思ったら、9月1日夢二忌でした。この日を機に、最初のページだけでもアップロードして、これからは、遅筆ながら内容を加えていくことができれば、というところです。     ⇒ 大正100年のmasterpeice


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2012年08月29日 15時27分
「死蔵」ではない、「門外不出」について

 公的機関において、資料を倉庫に入れたままにして、ときおり事務官が備品検査をするだけ、という状態を「死蔵」といいます。資料整理に手間がかかり、「調査中」でも、「公開中」ではないことから、あたかも「死蔵」しているかのように言われる場合もあります。また、急ごしらえの意図不明の展覧会は、「資料の虫干し」と称されています。

 

 ですが、個人が所有しているものについては、「死蔵」とは言われないものです。

 卑近な例で恐縮ですが、自分のことをお話しましょう。

 

 私は、大正から昭和初期の北海道で、祖母がつかった茶箪笥と姫鏡台を引き継いで、今も愛用しています。生活資料として展示品になるかもしれないという思いが、チラと脳裡をかすめたことはあります。ですが、気後れしています。

 北海道は寒冷なために、樹木の生育が遅く、木材は堅く締まった堅牢なものとなります。私の木製家具も、まだこれという狂いもなく、日常の使用に耐えているのです。ただ、何の変哲もないもので、「よくこんな古ぼけたものを、後生大事に・・。」としか言われないようなものなのです。

 私にしてみれば、大正100年の活動をするにあたり、これらの家具に力づけられるものがあります。また、小引き出しや小袋の戸を開け閉てするときの幸福感というのは、所有者である本人にしかわからないものです。「まだ、使っている」ので、「門外不出」です。

 

 博物館のうちで、市民の生活資料を展示しているところはありますが、どのようなところが北海道の木製家具について詳しいのか、私もまだ知りません。木工芸の展覧会なら、地域の産業としての木工や、優秀な作家を評価しようという意図が強いようです。いずれ、木製家具について勉強してみようというのも、老後の楽しみになります。

 

自分が価値を認めるものを他者が認めるはずだと思うのは、少し違っています。これも、我が家のことですが、どうしても無用の長物でしかなかった過去の暖房器具を、「破損していないこういう資料を探していました。」と喜んでお持ち帰りになってくれた博物館の館長がいました。いつか、理解者はあらわれるのかも、くらいに思っています。


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2012年08月22日 19時02分
いわゆる“箱もの”批判について

 やや懐かしい言葉になりましたが、「“バブル”の塔」などと、入れ物ばかりがリッパなことへの批判があります。いわゆる“箱もの”である公共施設や文化施設を建設する施策を、問題視する言い方です。

 しかしながら、文化事業に携わる立場で言えば、よほどの欠陥がない限り、施設・設備は、ないよりはあったほうがいいのです。むしろ、財政的に難しい側、非建設的な側の擁護論として、“箱もの”批判を聞かされてきたような感が私にはあります。

 

 専門的な資料館や図書館では、展示機能を持たないところもあり、「(寄贈資料は)書庫に死蔵される」というような不安もまた、人々の口にのぼることです。ですが、研究機関の書庫に入れば、研究者は閲覧できますし、他館の展覧会には、貸し出しもされることがあるはずです。

恒久的な博物館であれば、新たな分野の資料を収集し、展示を企画し、やがて専門の人員を育てて行ってくれるはずと期待されます。が、やはり「死蔵」への懸念や、活況を呈する民間事業との比較が言われるようです。

 

 一般のミュージアムでは、新資料が出たというような情報をもらっても、「うちでは、受け入れ態勢がありません」という回答になりがちです。当初資料の3倍以上の収納力を持つ収蔵庫を建設しておく課題を、クリアしている館は滅多にありません。また、まとまった新資料を受け入れるのなら、相応の調査をして、特別展を開催することになり、スケジュールや予算の調整があり、すぐには動けないのが実情でしょう。 

 

 公立・私設を問わず、収蔵庫の容量が乏しく、展示室の環境や耐久性に問題がある館は、仮に現在は良い事業を展開していたとしても、可能性に限界があるわけです。これは、箱が立派なほうがいいか、事業内容に活気があるほうがいいかという問題ではなく、どちらにしても対処していかなくてはならない課題があるということです。

 芸術とか文化というのは、そもそも陽の目をみない分野です。今、生きている人の生活のほうが大切だ、復興だ、経済効果だ、というのが常です。文化事業に多少なりともかかわりを持つことになる場合には、ことを刹那的に批判して溜飲を下げるというのではなく、建設的に気長に働きかけてゆくほかないのではないかと思います。

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2012年08月20日 14時25分
ランチタイムのカフェトーク” vol.1 の企画発表!!

 大正100年を記念しまして、ランチタイムの“カフェトーク”を開催いたします。
 来る11月25日(日)、「武蔵野の詩人と童謡」と題して、Dioの会の代表、実行委員ほかが皆様方をお迎えし、ハープの演奏も予定しております。

 “カフェトーク”お知らせページより、メールでご参加のお申し込みができます。
 Dio12号にも、ご案内の記事を掲載しました。

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2012年08月20日 12時22分
“free paper Dio” vol.12をお届けします。

 Dioの12号は、三木露風文学館のトップページからweb版をお届けしています。

 今回、初めての執筆者は、松崎茂氏と、大橋博之氏です。

 プリント版も、一部の文化施設になりますが、配布いたします。

 
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2012年08月18日 16時18分
資料の受け渡しについての作法・・。

 資料の寄贈、寄託、貸借などにまつわることについて、周知に尽くすのもNPO活動の役割だろうとは気づいております。しかしながら、何らかの文化的な価値のあるものをどのように収集し活用するかは、そもそも当事者である館の問題としてケースバイケースであり、一般論としても体験的にも、語りつくすのは難しいことです。

 

 知り合いの博物館の館員に、企画事業において参考になりそうな冊子を渡すことなどは、何でもない行為です。それに対して、価値の高い未公開資料を寄贈する役割を果たすことは、また違った大きな事業になるのは、誰しも理解することと思います。

 資料を寄贈するお立場の方から、文化財の置き場に困っているので速やかに受け入れてもらいたいというご要望がでるときがあります。さらに、親戚が言うので一部の資料は返却してほしいとか、愛着の残る資料の扱いに不服があるので寄贈をなかったことにするなど、ご請求が次々に続くことがあります。

実態を言えば、寄贈品の資料的価値が高く、数量が大である場合には、寄贈のお申し出から、受け渡し、収蔵までの年月が予想を上回って長くなります。そのために、どのように温厚な方も、感情的にプチ切れることがあるのです。

 

 このような事例への解決策というのは、存じません。

 ただ、これらのことを緩和するために、様々なことが講じられています。第三者に間に入ってもらうなど助力をもらうこと、寄贈先の職員にできるだけ寄贈者の味方になっていただくこと、などです。また、「文化施設への寄贈」という志を受け止めてもらいながら、資料移送などの経費は相手方の負担というルールには乗ってしまうことです。さらに、資料の所有が移るという、ひとつのけじめのためにも、一部の資料は買い上げて頂き、大半のものは寄贈するという方法もあります。

 しかしながら、日本の役所のひとつである文化施設のことです。まだどのような内容なのか詳細がわかっていない大量の資料群のうちで、どの資料を買い上げ、どの資料を受贈するかについて、受け入れ側が目録を作成するとしたら、最低でも1年から数年がかかり、それから決済され、予算というものが付くことになります。寄贈が1回で終らず複数回になれば、10年、15年という月日はまたたく間に流れます。

 

 さらに言えば、ひとりの作家資料でも、複数の館に受け入れていただくほうが、再評価の相乗効果が増します。保存上でも、分散することが望ましくなります。地域や各館の性格があり、どのような資料を受け入れたいかという受け入れ先の態勢もみなくてはならなくなってきます。寄贈は、大仕事なのです。

 ただ、30年、50年後を思えば、それらの資料は何事もなかったかのように、収蔵庫の棚か展示ケースのなかに収められていることでしょう。それ以上のこと、それ以外のことは、考えてもしかたないことのように私は思います。保存と継承は、個人ひとりで背負うことではないために、公共機関や次世代にお引渡しをすることなのですから・・。

 

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2012年08月16日 12時02分
猛暑の季節に、保存対策のこと
 
 今になって、せめて梅雨時に書いておけばよかったと思うことがあります。
 財力・予算をお持ちの方は、博物館用品の専門業者に相談することですから、関係ありませんし、賢い家庭人が知らないわけはないことです。が、そうとばかりはいえないと気づきました。

