当「三木露風エッセイ」は、「三木露風論考」として「三木露風研究」のページに続けて掲載されています。2024.1.21

2023. 10. 16

自然主義の時代





 明治40年6月(推定)の手紙で、郷里にあって不遇を託つ友人の内海泡沫に対し、苦痛懊悩の叫びはそのまま光輝ある熱情の現れであると慰撫激励した露風は、続けて、芸術はそもそも芸術家の苦心惨苦の結晶であって「われ等が詩に対するの苦痛は先づ何者の痛みよりも超絶する」ものであると述べ、特に現今の詩界に生まれ、新たな詩風に展開しようと望むなら必ず一度は迷い煩うことをまぬがれることはできないといい、自己の体験をつづる。
 
小生の如き極めて境遇は惨苦に遭遇して苦しめられたりき。されど学費は停止せられたりと雖も、岐阜地方や小新聞に執筆する迄生活の危急は告げたりと雖も、甲斐信濃越後に放浪して後山寺にあること三日、失意の情止みがたく憤恨の極死を決したる事ありしと雖も、常に不遇に打勝ち生活に打勝ち得たる事、これ皆芸術の憧憬やみがたきものありしがためなり。
               (『露風全集』第2巻 内海宛書簡    整理番号10)

 「我性過激に走りて時に熱語を放ち」と自省している通りの過大な表現に満ちた内容であるが、親から学費を止められたのちの生活の困苦を辛うじて克服し、将来に希望を見出した現在の心境が、赤裸々に告白されている内容である。39年の後半は彼にとってまさに激動の時期であった。怠学のため中学を退学させられた彼は、親の勘気を被って仕送りを絶たれてしまった。そのために一時岐阜の『山鳩』発行者の小木曽修二を頼り、大垣の美濃新聞の記者になり自活の道を求めたこともあった。しかしそれも長くは続かず、東京に舞い戻った彼は小説家の三島霜川の借家に転がり込んで、詩作に専念する日々を送っていた。そうした逆境に転機が訪れたのが、年が明けて上田敏が主宰する『芸苑』に寄稿する機会を得たことである。幸いそこに発表した諸作品は、詩壇の好評を博し、一躍新進詩人のひとりとして注目を浴びることになった。さらに3月には早稲田大学の島村抱月の肝いりで設立された早稲田詩社に加盟して新たな発表の場を広げるようになった。

 この結社は早稲田大学英文科の出身者と学生を中心に結成された。相馬御風、人見東明、加藤介春、野口雨情らが名を連ねていた。露風は特に早稲田とは関係がなかったが、友人の御風と東明に誘われて加わったのである。しかし5月にはこの加盟が縁で大学の高等予科に入学を許可されている。抱月の特別の計らいが働いたものと思われる。
 詩社設立の趣旨は『早稲田文学』4月号の文芸消息欄の記事によれば、「沈滞せる現下の詩壇に意義ある新運動を試み」ることであった。具体的には抱月の「一夕文話」(『文章世界』明治39年6月号)で説いた言文一致詩論の実践であり、彼が抱いていた自然主義詩の樹立という遠大な詩壇改革の理想の実現であった。そのためには発表の場として『早稲田文学』の一部を貸してもいいというのが抱月の提案であった。「文芸消息」の伝える決議は、まさにその呼びかけに応じたものであった。
 介春によれば、自然主義の洗礼を受けた詩は「客観的なもの、美ならざるもの、醜なるものにもあり、市井の巷や日常茶飯の間にも」求めるべきものであった。そのためにそれは「主観的、情熱的、感傷的で、詩は清く美しいもの」でなければ詩とされなかつた『明星』を中心とする「星菫派」と真っ向から対立する詩観であった。具体的に言えば「汚い見世物小屋や陰惨な老爺の生活、薄気味悪い火葬場や墓地など、今までは全然忌み嫌はれた方面にも求められた」。また形式においても「定型律詩に対し、もっと自由な、制約や拘束のない詩形が求められた」(「早稲田詩社と自由詩社」 『日本文学講座』第9巻 改造社刊 昭和9年)し、詩語に関しても「我々が日常使用している生きた言葉の中にも美があり、詩がある筈だ。それらを発見して詩語や詩境を豊かにしたい」(人見東明 「明治詩壇の一角」(『自然と印象』復刻)昭和33年 昭和女子大光葉会刊)というのが彼らの運動の目標であった。
 介春の回想によれば、「当時の早稲田文学といへば、島村先生が帰朝後再興されたもので非常な勢力があり、文壇の登竜門としてこれに作品の出ることは至大の幸運と名誉を担って一躍天下の詩人になれるとさへ観られてゐた」という。
 露風の先に引用した回顧には、『芸苑』に続き、そうした権威のある早稲田詩社の仲間入りを果たしたことによって生まれた安堵と自負の想いが込められているように思われる。
同人の作品は早速『早稲田文学』の5月号に発表された。「不安」(介春)、「村童小唄(雨情)、「姉」(東明)、「雑居」(御風)、それと露風の「棺」であった。介春は街道の物乞いの老人を、雨情は村の娘を、東明は嫁入りした姉を、御風は巷路の八百屋や魚屋の店先を、露風は街道沿いの桶屋を詩材に選んでいるが、いずれも日常卑近な情景が客観的、写実的に描かれている点で従来の美の規範では律することができない新領域を切り開いている内容のものであった。しかしながらここには抱月が提唱した言文一致詩は実現しておらず、詩語、詩形は旧態依然たるもので、五七調か七五調の伝統的な音律を用いた文語定型詩であった。露風の「棺」も例外ではなかった。