 いわゆる100円ショップに、「竹炭 タンス・押入れ用」(竹炭パック2本入り)という商品があります。炭の粒子が細長い布パックに包まれているものです。
 「除湿」「防虫」「消臭」とその効能が書かれていますが、違いありません。長年の愛用者としてのレビューです。


 押入れだけではなく、食品庫にも対応します。安価で万能で、これが、大切な資料を収めた箱や書庫の棚にも使えます。入れたり置いたりするだけです。
 個人所蔵者には、まだ、これという保存対策を講じてない方もいるかと思います。是非、お試しくださいませ。


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2012年07月29日 12時17分
蘇った東京駅

 復元予定図もテレビ報道もその時々に見ていたのですが、先日、丸の内にでるために東京駅で降りるときには、緊張感を覚えました。完成した駅舎外観を眺めると、その豊かなスケールとエキゾチシズムに心が打たれます。今日に至り、駅舎建築が妥協のない姿で復元されたことも、大正3年には、首都東京の駅としてこれが完成していたのだということも、なんとも感慨深いことです。
 撮影した写真は、当サイトのホームに掲載しました。

 帰路に就いてから、明治生まれだった祖母が、「何でも戦争前のものの方がよかったよ」と言っていたことを思い出しました。東京駅は、大空襲で焼失したドームと本来のフォルムをようやく数10年ぶりに取り戻し、受け継がれていく大正期文化として蘇ったのです。
 天災や人災によって損なわれたもののすべてが修復されるとは限りません。ただ、激動の時代をすぎて、見直される大正、昭和の文化というものは、あともう少しあるのではないかと思われます。

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2012年07月25日 20時16分
直筆で描いた“絵新聞”なのです!

 JR中野駅北口のサンプラザ前から江古田駅行バスに10数分ほど乗り、江古田2丁目で下車、進行方向へ2,3分歩いた右手に、中野区立歴史民俗資料館がありました。シックな建築の前に、ポップな看板があり、中島菊夫の展覧会開催中です。

 中野文芸館シリーズ 日の丸旗の助の作家 中島菊夫と中野の子どもたち(9/2まで)は、『少年倶楽部』への漫画連載などで人気を博した作家の戦中生活に焦点をあてて紹介しています。
 戦局悪化のため、疎開した国民学校の生徒たちにむけた『慰問新聞』には、直筆で、「鷺宮だより」などの絵入り記事や動物漫画、子どもの登場する絵物語が描かれています。当時の子どもたちは、回覧して読んだのでしょう!
 新資料のため、まだ、図録制作も復刻もされてないとのことです。展示室では、細かな文字で書かれた記事や、登場人物の台詞は、読み取りにくいのですが・・・。ただ、作家の心持ちが胸に迫ります。

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2012年07月14日 15時04分
中島菊夫展の開催について

 中島菊夫没後50年を記念する展覧会の開催が、いよいよ迫ってきました。中野で7月21日より行なわれます。
 長く埋もれていた漫画資料や写真、戦中の資料などが初めて公開されることになります。
中島菊夫の展覧会情報をご覧ください。

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2012年06月28日 16時55分
“free paper Dio vol.12”の編集準備に入りました

 フリーペーパー(free paper Dio)の12号を8月に出す予定で、寄稿のお願いをしているところです。内容は、展覧会の話題やエッセイなどです。楽しいお知らせを掲載できるよう準備中です。

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2012年06月21日 17時09分
資料整理の明け暮れ

 資料の整理方法というのは、決まったやり方があるというわけではありません。

資料のおかれている状況も様々で、意外に多量の新資料が、中途半端な状態に置かれていることがあります。

 

 ひとりの作家に関する資料が、何千点あろうとも、ともかく分類することが基本になります。様々なモノのなかから、写真や身辺資料、直筆資料などを、ひと山ごとに分類することが出発点です。

 最初から順序や題名がつけられるものと焦ってはいけません。まずは、初期、中期、後期など、いつのころのものなのか大雑把に考えてみます。既発表の原稿なのか草稿なのか、表記や筆跡の癖はどうなのか、原稿用紙の種類はどうなのか、分類法を見つけることが、分類であり、何かを見極める手始めになります。

 

 資料のなかに、作家の思いがけない癖や心配りをみつけることがあります。多くの資料に接することは、その作家の人柄と彼が生きた時代を感じとる良い機会です。それで、作家のライフスタイルを伝えることに尽くすことができれば、まずはひと仕事をしたことになります。

ただし、作品評価や作家の位置づけという課題は、なんともはかばかしくすすまないことがあります。世評を覆し、評価を塗り替えるようなことができればいいのですが、ただ、日々、資料の分類・整理に明け暮れてみることが、あるものです。

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2012年06月14日 18時23分
再び、「一銭」と貨幣について

 山本有三という人は、大変に几帳面な性格だったと言われています。作中に、お金の数値をきちんと書き込むことも、そのような几帳面さのあらわれかと思います。

 1月29日のブログで、「路傍の石」の冒頭に、1銭銅貨で焼き芋を買う場面があることについて書きました。そして、6月11日に、次野先生が登場する場面を紹介」してみますと、ここにも、「一銭にもなりゃしないよ。」というように、「一銭」がでてくることに気づきました。

 今では、「一円にもならない」と言いますが、円の100分の1のお金の単位として「銭」が使われていた時代があり、その小さなお金という意味で、「1銭」は用いられていることになります。

 

 しかしながら、作中の酒に酔った次野先生は、つづけて、(「しづ心」の境地は)「へん、当節の十円金貨を持ってきたって買えやしないぜ。」といいます。

作中には、「銅貨」「銀貨」に加え、「金貨」も登場しているのです。明治30年の貨幣法をひもとく必要もあるでしょう。(十円金貨は、二十円の価値とされたそうです。)

ただ、ここにおける「十円金貨」は、実際にモノを買うためのお金としてではなく、言葉のうえで「しづ心」の境地の価値をたとえるために引き合いに出されています。莫大な価値をあらわす「値千金」(千枚の金子)という表現もありました。人は、自分が実際に思うように使うことの叶わないような金貨などを、貴重なものの価値をたとえるために用いるともいえます。
(銀貨について言えば、吾一が奉公にでて、初めての薮入りに母の元に持ち帰ったのが「五十銭銀貨」であり、作中に吾一の所持金として幾度か登場します。)

 

 私は、文学作品の注釈に、特に関心が深いわけではありません。山本有三を読む会のメンバーのうちにも、長編小説への注釈を経験した人はいないとのことで、私のようなものも加わることになりました。

 書かれた時代におけるその言葉の意味や定義をつかまえ、小説なのですから、さらに作品や作者に絡めて考察を加えることも必要でしょう。そして、注なのですから、客観性をもって簡潔に文章にまとめることが求められます。つまり、長編小説への詳しい注釈というのは、事業として、意義のあることでしょうが、途方もなく壮大なものになるように、私のようにHPを書くので一杯な者には思えます。

私個人にしても、Dioの会にしても、このことについてはあまりに微力であることを、再三、表明しております。山本有三を読む会の活動を応援する意味で、どこからか助っ人が現れてくれないものかと期待するばかりです。

 

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2012年06月12日 13時51分
続々 福沢諭吉 イソップ寓話の翻訳者

  どういうわけで、福沢諭吉(天保5年~明治34年)が一万円札の顔となったのか、私は、よく知りません。「学問のすすめ」が現代語訳でだされるほか、今日でも著作集や論考の刊行が継続されている福沢諭吉ですが、私立大学の創立者であり、初期の渡欧者であり、教育者、啓蒙家と考えればいいでしょうか。

 

 思えば、諭吉は、イソップ寓話の近代初の翻訳者でもありました。『日本児童文学名作集 上』(岩波文庫)の巻頭に、諭吉の『童蒙教草』(明治5年)より「イソップ物語抄」が収録されています。

 「黄金の玉子を生む鵞鳥の事」は、黄金の玉子を生む鵞鳥の腹を貪欲から割いてこれを殺してしまった話であり、「羊飼ふ子供狼と呼びし事」は、いわゆる狼少年の話です。翻訳にあたり原本としたのは、イギリスの少年向け道徳書とのことです。道徳にしても教訓にしても、お話として面白いものがあるということは、教えられます。

 

 近代における文学の分野では、芸術至上主義に傾きながらも批判や内省がありました。有三は、若い人々や広く国民に対して教育性を発揮する文学を模索していくようになります。「路傍の石」を書いたころの有三にとって、教育者として書いた諭吉の存在は、小さくないものだったに違いありません。