  その風の黄なる埃の
  村はづれ、橋のとどろき
  列並めし牛曳車
  懶げに獣は喘ぎ
  過ぎにける其れも一時
  ふとまたも真昼の「寂寞(しじま)」
  こともなく近づく「畏怖(おそれ)」。
  街道は光ぞ白め。

  かかる時暑き屋並みの
  片隅に棺うつ音、

  槌の音、つとこそ起れ——
  かたかたと箍の輪ひびき
  またうごく右へ左へ、
  槌とれる男は黙し
  この日また棺を製る。
  棟の下、風も通はず。
  (7節のうちの第2,3節)

 まず真夏真昼のけだるい街道風景が描写され、次に長屋つづきの一隅の桶屋に焦点が合わされる。この作品を読んですぐに想起されるのは白秋が前年10月『明星』に発表した「正午」である。

 河岸なみは赤き煉瓦家。
 牢獄めく工場の奥ゆ
 印刷の響きたまたま
 薄鉄葉(ブリキ)切る鋏の音と
 棺うつ槌と、鑢と、
 ものうげにまじりきこえぬ。

 恐ろしき沈黙ふたたび
 酷熱の日ざしにただれ
 ぺんき塗褪めし看板

 白秋の「恐ろしき沈黙ふたたび」や「棺うつ槌」が露風では「ふとまたも真昼の寂莫」「近づく畏怖」「棺うつ音」など酷似した表現が多く使われ、異なる点と言えば白秋が河岸なみの情景を描いているのに対して露風は田舎の街道筋の情景に焦点を絞っている点くらいである。興味深いのは、どちらも孟夏白日の恐怖を主題していることである。この点に関しては、露風が白秋の真似をしたというのではなく、両者の詩の背後に『海潮音』の中のルコント・ド・リイルの「真昼」の存在を無視するわけにはいかない。上田敏による訳詩は、

  「夏」帝の「真昼時」は、大野が原に広ごりて
  白銀色の布引に、青天くだし天降しぬ。
  寂たるよもの光景かな。

 に始まる1連4行、8連の詩で、「光明道」の涅槃の境地を主題にしている。この訳詩はそのほかにも泣菫の「日ざかり」や蒲原有明の「夏の歌」にも影響を及ぼしていて、白秋も露風もそれに倣ったといえなくもないのである。
 その4者4様の受容の実態については、今は深入りしない。(拙書 『三木露風』1985年 教育出版センター刊参照)ただ一つだけ指摘しておきたいのは、露風の場合、自分が作った棺を守ってゆく葬列を幻想する場面を挿入している手法に独自の工夫が施されていることである。
 露風は6月末には神戸の父の家で病気療養のために滞在し、そのまま夏休み明けまで上京しなかった。「上京は又々のびたり。学校は9月10日より開始なれば今より上京しても所詮熱鬧に苦めらるるに過ぎざれば8月末迄は当地或は郷国にありて心静かに精神を養はんと決心せり。」と7月ころの手紙で内海に記しているが、東明あてと思われる『文庫』7月15日号掲載の書簡には「僕は今のところ元気消滅の態」で「詩は一つも作らない、いや作れない」と嘆いている所を見るとかなり肉体的にも精神的にも衰弱していた様子がうかがえる。大学の方には診断書を提出したようだが、9月上旬新進作家の三島霜川の家に居候することが決まり上京してからも学校にも出ず、終日家に閉じこもっているような状態が続いているような始末で、9月下旬には退学処分になってしまった。それでも詩社との関係は維持されて『早稲田文学』10月号には「その夜」「晴間」「心の泉」を寄せている。その前にも7月号に「愛のふるさと」8月号には「磯波」「木立の外」「めざめて」など4篇を寄稿している。しかしこれらは主に恋愛体験を抒情的にうたったものや後に詩集『廃園』に収録されることになる叙景詩「晴間」など、詩社同人の主張するような自然主義詩とは全く異質な作品であった。むしろこの間に『文庫』に発表された長詩「火」や「魚」「一夜」などのほうが写実的な描写に徹していて詩社の趣旨に適っていた。
 一例をあげれば「心の泉」(早稲田文学明治40年1月号)の第1節は次のようなものである。