 

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2012年06月11日 13時04分
続 福沢諭吉 「新女大学」の争点

 「路傍の石」作中で、「文学と討ち死に」する覚悟をしている次野先生が憤慨したのは、『時事新報』に掲載された福沢諭吉「新女大学」(明治32年)のなかの文章によります。

 

三十一文字も三味線に合してコリャサイの調子に唄えば矢張り野鄙なる可し。古歌必ずしも崇拝するに足らず。

 

 「新女大学」には、父たる者も育児を負担すべきだというような今日でももっともらしく聞こえることが書かれています。そうかと思えば、学問や素養のことだけではなく、家庭生活の「塩噌の始末」など卑近なまでの広範な事柄について、年寄りの知恵ともいうべき小言や教えが、これでもかと展開されています。そのなかで、婦女がたしなみとすべき茶の湯、挿花、等々をあげた後に、日本人の心のアイデンティティともいうべき和歌に偏るなという意味で、否定的な表現をしたようです。長く民衆に愛された三味線を、頭から認めていないこともうかがえます。

 これに対する「路傍の石」の次野先生は、単純に文学謳歌を述べます。芸術のための芸術の概念も、日本に入ってきていた背景もあったでしょう。

 

 「ええ、君、いい歌じゃないか。ひさかたのひかりのどけき春の日に、しづ心なく花の散るらん! おれがこうして歌ったって、そりゃ一銭にもなりゃしないよ。一銭にもなりゃしないが、じつにいい気もちじゃないか。・・・」

 「・・・人間『しづ心』がわからなくっちゃ、役にたつ学問も、へったくれもあるもんか。実学がなんでえ、実業社会がなんでえ。・・・・」

 

明治期に実際に影響力を持った言説と、巷の反響の実態を、有三は小説に書いておきたかったのだろうと思われます。
 (なお、「路傍の石」の新聞連載末尾では、作家となった次野先生が、吾一が企画した雑誌『成功の友』を、「いやな名前の雑誌だ」と言い、立志小説の執筆依頼を断ります。) 

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2012年06月10日 18時33分
「路傍の石」から読み解く福沢諭吉

 山本有三は、「路傍の石」のなかに、作中の時代である明治後期には有名だった文化人の実名を何名か記しています。明治という時代を小説のなかで彷彿とさせるために、昭和期には既に歴史上の人となった著名人の業績やエピソードを挿入したと考えられます。

 巌谷小波、正直正太夫(斎藤緑雨)、福沢諭吉などです。つまりは、作中の吾一少年の歩みと共に、これらの文化人の行為と思想を検証する狙いも作者にはあったと思われます。有三は、芸術至上主義に安住することなく、文学の可能性をあくまで追求したい作家だったとも言えます。

 

 新聞連載の「路傍の石」(昭和12年)は、吾一少年が出版を企画する青年になるところまで筋が進んでいます。吾一は文学青年というのではありませんが、その時代に隆盛した印刷と出版の仕事に携わり、演説の筆記や一般向けの雑誌などを企画するようになります。作中の背景として、明治期の著述と出版文化に関わる著名人が登場することも頷けます。

 

 作中では、吾一が、「学問のすすめ」(明治5年~)のなかの「人ハ生レナガラニシテ貴賎貧富ノ別ナシ 唯学問ヲ勧テ・・・・」のくだりにすっかり感激したということが書かれています。福沢諭吉の影響力を伝える箇所です。(社会人となった吾一が、少年雑誌の懸賞論文に応募し、「学問のすすめ」そっくりに、実用の役に立つ学問について書く場面もあります。)、

 

 ただ、通常、「路傍の石」は深読みされることなく、読書家は、福沢諭吉に焦点を合わせることはなかなかしません。「学問のすすめ」もつまりは、若い人々むけの翳りのない啓蒙書であるという認識でしょうか。

作中には、小学校教諭の次野先生が、酒席で、「失礼ながら、福沢先生には、文学はまるっきりわからないんだと思うね。」と言う場面もあります。小説好きの読者なら、ほぼこのあたりに同感しがちです。
                   

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2012年05月23日 18時59分
多機能スマホのような「路傍の石」

 山本有三が作家としてまさに熟したときの小説「路傍の石」は、いわば“アプリ”を入れ替えることにより多機能になります。児童文学、家庭小説、成長小説、教養小説、歴史小説、国民文学、思想文学などとして様々な鑑賞が可能で、無論、比較文学的な興味の対象にもなります。また、日本語が、ドイツ語のように、誰が使っても的確な表現になる言語にならないだろうかと発想した彼が、もっともその考察を重ねた時期に書かれているのです。元々は劇作家だった彼の口語的な表記・表現を知るうえでも、さらに国語がどうあるべきかを考えるうえでも貴重なテキストになります。

 

 戦後の国語改革においては、有三は、ローマ字やかな文字に統一したらいいという説を退けて、漢字まじりのかな文を推して、当用漢字や現代かな遣いの制定に尽くしました。国語改革には賛否両論がわき上がり、今日においても、旧来の国語力や漢字知識を身に付けさせることで、若者は社会に通用する人間になるという考え方も生きていると聞き及びます。中庸な判断をしたかつての有三にも、批判の矛先が向けられることも多々ありました。

 

 私個人としては、有三が雑誌において、目にやさしい横組みを試みながら、時期尚早だったことが思い起されます。今日では、PCやタブレット類では、否応なしに横書きとなります。
 以前にも、「英語と英文タイプができると就職に有利」と言われましたが、時代は進み、「英語が社内の公用語」と宣言する日本企業が現れ、IT用語としての英語は、日本語への翻訳不能のままに用いられています。一般ユーザー向けに、一部日本語まじりがあるだけです。音声入力メールは、どうしてこの表記なのか、などという理屈を超えて口頭語本位です。たまたま、スマホを使っていて、合理性を重んじながら弱者の立場を思いやる有三のことを連想しました。

 

 どのように平易な言葉で話し合っても、観点の違いから延々と平行線となり時間を失うことがあります。私は、国語学には疎く、残念ながら、平易な国語の実現や国語がどう生き延びるのかについて、強い関心を持つことはできません。有三から学ぶことができるのは、合理性を持って万人を思いやる取り組みではないかと思えるのです。

 

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2012年05月22日 19時39分
文学や美術に何ができるのか-大正・昭和初期篇
 

 竹久夢二の図案が、現代においても参考になり、活用できるものであるのは、その画才によるものです。彼は、実業家として、何かを残したというわけではありません。

 

 大正期から昭和初期の日本の農村は貧しく、首都圏を襲った大正大震災の打撃も全国に広がったようです。有島武郎が北海道の私有農場を開放し、柳宗悦らが民芸運動を興し、宮沢賢治が農民芸術を唱えたような時代でした。

夢二の手による産業の構想は、時代の思想に育まれたものであったろうと考えられます。また、彼には、女性が絵草紙店の店主として、あるいは手工芸作家として自活できないものかと考えるような一面もありました。群馬県の竹久夢二伊香保記念館には、「榛名山美術研究所について」という宣言文(昭和5年)が残されていて、夢二は榛名山麓に小屋も建てています。夢二のプランには、島崎藤村、藤島武二ら著名文化人の賛同もありました。ただ、山間に産業を興して生活日用品の自給自足を促そうというのは、理想論めいています。夢二自身、永らえてその夢を果たすことは、できませんでした。

 

しかしながら、地場産業というのは歴史的に存在しますし、近年では地産地消ということも進められています。大企業の工場が海外移転するとかしないとかだけではない産業は、今日でも健在なのです。

 夢二という人は、天才的に多才な作家であったのですが、世の中に対しては、少しずつ実現されていくようなことを提起したのではなかったのかと思われます。そのようなものの考え方自体は、今日でも学ぶところがあるように思うのです。

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2012年05月17日 20時58分
日本の「かわいい」は、どこから来てどこへ行くのでしょうか
 

 Wikipediaに、まだ取り上げられてない事柄・概念があると、まあ、いずれ識者が書いてくれるだろう、と思います。「出版美術」についても、それを待ちましょう。

 

 独立した絵画などは別として、おおよそ多岐にわたる造形の夥しいものが、広義の出版美術に類するか、その進化のように見えることがあります。

 近代以降に隆盛した出版にかかわる装幀・挿画は、複数の作品が制作されることで、版画の概念と重なります。そして、多数制作されることが前提の美術は、庶民性・波及性を属性として持ちます。

 