  わが愛の心の泉夜に昼に
  止むときもなくあふれいでああ美し人
  君をのみ慕ひながるれ。いかにせむ
  堰きかねにける愛の潮日にけに高く
  我胸を浸さむとして流るるを、また流るるを

 また、「その夜」(早稲田文学明治40年10月号)の第3節は

  かくわれは
  その夜を恋へり
  さすらひや吉備の一夜の
  水岸にたわやの髪を
  うちなびけ歌をうたひし
  一目見し月の光の
  少女ゆゑ
  さては忘れじ。

 と、これもこの半年間、繰り返し歌ってきた恋の思い出を主題とした作品である。
 しかし、翌年の41年になって露風は執拗に繰り返した恋愛詩をぷっつりと書かなくなる。それに代わって深刻な苦悶が詩の主題になる。その先駆けとなるのが2月に発表した「毒瘡」(『新潮』)「惑乱」(『文章世界』)「幻想」(『文庫』)の諸篇である。

  黒き氈(かも)垂れ我眠る
  沈みて暗き闇の底
  夜の影吸ふ燈火(ともしび)に
  おぼろの夢ぞたわれたる。

  めざめぬ。あはれこのときに
  痛みの靄と火の色と
  ひろごりわたれ、束の間の
  夢にも疼く瘡のあと。
  (「毒瘡」第1、2節)

  ああかくて疲れ生(よ)に倦む
  我こころ何を求めむ。
  日のなやみ、夜のわずらひ
  うち絶えて魂は泣きいる
  よわげなるためいきのうち
  夢路にぞかよふまぼろし
       (「幻想」終節)

 これらの詩が作られた動機については、2月1日付の内海宛の手紙が参考になるだろう。彼はその中で次のように告白している。「動乱せる都よ。小生はもはや生存にはあきあき致候」「思ふに人生はすべて虚無なるべし、詩に於て満足と慰安を感ぜざる小生の如きは抑々何によりて解決を求むべきか日夜小生が胸を痛ましむるは此耐えがたき懊悩に候」(整理番号26)。彼の虚無の哀感はぬきさしならない現実生活の重圧と詩作への懐疑に基づくものであった。入京以来3年に及ぶ自活の苦悩は鉛のごとく彼を圧迫していった。この時彼は疲弊した日々の生活のために人生にも芸術にも満足と慰安を感じなくなってしまっていた。人生と詩作と、ともに確信的な手ごたえがなく、何一つ約束されたもののない状況下において、世界および自己と自我との関係が疎外的に感じられた時、彼の精神はますます虚無の深淵に沈潜せざるを得なかった。かくて彼は、5月から7月にかけて同様の傾向の作品を発表し続けるのである。「蒼蠅ぞ歌ふ」(詩人5月)「青色の罎」(新潮6月)「路傍の想」(同)「鉛の華」(早稲田文学7月)「運命」「(江湖7月)街の辻」(同)などである。

  こころもとなき日の旦(あした)、暮るる夕よ、
  けふも独りしながむれば
  甍の波の空のもと風黄に募り
  色も悲しや雲の脚迷い立ちたれ。
  さてはうつらふその果てに我墓ありや
  明日知らぬいのちの行くゑ
   (「路傍の想」第2、3節)