 竹久夢二は、「かわいい」を表現した作家でした。彼は、一世紀近く前に、小さな挿画・版画を起点にして、千代紙や封筒ほか小物図案に手を染め、デザイン・手工芸による産業美術を興そうとします。以降、それは、画幅・屏風絵の制作にも力を注いだ夢二の挑戦から離れて、様々な発展をとげたようにみえます。

 

一例として、世界約70ヶ国に進展しているというハローキティがあります。擬人化された白い子ねこのキティは、30数年前に、若年層むけの文房具・装飾品などのために造られたキャラクターです。グッズへのプリントが中心ですが、顔型が形成されたデザイン物もあり、現在は、年間5万種が世界中の大人にむけて販売されているとのことです。
 日本の「かわいい」は、特に近年、国際的な市場に進化しているとは言えるでしょう。ただ、それは何の範疇にあるのか、どこへ行くのかは定かではありません。

 

 弥生美術館・竹久夢二美術館の展示は、歴史的な事象を扱いながら、まだ定義が充分でないものを追います。そこが、ビビッドな課題提起に感じられます。
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2012年05月14日 20時16分
出版美術って何だろう

 

 私は、雑誌・図書の装本から小説の挿絵、絵本、版画、漫画など幅広い出版美術について、ただ馴染んでしまっただけです。そのためか、総体としてこれは一体何なのか、という問いを持つことがあります。また、どのようなポピュラーな分野にも、無理解な視線がないわけではなく、それに対応するにはどうしたらいいのかという問題意識もあります。

 

 そのため、ある程度の分野を網羅して、時代も最低のところ明治、大正、昭和の近代について、事典を作り、さらに詳しく知るための手引きを添えてみたら、自分の視野も開けるだろうし、第三者に伝えるにもいいのではないかと思いついたことがありました。需要があって企画イベントや出版が盛んなように見える分野ですが、例えば、文学史や美術史のようには、事典類がないように感じられたのです。

無論、自分がそんなに大それたものを造れるつもりでいるわけではなく、ご専門の方々のお力をお借りして、せめて叩き台のような小さな本にでもなれば、という漠然とした思いでした。美術や文学の流れのなかで、童画や挿絵を語っていただくのもいいと思います。ですが、出版美術の立脚から、童話や童謡、詩や小説を見て、児童文化や雑誌・出版文化との関わりを説く課題もあります。

 

 そして、研究会などで、ご専門の先生方や現役学芸員のご意見を拝聴してみますと、私の思いつきの小さな叩き台にしても、意外にだいそれたことのように思えてくるところがあります。例えば、いくつもに分冊して丁寧に対さなくては可能ではないようなことかもしれないのです。活発な活動にも、「研究まで行ってないことが惜しい」というごもっともなご意見もありました。

 

 学芸員の立場から言えば、研究が進んでいる分野にしても、いつもあとひと押ししなくては、一般へ提供する企画事業にならず、その実施にはかなりの労力を必要とします。文科省の学校教育とは違うフィールドなため、大論文を書くとか、研究者を育てるというような発想は、私は持ったことがありません。学芸員になってしまった人、関心を持ってしまった人が、なんとか歩をすすめていけるようなことを考えます。

 私も、思いつきは思いつきのまま、次の世代にお渡しして、自分なりの挿絵・漫画観をまとめることを目標としたほうがいいのかもしれません。少し、時間を経てみなくては、道が見えて来ないようです。

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2012年05月04日 15時42分
大正3年と大正7年のエポック、そして『少年倶楽部』、「赤とんぼ」
  

竹久夢二が、絵入小唄集『どんたく』で「宵待草」を発表したのが、大正21913)年秋で、「宵待草」が多忠亮の曲でセノオ楽譜になったのが、大正7(1918)年です。

 大正3年は、阿部次郎『三太郎の日記』、夏目漱石『心』が刊行された年で、夢二においても、詩画集の刊行に続いて、港屋絵草店の開店で忙しかった年でした。大正7年といえば、大抵の年表に、「デモクラシー思想盛んになる」などと書かれている年で、童話雑誌『赤い鳥』が創刊されたことで記憶に留まります。夢二にとっては、2年ほど滞在した京都から帰京し、ターニングポイントといえる大正7年でした。

 

 大正3年と大正7年は、実に様々な出来事が起きた年です。大正2年から3年にかけては、数多くの詩歌集が上梓されています。一例として高村光太郎『道程』をあげるくらいでは済まされないような重要な時期に、夢二が、『昼夜帯』と『どんたく』を出したことの意味も、問い直してみたいことのひとつです。

 

 今年、中島菊夫没後50年を迎えて、彼がかつて漫画「日の丸旗之助」を連載した『少年倶楽部』が終刊したのも、奇しくも菊夫没年と同じ昭和371962)年であることに気づく人も少なくないと思います。大正から昭和にかけて半世紀近く人気を博した月刊少年雑誌『少年倶楽部』でしたが、いうまでもなく、創刊は、大正3年でした。

 

 ここ100年の中間地点となる昭和37年は、高度経済成長期のさなかであり、大正期に生まれた、三木露風童謡「赤とんぼ」のリバイバルが認められたころになります。少年雑誌の交替のように、時代は大きく転換したようでいて、表裏は一体したまま、また半世紀が過ぎ、いやおうなく新たな時代に入っていきます。

発展を助長する自由競争を精神面で支えるのも、そういう社会のあり方に内省を加えるのも、児童文化や国民的文芸です。ともかくも、大正の初めから今日までの100年を顧みることは、毀誉褒貶の教養主義、童心主義の行方を問うことになると思います。

 

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2012年04月28日 13時38分
Dio BOOKS 開店!!

 Dio BOOKSは、当サイト閲覧者の方々に、お気軽にDioの会の本を入手していただこうと開設した、簡易なオンラインショップです。消費税と送料は、当方がサービスいたします。

 

 Dioの会の本の売上げのうちから、制作原価がDioの会にもどってくることになっています。その資金で、埋もれている資料、忘れることのできない作品などに、新たな息吹きを与える意味での刊行をしたいと考えています。
 次の御本をお届けするためにも、ひとりでも多くの方々に既刊書をお求めいただきたく、お願い申し上げる次第です。 


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2012年04月25日 17時50分
中島菊夫展についての第一報が、来ました

 資料整理にご専心の大橋博之氏によりますと、最初の中島菊夫展の開催が決定したとのことです。菊夫が、最期まで長く住んだ中野で行なわれます。

  中野文芸館シリーズ
     
日の丸旗の助の作家 中島菊夫と中野の子どもたち
    
 会期:7月21日(土)~9月2日(日) 中野区立歴史民俗資料館にて

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2012年04月15日 15時54分
幻の中島菊夫「日の丸旗之助」

  日本出版美術研究会のメンバー大橋博之氏のお話から知ったのですが、本年は、漫画家中島菊夫の没後50年にあたります。現在、大橋氏は、ご遺族と懇意であることから、長く埋もれていた資料の整理に尽くしています。

 

 菊夫の代表作「日の丸旗之助」は、田河水泡の「のらくろ」が人気を博していたころの戦前に始まり、戦後も幾度もリバイバルした漫画です。一部資料の複写を見せて戴いただけですが、私も、記憶の底から、ストーリーと絵が蘇ってきました。

 

戦時体制のころに、封建時代を舞台にして、忠誠心を説く課題を負った作品だったのかもしれません。ですが、旗之助は、もともとの家臣ではなく、二投流の投げ縄の名人であることからお城に新規採用された元気な若者です。仕官する旗之助が主人公であるところは、近代以降のサラリーマン社会を反映しているようにも思われます。

若殿様と同行しながら「下意上達」をするのが彼の役目と考えられますが、若者に共通する「世の中を良くしたい」という理想のルーツを彼に見ることができます。旗之助は公金を預かっていて、行き詰った人に小判をだして与える役割を果たします。頓知を利かせて問題解決するだけではなく、即、キャッシュを渡すのは、庶民の願望に応えてのことでしょう。

 

 私は、旗之助に、まだ記憶に新しい赤塚不二夫「おそ松くん」の脇役で、日の丸の旗を頭に立てた「ハタ坊」を思い出ししました。この連想は私だけのものかもしれませんが、旗之助は、ヒーローやアイドルというよりは、社会のなかにむしろよくいる人物を漫画化したキャラクターと思われるのです。

中島菊夫の資料が公開されることで、日本のキャラクターを描いた漫画について視野がひらけてくるのではないかと期待します。


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2012年04月09日 10時38分
“free paper Dio” vol.11をお届けします。

 Dioの11号は、いつものように、三木露風文学館のトップページからweb版をお届けしています。
 今回も、初めての執筆者が、書評とエッセイを寄稿してくださっています。前川成男氏と、かぐらがわ・たかし氏です。

 いずれ、11号プリント版も、一部の文化施設になりますが、配布いたします。

 
(写真は、桜咲く、調布市富士見町、石原小前の鬼太郎公園。)
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2012年04月04日 17時13分
新しいURLでお気に入り登録をお願いします

 4月1日より、Dioの会のサイト全体のURLが新しくなり、多くの情報を掲載できるような容量になりました。現在、旧来のURLでアクセスしますと、サブページからでも、各発信サイトからでも、みな新しいDioホーム(http://dio.justhpbs.jp)へ転送されるようになっています。そして、ホームから、それぞれの新しいURLになったページを開いていただくことができます。

 ただし、旧来のURLからの転送サービスは、やがてなくなるとのことです。
 Dioホームと、必要なページは、新URLでお気に入り登録しておくことをおすすめいたします。(当ページは、新URLになっています。)

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2012年03月28日 18時37分
仕事というもの

 専門の仕事、あるいは自分らしい職業に就いて、それを継続させるには、どのようにしたらいいのか、ということを訊ねられることがあります。
 生涯において、仕事を続けることには、あまりにもさまざまな要因が絡んできます。お答えできないままになりがちです。

 自分を振り返れば、自身のキャラクターを考えに入れて欲張らなかったということは言えます。例えば、第一線の競争社会で生き抜くとか、高収入でなくてはならないとかは、考えにありませんでした。
 文系で専門的な仕事に就きたいということが、まずありました。それから、具体的な職と事業を手探りしたといえばいいでしょうか。私の若いころには、まだ学芸員という職種はよく知られてなかったのですが、美術館ブームと言われるころになると、「これしかない」と思い込みました。
 誰でも、若さゆえの世間知らずとか、向こう見ずというものを持っていますが、私もいくらかはそうだったようです。そして、職に就くと、「自分にも天職があった」くらいに気持ちだけは懸命になりました。客観的にみれば、空回りもあり、紆余曲折もあったでしょうが、その時の本人はそうは思ってないわけです。

 そして、準定年の年齢に達して引退し、これまでの仕事の延長上にささやかなNPO活動をしていくことになりました。今日では、「こんなに恵まれていていいんだろうか」という感慨を持っています。
 冷静になって、現役時代にどのくらい社会に貢献できたのか、これから、キャリアを積ませていただいた分をどのように還元していけるのか、それを問うてみると、何とも心細さがわいてくるばかりです。世間では、ストレスに強い人材が望まれていると言われます。私は、そういう意味では適性がありません。誰かに教えることのできそうな戦略も勝算も、ありません。
 ただ、ことにあたり、ノウテンキでいられることがあります。
 まあ、こんなふうに、自分で、自分自身の着地点を見つけることが就業ではないか、というのが私の考えです。

 晩年の父に、「仕事があるということは、活かされているということだ。」と言われたことがありました。そういうことに、なるのではないかと思います。

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2012年03月01日 11時05分
竹久夢二と大正時代を再発見する展覧会

 大正元年の100年後にあたる本年、装幀やデザインで際立つ仕事を成した夢二を、近年に収蔵された新資料を中心にして見つめなおす展覧会が行なわれています。一年を四期にわけて、大正期の夢二の仕事を紹介するものです。

 夢二と大正時代Ⅰ 港屋絵草紙店と大正ロマンの夢二デザイン 展 ―大正元~4年を中心に― は、4月1日まで開催されます。以降は次のとおりです。

 夢二と大正時代Ⅱ 「セノオ楽譜」デザインと京都時代の夢二を追って
                     ―大正5~8年を中心に―  (4/5~7/1)
 夢二と大正時代Ⅲ 夢二の恋と関東大震災をめぐって
                     ―大正9~12年を中心に―  (7/6~9/30)
 夢二と大正時代Ⅳ モダンの幕開けと夢二、次代の抒情画家を追って
                     ―大正13~15年を中心に― (10/4~12/24)

 会期中には、学芸員によるギャラリートークや、夢二ゆかりの本郷を歩く企画もあります。竹久夢二美術館のHPをご参照願います。

 大正3年に夢二が始めた日本橋(現、中央区)の港屋絵草紙店は、日本の「かわいい」の最初の発信拠点でした。弥生美術館では、“カワイイもの”の100年をたどる企画展が開催されます。

 大正100年記念 
  大正から始まった 日本のKawaii展 ファンシーグッズを中心に (4/5~7/1)

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2012年02月19日 12時55分
“free paper Dio vol.11”の編集準備に入っています

 Dioの会では、フリーペーパー(free paper Dio)の11号を4月に出す予定で、寄稿のお願いをしているところです。内容は、展覧会のお知らせやエッセイです。

 個人の意思の集まりにより、Dioの会の活動は成り立っています。文学・芸術方面のNPO活動へのご参加をお待ちしています。
 

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2012年02月18日 15時15分
浮上する「学問」と「芸術」の発展について

 最近、社会保障と税の一体化を前提に、年金制度について、不公平感とかなんとかかんとかと論議が盛んとなっています。「厚生年金がもらえるだけいい」「加入している側はまだいい」という声も耳にしました。事業主や為政者をおもんぱかったご意見でしょうか。
 
 私事を言えば、加入期間はそう長くはないのですが、ともかくも給与生活者である(あった)ことによる恩恵を受けられる側になります。ですから、「生涯現役」の方々をまぶしく仰ぎながらも、「引退」ができたと感謝しています。
 職業的な経験から、学問と芸術の栄える国について考えることがあります。私は、官僚でも統計学者でもなく、どちらかというと複合的な想像力に関わる分野を対象にしています。天下国家を論じるつもりは元よりありませんが、不思議で仕方がないことがあります。随分と単純計算で、未来図が描かれている、ということです。

 高齢者が圧倒的に多い未来社会において、若者が高齢者を肩車する、という最近よく見せられる図は、どういうものでしょうか。
 年齢の高い親なり、祖父母のイメージというと、孫や若い者の学費を出したり、お小遣いで助けたりする人であると言えば、そんなに豊かなわけはないと反論もあることでしょう。ですが、実感として、「あぁ」と思う人も少なくないと思います。現在、いわゆるニートや、振り込め詐欺まで、養っているのです。

 とにもかくにも、自分も、明日にも高齢者になります。その私は、本格的な高齢化社会には、若い世代の学問や、厚生年金制度の外にある芸術を後押しする年配者が急増するようにイメージするのです。これについて、精神的な支援があったとしても、それを支える経済力や保障力が問題なのだと言われるかもしれません。
 しかしながら、50年前に、今日の長寿者の体力や生命力をきちんと測りきれていたわけではありません。今後においても、経済や生産や技術が、知恵者である高齢者を中心に発展しないかどうか、それはまだ計りきれていないということでしょう。
 人間というのは、どうかしていくものです。学問と芸術が栄える国を想う側としては、制度改革のための制度改革もあるものだなあ、と感じるのです。 


(注:「学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずはない。」という、森鷗外の言葉があります。)
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2012年02月17日 17時27分
三木露風、『廃園』を上梓する-「露風評伝」

 一年以上も休載していた福嶋朝治氏の連載「露風評伝」が、とうとう再開されました。

 明治の終わりころに詩人としての地位を築き、弱冠20歳で詩集『廃園』を出した露風の歩みは、これから大正期へ入ります。象徴派の詩人として最盛期をむかえる露風の姿が、より明らかにされていくことが期待されます。

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2012年02月12日 20時24分
弥生美術館のギャラリートーク、90歳の現役劇画師、植木金矢氏語る
 伝説の劇画師 植木金矢展~痛快!ぼくたちのチャンバラ時代活劇~が、弥生美術館にて開催されています。本日は、植木金矢氏自らギャラリートークに登場し、学芸員からの質問に応じながら半生の画業について語ってくれました。

 植木氏は、子供のころに『少年倶楽部』の伊藤彦造などの絵に親しみ、挿絵画家になりたいと考えるようになったそうです。当時は、職業選択もままならず、鋳物工場に勤務しましたが、やがて、好きな絵を通信教育で学び、独学しました。
 『痛快ブック』連載の「風雲鞍馬秘帖」は、劇画のはしりとなった創作ですが、これで植木氏は人気絵師となります。そして当時の「絵物語」の形態で、チャンバラ活劇を描き続けました。漫画ブームが来ても、コマ割りマンガには気持ちがすすまず、日本画で好きな絵を描く道を選んだそうです。特に、嵐寛寿郎と伊豆の踊り子を画題として好んで描き続けています。現在も、『コミック乱ツインズ』に劇画を描いています。