 窓越しに見る都会の景物は、生の象徴であって、迷い立つ雲の脚はさながらおぼつかない自己の生存の表象である。「明日知らぬ命」にとって日々は「こころもとなく」、生は「もの憂きまぼろし」にしか過ぎない。

  欝憂の我心の原に
  咲きいでし鉛の華を
  一辨(ひとよ)摘み、つみつつ嗅げば
  肉顫ひ、霊(たまし)わななく。
          (「鉛の華」第1節)

 自然主義論者の片山天弦は明治40年『早稲田文学』10月号に「無解決の文学」という論文を載せた。そこで彼は自然主義の中心生命について、日常実用の道徳すなわち第二道徳も判断をもって到底解決すべからざる人生の根本疑惑、恐怖、痛苦、哀傷等の胸奥無限の悩みをを促す幾多の事象を、さながらに誠実に表現するところにあると論じた。露風は恐らくその論文に啓発されたのであろう。11月号の『文庫』の「再び近時の短歌界に就て」で次のように自己の所信を表明している。

 かへり見て思ふに時代は猶予なく進歩してきた。文明科学の潮流は汪然として其極まるところを知らない。社会人生の事は益々複雑になって来る。矛盾、衝突、惑乱、疲弊、其等の深酷なる人間胸奥の声は到る処に悲哀の叫びをあげてゐる。僕らは常に知識ある感情を支配し、僕等は常に生きた人生の塵埃を呼吸する。かの甘き蜜の如きささやきや花の開落する響の純感情の詩歌には無論到底満足する事は出来なくなったのである。

 これは与謝野寛をはじめとする所々からの非難誹謗に対して反論するとともに「白秋氏の誇張に過ぎてけばけばしく、あまりにあくどい」歌風に対して「内観的に真の事相を謳うこと」を主張したものである。彼が詩作の上で恋愛詩から苦悶詩へと決然として転換した背景にはこのような彼自身の現実認識と時代の潮流がおおきくかかわっていたのである。
 「蒼蠅ぞ歌ふ」(「溝の蠅」と改題)「青色の罎」「路傍の想」「鉛の華」は『廃園』の「推移」の章に収録されている。これらの作品をそれ以前に作られた自然主義的な傾向の作品と比べると詩境に格段の進展を見せている。ここでは苦悶する心情を説明しようとはしていない。苦悶する心象そのものを何とかして言語化しようとする努力が払われているように思われる。そのために私小説まがいの直接的表現態度は退けられ表象的態度による気分の表出に力点がおかれているのである。

 暗き夜にわれ眠るとき、わが心
 また醒むる時。わが額(ぬか)に「想(おもひ)」ぞ囃す。
 そのかたち愁ひの中に見まもれば
 面も曇れる一列(ひとつら)ね深く沈みて
 青色の歎きの罎ぞならびたる。
  (「青色の罎」第1節)

 枕元に赤いのやら青いのやら黒いのやら色々並んでいる薬瓶をみて作った詩で、入院を挟む前後の闘病生活の間に、書かれたものである。しかし、この詩においては薬瓶を全く意味していない。憂愁に満ちた想念の数々が脳裏に映り行く様を瓶の一列によって形象化してみたのである。この詩をたとえば「毒瘡」と比べてみるとそれが即物的に過ぎて味わいの豊かさにかけることおびただしいことに気づくであろう。散文的精神から詩的精神へという意識の変革がこの間になされたことの明確な証拠をここにみることができるのである。『廃園』に採録するにあたって、露風自身のそうした自覚が働いたものといえるであろう。

2023. 8. 27

「ふるさとの 」解読





 試しにWeb で「ふるさとの」を検索してみた。すると最初の1ページに並んでいる項目は、1にも2にもふるさと納税に関する内容だった。しばらく追っていくとようやく高野辰之作詞の「ふるさと」の歌があるが、なかなか「ふるさとの」にたどりつけない。これには軽いショックを受けた。「ふるさと」ではなく「ふるさとの」で検索したのに「の」は軽く無視された。「ふるさとの」という詩が歌曲との関連で、どのように説明されているのかを知りたかったのに、いきなりユーチュブの歌が流れてきた。説明には簡単に「悲恋に終わった4歳年上の恋人(茂代子)想う露風19歳の抒情。10年が過ぎ人妻となった君は、当時の心で泣いてくれるだろうか」とあった。この説明で少し疑問に思うのは、モデルの恋人が茂代子と明記されていることと恋愛経験から10年経った感慨を歌ったという点である。ということは、この恋愛は少なくとも9歳の時の経験でなくては辻褄が合わないことになりはしないかと思うのである。ここには露風の作為が働いていたと考えざるを得ないのである。これらの問題についてしばらく論じてみようと思う。
 「ふるさとの」は、『文庫』明治40年12月15日号に発表された。