 かくしゃくとした大正10年生まれの劇画師は、同展の会期中に計3回のギャラリートーク出演をこなします。
あと2回は、3月17日(土)、3月24日(土)です
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2012年02月10日 12時51分
読者としてできたらいいなあ、ということ

 小説や詩などの文学だけではなく、漫画や挿絵など出版されて鑑賞される作品は、つぎには全集や復刻本として復刊され、作品成立にかかわる情報や解説が付けられて伝えられていきます。そして、その時々に人々に読みつがれ、鑑賞され、注目度の高い作家・作品は、いわゆる研究が盛んとなります。

 では、復刊されない作家は、読者の支持を失った存在なのでしょうか。いえ、復刊の機会がまだ来ていないだけのこともあります。そこになにかを認める人がいるかぎり、作品は生きています。
 
 ただ、作家には、実人生における幸不幸のほかに、生前、没後を通して、作品評価における運不運がつきまといます。
 論者は少なくないのに、評価が行き届いてないことも、どういうわけか、作家自身が自負する作品群の評価が遅れていることもあります。望ましい復刊と鑑賞をとおして、正当に作家が見直されるには、並大抵ではないエネルギーが必要とされることになります。
 作家の不遇を救う、などということは、運命に逆らうようなことであり、生易しいことではありません。つまり、読者の使命とかモラルとは言いにくいのですが、それができたらいいなあ、ということです。

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2012年02月08日 14時28分
防災の心得について

 1985年ころのことを思い出します。(故)長田幹雄氏の文京区のお宅の前の道路に立って、まだ駆け出しの学芸員だった私は、その孤高さに驚いたものでした。ただ、切り立つような石垣に石段がそびえていて、家自体は少しも見えなかったのです。その石段を登りきって、はじめて閑静な和風の玄関先にたどりつきました。

 長田氏は、大戦前後には世評では黙殺されていた竹久夢二を愛好する研究家として、人々から慕われていました。氏は、出版社勤務だった生涯をかけて、散逸していた夢二の画幅やスケッチ帳、ノート、装幀本、掲載誌ほかあらゆる資料と情報を、個人で蒐集し、編纂して刊行に尽くしていました。初版本と日記、書簡の編纂については特筆しなくてはなりません。私が面識を得たころには高齢になられていて、各地の美術館への資料寄贈にも心を砕かれていました。つまり、我々の恩人のような方です。大正大震災も、戦災も体験した氏は、夢二資料を守ろうとして高台を選び、書斎付きの平屋に住んだとお聞きしました。
 
 何事も、普段の生活から守りを固めるよりないということを思います。。
 世田谷の高台にあった夢二邸の裏手には竹薮があり、地盤の良い三鷹の有三邸の庭にも竹が植えられていました。大正大震災を経験して郊外に住んだ作家にとっても、防災は常日頃の課題だったのです。

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2012年02月07日 19時02分
大震災後の三木露風

 大正期のころに活躍した詩人は、ただ近代詩、現代詩を樹立したというだけではありません。詩論を闘わせ、思想や宗教について語り、エッセイを書き、短歌、俳句をつくり、書をたしなみ、古謡や民謡を勉強して新しい童謡を生み出しました。露風は、そういう世代の詩人でした。三鷹に残された資料には、俳諧についての著述もあり、上島鬼貫を敬愛したことうをがうことができます。

 福嶋朝治氏は、これまで注視されることのなかった後半生の露風を、「誠の詩人」と呼んで新しい見方を展開しています。鬼貫の精神である「まことのほかに俳諧なし」から、露風をこのように評するのです。
 露風は、北海道のトラピストに居ながら、主に関東地方を襲った大正大震災に大きな精神的ショックを受けています。被災地を回って講演した露風の心境や、帰京して東京郊外に移り住み、そこで後半生を送ることになった経緯については、まだ、考察の余地があり、これからの研究発表が待たれるところです。
 
『三鷹で暮らした「赤とんぼ」の詩人 三木露風の歩み』の最初のページは、こちらです。
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2012年02月04日 17時59分
「忘れる動物」における”生涯学習”

 ある日、長く文学散歩を愛好している年配女性に、「(講師の話を聞いても)私は、すぐに忘れる。聞いたそばから忘れる。」とにこやかに言われました。虚をつかれる思いでしたが、なるほど、人間は忘れる動物なのです。

 私は、小学校低学年のとき、教室で、山本有三の話を聞かされたことがあります。「少し前の国語教科書を監修した人」で「日本では珍しい、小説家にして文化人だった」ことを、かなり詳しく教えていただいたと記憶しています。
 ですが、もしも、自分が住んだ三鷹に、記念館(かつては、有三青少年文庫)がなければ、この小学校の先生のご講話を大人になって思い出すことはなかったかもしれません。そして、やがては、この話の内容も忘れ、聞いたという記憶さえ失くしてしまっていたことでしょう。

 忘れないためには、記憶を新たにするために、繰り返し思い出さなくてはならないと言われます。
 ビギナーにもキャリアのある活動家にも、冊子は備忘録として、そのよすがになるはずです。今日では滅多にいないような、知識人としての作家をまっとうしようとした
山本有三の略歴については、こちらをクリックしてください。 
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2012年02月01日 14時12分
もらっておいてください、芥川賞

 芥川賞がその長い歴史のなかで、ひさびさに話題を提供しました。1月に「共喰い」で第146回芥川賞を受賞した田中慎弥氏が、選考委員の東京都知事に、「もらっといてやる」などと物申した一連の出来事です。言うまでもないことですが、芥川賞は、山本有三らが創設した、小説家の登竜門としての文学賞です。受賞を逃した太宰治が、選考委員宛の書簡で「芥川賞」をねだったことが、文学史上の伝説ともなっています。

 文学青年ではない私は、ネット上の記事を拝見して田中氏の存在を知りました。お写真では、中堅サラリーマンのような風貌でいらっしゃいますが、約20年間、執筆に専心し、アルバイトすら勤務経験がなく、PCも携帯も持っていないそうです。いつも、鉛筆でお書きになられるそうです。”Web弱者”のおひとりのように思えて気にとまりました。

 まだ人生が上り坂のうちにあり、自分の成し遂げたい仕事のためにほかのことには目がむかず、世間の空気が読めなくなるということは、ありがちなことです。場合によるということはあるでしょうが、好感を持って見守られることも多いのではないでしょうか。
 
 書斎派か、社会派か、といえば、後者の文学を私は選びがちです。ですが、純文学ではつまらないから、引き出しを沢山持っている作家のほうがいいと考えているのではありません。また、災害時や非常時には、文弱な者も、竹槍訓練に参加したほうがいいとも主張しません。
 ただ、虚構を紡ぐ小説家も、エッセイやルポルタージュ、ノンフィクションで、自分の表現を持つことがあるように思っています。こんなことは、言わなくてもいいようなことにも感じながら、つい、話題に参加したくなりました。
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2012年01月30日 13時28分
山本有三を振りかえる

 有三は、国民文学をめざした作家であり、文化国家建設に力を注いだ実践家でもありました。国語改革に指導的立場をとおすなど、文学者として理解されにくいところがあります。(常用漢字の歴史のなかで、戦後の当用漢字を制定した世代-当事者-です。)日本には、かな文字による文学がありますが、有三は、”漢字まじりのかな文”を推奨しました。そうすることで、表記と漢字の読みにおいて複雑な国語を、良い方向へもっていけると考え、自らの創作で実験的に実践したのです。
 このような有三については、若い方々も、学識経験者も、手引書を活用していただければと思います。

 『山本有三と三鷹の家と郊外生活』(はる書房)は、「路傍の石」と「米百俵」を執筆した三鷹時代を中心に作家生活を概観しています。
 『みんなで読もう 山本有三』(笠間書院)は、作品鑑賞の手引きと共に、平易な国語の実現に尽くした有三に関する資料を収録しています。
 『大正・昭和の”童心”と山本有三』(笠間書院)は、巌谷小波の児童書に傾倒し、自らも『日本少国民文庫』を編纂した有三と近代の児童書について考察しています。(いずれも、Book reviewを参照ください。)

 また、三鷹市山本有三記念館に行きますと、有三の業績を紹介する展示を観覧することができます。

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2012年01月29日 16時58分
 「路傍の石」と「一銭」