  ふるさとの、
  小野の木立に、
  笛の音の、
  うるむ月夜や。

  少女子(おとめご)は、
  熱きこころに、
  そをば聞き、
  涙ながしき。

  十年(ととせ)経ぬ、
  同じ心に、
  君泣くや、
  母となりても。

 この短唱は露風の処女詩集『廃園』の中の抒情小曲集とでもいうべき「廿歳までの抒情詩」の章に収められている。
 この詩の考証については、家森長治郎が「<ふるさとの>成立考」(『若き日の三木露風』 和泉書院 2000年刊)において詳細に論じている。それによれば、「少女子」は、露風の初恋の女性で、太田茂代子であるという。彼女は学校の近くの商店の娘で、明治18年生まれであった。のちに彼女は母とともに岡山市内に移住し、彼女は市内の岡山医専の看護婦見習いとして附属病院に勤務していた。二人の交際の期間は、露風が明治37年の末岡山県の閑谷黌に転校してから退学して上京するまでの半年余りであった。その間の消息は次のような歌を通して知ることができよう。

  たそがれは湖の底より来るらし十歩をへだつ君とわれとに
  ふたりして死なんもよしや島かげにくろき陰ひき月落ちかかる
  薄月の花散る夕べ別れむのみ胸弱しと泣かせまつりし
  長岡は青葉の鐘に別れむのふたりが泣きし夕雨の里
  追憶(おもひで)のかつては君とふたりして泣きて廸(たど)りぬ夕月の磯

 露風は詩人を夢見て上京する際彼女に同行を促したが、彼女の置かれた状況はその誘いに応えることができなかった。その後、早稲田大学予科の学生であった露風は、明治40年6月末から9月初めまで静養のため帰郷する。その際に茂代子と再会する機会があったようである。事実関係は明らかにしえないので、その後の露風の作品を通して推測するしか手立てはないのだが、露風はこの再開を主題にした詩を、40年7月から12月までに10篇ほど発表している。そのうち最もリアルに説明的に私小説的手法で詠んだ詩の一つは、『文庫』9月1日号に発表した「一夜(ひとよ)」であろう。一連7行、5連の長い詩である。その第4連を掲げる。

「ああ別れ、かくて別れて
わが明日はいかにあるべき。」—
別れの夜、旅籠の一夜、
されどかく君も思ふや、
見るはただ、貴(あて)のくろがみ、
紅(あけ)の袖、ゆたかなる笑み、
愛欲の眸(まみ)のかがやき、—

 「駅舎に近き旅籠」での「別れの夜」、「尚さめて倦むや、艶なる/深き夜の君が身じろぎ」と、どこか息苦しく寂莫とした雰囲気が漂う再会の情景がうたわれている。この旅館は短歌「長岡や」や「宵の灯」という詩の詩材となった東岡山駅付近の長岡にあった「京屋」のことだと家森はいう。
 露風はその後、12月発表した「ふるさとの」までおよそ10篇に及ぶ再会を主題とした恋愛詩を「早稲田文学」「文庫」誌上に発表している。そこに詠まれている場所は、「水無月の谷の夏かげ」(「椋の花」)、「吉備の一夜の川岸」(その夜」)、「林の夕(「木立の外」、「闇の室、闇の中」(「冷笑」)などさまざまである。また、二人の再開の場面も「君は尚うなだれてのみ、/ 愁へるや、あゆみも遅く/ われに添ひ言葉もあらず」(磯波)、「藻のにほひ、/ 磯辺のかほり、/ また君が沢(つや)に束ねし/ ゆたかなる髪の薫(くゆり)の/ しづきぬる闇ぞうるはし(えにし)、「ふるさとの合歓の樹蔭に/ 君とわれ立ちて相見ぬ。/ 歓喜(よろこび)に言葉もあらず/ 君を見てわれは泣くなり。」(愛のふるさと)などさまざまに試みられている。
 露風は、明治40年3月、早稲田大学に関係する詩人たちによって結成された早稲田詩社に加わり、彼らがモットーとして掲げた写実的な情景描写と赤裸々な心情吐露を無技巧に歌うといういわば自然主義的な手法に影響されて、これらの詩作品を制作したのである。
 しかし、その中にあって40年7月の『早稲田文学』に発表した「愛のふるさと」は、同じような再会の場面をうたっていても、自然主義的な写実よりも純粋に抒情的な世界の構築を心掛けている点で例外的である。