 ”山本有三を読む会”では、「路傍の石」に評釈をくわえる準備として、小学生になったつもりで、わかりにくい言葉を拾い出す作業に入っています。
 有三の”漢字弱者”への思いやりは有名ですが、表記については、漢字を少ししか知らない子供を考えに入れて、ひらがな、カタカナを多く使っています。そのために、むしろ、漢字を使うことに慣れた者には読みにくいと言われるほどです。あえて漢字を使わずに、「イモ」「カマ」「黒びかり」「どろぼう」などと書くときの法則は何なのだ、ということを盛んに言う人もいます。話し言葉を取り入れたフランクな文体を作者は意図したのでしょうが、今読むと、どこの地域の方言なのか、わかりにくい部分もあります。国語学的なことを看過できない人は、驚くほど多くの言葉にチェックを入れています。

 私は、どちらかと言えば、さまざまな言葉の影にある時代が気になっています。メンバーのひとりからは、主人公の吾一少年が焼き芋を買う「一銭」とはどのくらいの貨幣価値なのかという疑問がでました。 
 今日、「銭」と言えば、為替や株の値を円で言うときの端数の単位です。インフレが進みすぎたことから、「銭」は貨幣単位としては通用しなくなっています。昭和前期に小説を書いた有三は、自分の子供時代にあたる明治後期(作中の時代)には、「一銭」で焼き芋が買えたのだということを示したかったのだろうと思います。そのころの30年あまりで、物価は数倍になっていたようです。今日の貨幣に換算する計算方法について迷いましたが、ものの本を参照して、「一銭」は、現在の100円内外と推測しました。ただし、現在は、焼き芋そのものの値段が上がっていて、複数本の焼き芋は100円では買えません。
 デフレ傾向となった平成の今でも、「路傍の石」は、ままならない経済動向や、さまざまな社会矛盾を考えさせます。
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2012年01月19日 16時58分
街を捨てて、Webデビューしよう、ということ

 ホームページのために、どのように原稿やページを作成したらいいのか、とまどっている方を見受けることがあります。

 初心者でも、ネット上の無料サービスや気に入ったテンプレートを見つければ、ホームページはすぐにも始められます。ページ制作を依頼したり、初心向け制作ソフトを利用する場合には、技術面の心配がいりません。内容は、やっているうちに、まとまっていくものです。最初から自転車乗りや平泳ぎがスイスイできる人がいるように、悩まずにできる人がいることは考えられます。
 
 ですが、苦戦したり、考え込んだりするような人の場合には、想像以上の時間と手間を費やすことになりがちです。私は、Dioの会のホームページの必要を思いながら、実際に開設するまでに3年かかりました。それから、ホームページについて、たどたどしくも語れるようになるまでに、また3年近くが過ぎています。

 機械に弱い私は、当初、写真をきれいに載せるとか、レイアウトを好印象にするという基本的なことさえ、思うにまかせませんでした。誰でもできるはずの制作ソフトも、使いこなすまでにはなれません。とうとう昨年には、制作ソフトを増やし、また、ソフトなしの手打ちでソースコードを入力する練習もしました。何かを表現し発信する拠点を持つことは、きわめてリアルな課題です。苦手であろうが、私は、Web表現力とでもいうものを、ある程度は身につけたかったのです。

 そして、自分と似たようなWeb弱者の方々に、何かお手伝いしたいというメッセージを発信することにしました。ホームページへの対し方はさまざまです。私のような者の体験や助言も、何かの参考にしていただけるかも知れません。Dioの会の関係者や、知人の相談に応じているところです。互いの情報交換にもなりますでしょうから、どうか、遠慮なく、声をかけてください。

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2012年01月08日 15時28分
大正100年。「宵待草」がうたわれ、童謡「赤とんぼ」が生まれた時代・・

 昨年の2011年が大正の年号で数えて大正100年にあたり、今年2012年が大正元年の100年後となります。少し前のある日、100年後を生きながら10数年かけて大正期を振り返る活動をしたいものだ、とふと思いつきました。
 大正期だけではなく、その前後の明治と昭和もふくめた近代・現代を再考していき、大正の次は、昭和100年だ、とのんびり考えました。 

 大正100年データのページもあまり進んではいませんが、時代を「振り返る」つもりと書いていて、壮大な年表を作るとは予告していないことを、今になって確認し安心しています。私が作る本や冊子には、たいてい、作家の生涯をたどる年譜が入っています。歴史が得意なのでそうするのではなく、むしろ、それが不得手な自分のために、編年体把握を志向してしまう癖のようです。

 大正期を、夢二の「宵待草」がうたわれ、露風の童謡「赤とんぼ」が生まれた時代とDioの会ではうたっています。昭和期といえば、有三の「路傍の石」と太宰の「人間失格」をあげることでしょう。
 重要作家の代表作にして、時代文化を濃厚に感じさせる時代の”代表作”でもある作品は、Dioの会の立場から、あるいは、自分にとってそうであるものを、選ぶほかありません。歩をすすめるうちには、数多くの作家と時代の”代表作”に目を向けたいものです。               (以上、年頭の抱負でした。)

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2012年01月03日 17時45分
新春に

 日本出版美術研究会(弥生美術館主宰)のお知らせページを開設いたしました。展覧会や研究会の日程をお知らせするのに加え、会員有志が、各自の活動についてレポートいたします。

 不肖私は、会員のひとりでもあるのですが、みなさんのページをアップロードする役目をいただきました。上笙一郎氏のページを設けまして、ひとしおの感慨に浸っています。
 この研究会は、実績豊富な専門家にして、こつこつとパイオニアでありつづける研究者・愛好者の集まりです。私は、いつも、個性豊かな人々が集う研究会を誇らしく思い、参加者としての喜びを感じています。

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2011年12月28日 10時41分
年の瀬に

 3月の東日本大震災の被害は甚大なものでした。この場を借りて、被災なさった方々に心からお見舞いを申し上げますと共に、望ましい復興の実現を念じます。

“free paper Dio vol.10”には、「原子力発電の電力コストを巡って」を岩崎輝行氏が書いてくださいました。エッセイをお願いしましたら、機にかなった卓見をいただけたのです。

 
このような年に、たどたどしくも活動ができたことに、感謝の念がわいてきます。閲覧者の皆様、”free paper Dio”と本の読者の皆様、ありがとうございました。
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2011年12月20日 12時52分
「三木露風と武蔵野」

 『武蔵野大学 武蔵野文学館紀要』創刊号(2011年3月)の抜刷をいただいています。福嶋朝治氏の論文「三木露風と武蔵野」ですが、前年に、武蔵野地域自由大学で講演なさったことをまとめられたものです。

 上京した露風が、本郷動坂に住んで以降の武蔵野との親密な関係に目をむけ、その自然観をどのように作品化したかについて述べられています。象徴詩人、宗教詩人としての露風は論じられて来ました。ですが、露風の自然観をとおして、三鷹移住後の後半生に考察を及ぼすことは、福嶋氏独自のものです。誠の詩人という呼び方で、この時期における露風の特質が説かれています。

 近代作家の郊外志向や自然志向については、見直していきたい課題です。氏も論文の最後で触れているように、透谷、独歩、蘆花、有明という文学者の存在は忘れることはできません。
 ともかくも、HP三木露風文学館に連載なさっている「露風評伝」に、今後も、福嶋 氏の考察が発表されていくことを願っています。

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2011年12月11日 19時40分
メトロポリス漫画総合研究所を応援します

 ホームページ開設のボランティアは、活動の発信拠点を提供させていただくという「応援」です。Dioの会には、残念ながらそれ以上の力はありません。むしろ、日本を代表する文化とされる漫画についてのページ開設など、良い仕事に恵まれたと嬉しがっているばかりです。

 メトロポリス漫画総合研究所主宰の本間正幸氏は、現在、数々のブログで、漫画を中心にしたポップカルチュアを紹介している漫画史研究家です。「メトロポリス」という名称も、漫画が都市の拡充と共に発展してきた文化であることをとらえてのことなのでしょう。

 ユーモアや文明批判において、漫画は小説とも接点があるように、私は感じることがあります。その簡略で抽象的な表現も注目されます。現代のコマ割りマンガ(comics)だけではではなく、漫画を歴史的に見ると、さらに領域の幅が広がるのです。

 本間氏が、漫画史を追究しながら、アニメや児童文化、映画、主題歌、歌謡曲にも関心を示していることには、共感してしまいます。甚大な課題に取り組んでいる(に違いない)、メトロポリス漫画研究所に期待したいと思います。

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2011年12月08日 11時50分
ホームページの活動