 邂逅(めぐりあ)ふ白昼(まひる)の樹蔭
 目の前に小鳥は啼けり。

 ああ小鳥今はひた啼く。
 声にしも胸は躍るれ。

 一とせをめぐり会ひける
 夏の日の森の葉がくれ。

 歓喜(よろこび)にことばもあらず
 君を見て我れは泣くなり。

 8連のうちのプロットで展開する前半部分を初略した。同じ月『文庫』に掲載された「夏の林にて」や「椋の花」も同じ趣の詩であるが、この詩はさらに素材も森蔭と小鳥の囀りに簡素化され、それらが再会の歓喜という主題を背景から支えるように工夫が凝らされていて、ロマンチックな絵画をみるような快感を覚える。
 二行詩はフランスの詩人ベルレーヌが好んで用いた詩形であるが、日本でも後にフランス詩の影響を受けた中原中也や三好達治が愛用した詩形である。
 露風のこの詩では、一行5音7音の定型で、内容的な面からみれば起承転結の配慮がなされている。さらに、これは露風自身意識していたかどうかわからないが、「啼けり」「躍るれ」「葉がくれ」「泣くなり」と脚韻踏む修辞法が用いられている。これらをみるとこの詩では、あきらかに技巧的な表現が顕著である。
 その後前に述べたように無技巧に直情的な内容の作品を様々に試みたが、結局納得するような詩を制作することができなかった。その自覚と反省から改めて本来の抒情性を主体とした「愛のふるさと」の世界への回帰が企てられた。そこに生まれたのが「ふるさとの」である。「ふるさとの」に至る経緯をみると「愛のふるさと」では例外的に「一とせをめぐり会ひける」恋人との交歓のさまが謳われるが、その一方では「ああ刹那心このとき/ 冷笑す。—君は人妻。」(「磯波」)というように、あるいは「ひとづまとなりし日の/ 君はしも肉体(ししむら)」の/ 爛れたる獣なり(冷笑)」というように、激しい口調で痛罵するような冷めた関係が謳われている。それが「ふるさとの」では10年後、母となった「君」を追懐する内容になっている。しかし語り手の「我」は明示されているわけではない。焦点はもっぱら「君」に絞られている。
 「ふるさとの」がそれまでの作品と一線を画したのは、このように主題を「我」から「君」に変換したところに大きな要因があったであろう。それは自己の感情の記述という呪縛からの解放を意味した。いわばフィクションとしての詩に露風は目覚めたということである。「1年」から「十年経ぬ」という思い切った飛躍の表現にも露風のそうした意図が込められていると読み取ることができる。結婚後の家庭生活の労苦を暗示するためには、史実を無視して仮構の世界を構築しなければならない。
 状況描写についても作者は「小野の木立」と簡潔に示すだけで、露風の郷里である竜野や岡山などという固有名詞は注意深く排除され、橡林や椋木とった具体的な樹名は単に「木立」という広義の名辞にとどめることによって、詩の世界は広がる。それによって読者はおのおののふるさとを思い描くことができる。
 しかし、この考察は最初に記した家森の論考を前提にしたものであって、「ふるさとの」自体からは家森が考証したような恋人との再会の情景は読み取ることはできない。たとえば西條八十は「十年経ぬ」をレトリックと考えず、二十歳になった若者が10年前の少年のころを回想する詩であると解している。仲の良かった少女と林の小道を散策した帰り道、うら悲しい笛の音を聴いて涙を流した少女のことを思い出したのだという。むしろこの八十の解釈のように、故郷を離れた若者が「美しくも楽しかった少年時代を夢のように思い浮かべて」いるイメージのほうが、一般的な鑑賞の仕方としてふさわしいようにも思われる。
 露風と同年の生まれの詩人室生犀星の詩集『抒情小曲集』に「ふるさと」という小曲があるが、それは故郷金沢の春先の景色を謳ったものだが、露風の「ふるさとの」はそうしたふるさとの風土、自然に関心を寄せたものではなく、ひたすら「愛のふるさと」にテーマを絞って詠みこんだ詩である。「ふるさとの」という冒頭の一行を題名にしたのはそうした意図によるものである。
 この詩の詩形は、おそらく上田敏の『海潮音』に掲載されたベルレーヌの傑作「落葉」にヒントを得たものであろう。『落葉』の訳は一行5音6行を1連としているが、露風は7音を次行に送って1連を4行にしている。これを繋げれば「愛のふるさと」と同型になる。こうして5音7音の反復の詩形にした効果について、吉田精一は「一人感傷にふけるつぶやきに似て、内容に極めてふさわしく、多くを語らぬ簡潔な叙法」であって、「内に想いを含んで口ごもるような純なる味わいを深めている」と評している。この点に関して言えば、本来、4連をもって完成すべきところを、あえて結びの連を割愛することによって、『落葉』の3連詩に倣ったとはいえ余韻を響かせる効果も無視できない。
 「ふるさとの」は、露風が主宰した詩社『未来社』の同人であった斎藤佳三が大正3年に曲をつけて、広く歌われるようになった。現在でもリサイタルなどでしばしば歌われている。


2023. 7. 14

廿歳までの抒情詩





 講談社版年譜(『日本現代文学全集第38巻』)は「生田長江推薦で『芸苑』に発表するようになり一途に詩を志す」と記す。明治40年1月のことである。事実、推定1月の小木曽旭晃当ての書簡に照らしても、「本年は小弟も詩壇に多少動くつもりに御座候」とあって、「『婦人世界』『新声』『青年』『芸苑』『向日葵』『健全』その他の雑誌に大分書き申候」と報じている。これらのうち特に注目されるのは『芸苑』への掲載である。『芸苑』2月号は露風の作品「高麗琴」の総題のもと「雨ふる日」「木曽川」「海はわが恋」「闇」「冷笑」の5篇を巻頭4頁にわたって掲げた。
  『芸苑』は「芸術各般の考究を事とし、併せて趣味の改善を目的とし」、「西欧詩文の評論、翻訳叙説を特色とし」(芸苑に題す)て、上田敏によって再興された文学美術雑誌であった。主催の上田敏が東京帝大で英文学を講じていた関係で、門下生の生田長江、森田草平らが加わり、ほかに『文学界』時代の平田禿木、島崎藤村、馬場孤蝶や明星派の森鴎外、与謝野寛らも寄稿するといった具合で、総じて審美主義的で高雅高踏的な傾向を特徴とした高級な文芸美術雑誌として知られていた。生田長江は明治39年の秋頃からはこの雑誌の編集を任されていた。露風の詩が特別待遇で掲載されたのは、長江の出身が鳥取県で、露風の母親の養父である堀正が寮長を務めていた鳥取県の東京学寮久松学舎に一時入寮した縁によるものであった。理由はともあれ、露風にとってこのような晴れの舞台を提供されたことは、望外の僥倖であったと言わざるを得ない。
 例えば『早稲田文学』では3月号の時評で「近来俄かに異彩を放ち始めたのは三木露風氏である。殊に『高麗琴』に収めた『雨ふる日』以下の5篇は最も明らかに氏の進境を示して居る。」と述べ、「今の詩壇にありて大いに注目すべき新進作家の一人である」と称賛している。確かに前年読売新聞に掲載された作品は、どれも薄田泣菫の影響下に作られたもので、全くの習作の域をでるものではなかった。しかし「雨ふる日」などをみると、清新な抒情が横溢していて先人の影響はほとんど感じさせない新境地を印象付けている。ここには泣菫のような古風な用語法もなければ蒲原有明のような晦渋な象徴的技法も見られない。
 「雨ふる日」は、内容的には1連10行で4連からなる抒情詩で、1行5音7音の定型詩である。次に掲げるのはその2連と4連である。

 ああこの日遠里越えて
 畠中の小径いくつか
 行き、またも堤をたどる
 旅人は若きこころに
 ふるさとを思ひうかべぬ。
 あえかなる妻のゑまひは
 みどり野の樹叢(こむら)を透きて
 円くさす日光(ひざし)のさまと
 濡(ひ)ぢつつも急ぐ海路(うみじ)を
 日はさなか雨こそ霽(は)るれ。