  自分のような”Web弱者”が、Dioの会HPをやっているだけで大変なことなのに、少し勉強したくらいで、”Webクリエイター”を名乗ることができるだろうか・・。8月7日に、Dioの会別バージョンサイト「Webは誰のものなのか!? ・・・」を開設してからも、半信半疑でした。

 それが、10月1日に、”山本有三を読む会”のページを開くことになりました。思い切って、10月22日には、ホームページをまだ持たない活動のページ開設をお手伝いする、「ホームページ応援」について、ページを設置しました。そして、”下手の横好き”の私に、周囲から、チラホラHP制作の話が来るようになって来たのです。(内心では、「飛躍っ!」と思ったほどのことでした。)

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2011年12月07日 12時10分
竹久夢二「宵待草」

 夢二を代表する作品イメージとして、彼の恋愛体験を伝える唄として、「宵待草」は注目されて来ました。ただ、夢二の文学や思想の傾向をふまえて、詩「宵待草」を正面からとりあげる論考が、まだないことを、私は気にかけていました。

 今年の4月に出した『「宵待草」ノート 竹久夢二と大正リベラルズ』は小さな本ながら、夢二の自由思想を「宵待草」をとおして見据えたつもりです。
 というと、いかにも自分だけの力でまとめたように聞こえるかもしれません。実のところは、複数の執筆者でつくりあげた太宰の本と同じように、企画段階から福嶋代表に相談し、叱咤激励をいただいて書いたものです。
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2011年12月06日 13時29分
太宰治「十二月八日」

 今年も、「十二月八日」が迫ってきています。
 もう2,3年前になりますが、太宰治生誕100年記念のころ、私は、不思議な感慨に打たれていました。太宰が、小説家たらんとして、日々執筆に励んでいたということが、長く三鷹に住み、そこで仕事をしてきた私に、何かたちあがってくる実相のように感じられたのです。

 私は本を企画するときには、読み手になんらかの材料を提供できればいい、という思いでいます。自分の考えを、強く訴えたいということでもありません。

 ですから、
『三鷹という街を書く太宰治 陋屋の机に頬杖ついて』をまとめていたときも、戦争を挟んだ時代に、市井のことをこんなにも真摯に書いた小説家が太宰治だったのだという、太宰観以前のことにとどまっていました。ただ、こんなにも太宰は書いていたのだ、ということを掘り起こしたかった自分自身を、思い返すばかりです。
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2011年12月06日 12時09分
刊行について

 Dioの会が結成された動機のひとつには、刊行会により三木露風文学を広めたいという代表者の願いがありました。

 “free paper Dio”を出す前年の2005年には、『童謡詩集 赤とんぼ』(ネット武蔵野)の企画が持ち上がっていました。それから、三鷹の財団によっても本の刊行企画が続いたことは、Book reviewのページにあるとおりです。展覧会や図書刊行の広報の役割としての“free paper Dio”であり、ホームページであるということは言えます。

 ただ、それだけではなく、我々独自に刊行をしたり活動したいという思いもあったわけです。それが、『三鷹という街を書く太宰治 陋屋の机に頬杖ついて』(2009年 はる書房)、『「宵待草」ノート -竹久夢二と大正リベラルズ-』(2011年 はる書房)の2冊を、Dioの会が刊行したことで形になったのでした。
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2011年12月05日 12時48分
Dioの会の組織と運営

 どういう者がメンバーなののか、ということも、第三者的な疑問です。
 発足のメンバーは、会代表の福嶋朝治氏と、メトロポリス漫画総合研究所主宰の本間正幸氏、そして、会の実行委員を務める私の3名でした。思い起こせば、『大正・昭和の”童心”と 山本有三』(2005年 笠間書院)を出したことが、執筆者だった三者が会の結成にすすんだ契機でした。

 当時、どのような方々の、存在、ご助力があって、会を発足し、”free paper Dio”を出したかということは、書き切れないものがあります。各地の文学館、美術館のご理解もありました。誰の功績を記して、誰のことは書き漏らす、ということはあってはならないことですが、そこのところは平にご容赦頂かなくてはなりません。

 会員と会友と賛助会員とビジターの方々に恵まれたからこそ、会が成り立ちました。ですが、代表と実行委員のほかは、会員とビジターの違いさえ明確にすることができないのが実態で、人的構成は、きわめて説明しにくいことになっています。つまり、会費納入(活動資金の負担)、“free paper Dio”の編集と配布、という基本活動を継続的にしてくださる方が滅多にいない、のです。

 また、運営形態につきましても、NPO法人化を考えてはみたものの、メンバー不足などのために可能性がみえません。ということは、会は、代表と実行委員により運営されているにすぎず、個人的に各々が納得していればいいことであり、公表すべき内容もない、ということになります。
 ただ、賛助会費は広く募っております。計上できる日を楽しみにしています。

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2011年12月04日 18時48分
「始まり」について

 しばしば、Dioの会とは何をしているのか、と尋ねられることがあります。また、近頃では、フリーランスとなった私自身に、そのような疑問が向けられているのを察知することがあります。

 法人でもない小さな活動ですが、ともかくも、代表者の「ごあいさつ」や、ブログがあってもいいということはあります。しかしながら、Dioの会代表は、シャイなのでしょう。何とも動きません。(「面倒なだけ」という声が聞こえます。)

 私はといえば、Dioの会のHPを開いたころには、「Dioの会の始まり」のこのページに、「歩み」として活動履歴を編年体で加えていくつもりでした。けれども、さて、どのような事柄にかぎって記録していけばいいのかと思い悩むうちに日が過ぎました。

 今になって、実行委員としてブログの形式を借りて、自分に書けるようなかたちでやって行こうと思い直しました。ページのタイトルは、「Dioの会の始まり」をそのままにして、ただ、「Blog」とつけ加えることにします。

 私は、時の流れによって、忘れられがちになったり、理解されにくくなっていく作家を惜しむ気持ちから、このDioの会を始めたのでした。ともかく、何かしないではいられなかったことが、“free paper Dio”を出す会をもった「始まり」でした。

 今年、10号めとなった“free paper Dio” に、「Dioの会の名称とその由来」を書きました。さらに、会を始めたころの気持ちや、それからの活動についても、記していく課題があります。それに取り組んで行こうと思います。
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 Dioの会の始まり

 ”郊外”という言葉は、都心・政治経済の中心地の反義語になります。そうであれば、人間らしい営為をとりもどして行こうとするNPO、NGOの活動が、都市機構の外縁である郊外を拠点にするのは、相応しいことなのかもしれません。
 そんな思いで、小さな情報誌を出すDioの会が始められました。
                        *
 2006年の初めころ、三鷹市で三木露風の遺稿整理に携わった者や日本出版美術研究会(弥生美術館主宰)にかかわる者が発起人になり、
フリーペーパーが企画され、Dioと名づけられたのです。露風は、80余年前に牟礼の田園地帯に入居した詩人で、三鷹に住んだ最初の近代作家(後、武者小路実篤、山本有三、亀井勝一郎、太宰治、瀬戸内寂聴らが住む)でした。

 露風は、武蔵野の自然に親しみながら詩作に没頭し、毎年、庭にとんぼが飛来することを楽しみにして後半生を過ごしました。彼が三鷹の旧宅に遺した三千点に近い資料は、未だに刊行されていない詩稿や日記ノートなどを含んでいます。ご遺族より、三鷹市に資料が寄贈された最初は、1990年のことで、それ以降、同市により整理と公開が断続的に行われています。そのため、三木露風研究会の始動があり、近代文学や児童文化の研究者がこの露風資料の周辺に集まるようになっていました。

 特に、Dioの会の代表福嶋朝治は、2002年より専門家として露風資料の調査に携わり、詩人露風の再評価に尽くしています。童謡「赤とんぼ」にみられるような自然との共生を願う現代人の心、それが露風資料の数々から伝わってきます。顧みれば、田園の街を愛した詩人露風の存在が、私たちにDioの会というNPO活動をうながしたようにも思えるのです。
                        *
 free paper Dioには、イベント情報だけではなく、研究会のレポートも載せることができますし、図書刊行の予告や、書評を発表することもできます
。常連もいますし、ときたま参加してくださる方、読んで意見をくださる方など、様々な人によって支えられています。free paperの刊行を主としたDioの会の活動と運営は、今後も、多くの方々の声を聞きながら方向を定めていくことになるでしょう。

 活動を振り返ること、さらに進行形の活動をレポートすることを、今後は、このHPで行います。どうか、よろしくご支援をお願いいたします。

                                     2009年3月吉日

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Dioの会は、文学・芸術文化のNPO活動をめざします。