 ああ生の歓喜(よろこび)みてる
 あたらしき生命の薫ゆり
 触れやすき旅人の胸に
 美(うま)し鳥ひと日は棲みて
 黄金色、枝もたわわに
 『追憶』(おもひで)のさは熟(う)む果実(このみ)
 啄(くち)ばみて巣をこそつくれ、
 さなり。今虹のごとくに
 五月野のおもひは白み
 いつしかに眼うるみぬ

 変わりやすい五月雨が降る野道を旅する若者が、甘美な追想に浸る情景をうたったものである。この外光的でのびやかな詩の境地は、有明や泣菫の老成した窮屈な詩の世界を見慣れていた詩壇に新鮮な印象をもたらしたことだろう。
 三好達治はこうした新傾向の詩について、「前代の詩壇が、やや凝りすぎ、考えすぎに、老けすぎ観があったのに比べますと、ここにきてもう一度とりもどされた青春が、自由に、のびらかに、その年齢の若者どもらしい気まぐれもそのままにとりいれて、とまれ楽しげに歌い直された観がある」と論じている。(「現代詩概観」『日本の詩歌』毎日新聞社昭和39年刊所収)
 「雨ふる日」に用いられている「あえかなる妻のゑまひは みどり野の樹叢を透きて 円くさす日光のさまと」のイメージは、泣菫の「ひとづま」の冒頭「あえかなる笑(えみ)や、濃青の天つそら、君が眼ざしの日のぬるみ」にヒントを得たものであろう。しかしこの「あえかなる優目見」は表現主体を「『接吻』のうまし香」に陶酔させたのも束の間、「あなうら悲し、優まみの日ざしは頓に、日曇(ひなぐ)もり」果敢なく消え失せてしまう。そうした「歓喜」と「悲愁」を表現主体にもたらす役割を担っている点で、人妻の人格の象徴として詩全体を支配しているキーワードとなっているのである。それに比べれば、「雨ふる日」における「円くさす日ざし」のような妻のゑまひ」は、単なる比喩的なはたらきとして部分的な役割をしか果たしていないのである。このことはつまりは両者の詩の主題にかかわる問題であり、「雨ふる日」は、最後の節にみられるように、若者の生命の歓喜を歌うことにあったのに反し、「ひとづま」は、追懐の索漠たる嘆きを歌っているのである。三好は白秋について「『邪宗門』にきてぐんと明るくはなやかに、若々しく、気軽に、詩中の言葉づかいが大変身軽になりました。前者にあった憂鬱と沈潜と思想的苦悩の深みとは、ここでは一部分表面に受け継がれた形であっても、内部のしんそこの詩的立場は、はるかに享楽的楽天的な気分のものに置き代えられました。」と述べているが、露風もまた主題とは直接かかわりのない「言葉づかい」をいかに自分の詩の文脈の中に、移植し取り込むかに腐心したのであった。
 このように用語法一つとっても、三好が論じているように新旧の詩風の特徴の乖離は歴然としていた。それにしても「雨ふる日」では、若者の情感はしめやかで幽かな五月の野原に開放され、明るく快い自然と調和して若者特有の浪漫的で感傷的な雰囲気を漂わせている点で、新鮮な印象を詩界にもたらしたのも事実であった。
 露風はその後『芸苑』3月号から4月号まで「五月の空」(のち南方の五月と改題)「古径」「水」など長短10篇の抒情詩を発表して、自己の抒情の定着を試みる。

 勢(きほ)ひかに、ふく芽はつはつ
 野の胸に
 きざしぬ、こころ。

 こは若き希求(きぐ)か、み空をうちあふぎ
 青き芽ひらく葉の蕾
 ああ野にも
 「命」はかよへ。     (芽)

 「追憶(おもひで)」のああいたましき
 あとを見よ、日々に壊(く)えつつ
 ほろびゆく「愛」の胸には
 「悲愁(かなしび)」の小草ぞしげれ。  (古径<ふるみち>)

 『芸苑』4月号に発表された小曲の後半部分である。前者の生命観は心のそれに通い、後者の荒涼たる情景は失われた愛の痛ましい「追憶」を表象する。このような自然の生命に仮託して自己の生命感情を重ね合わせる表現方法は、いずれ露風の詩法の中核を占めることになるのだが、この方法は有機的なものの美のうちに自己の満足を見出そうとする感情移入衝動の作用であると説くヴオリンゲルを想起させる。彼は『抽象と感情移入』(草薙正夫訳 岩波書店 1953年刊)で次のように感情移入の概念を定義している。


 このような種類の美的体験の特徴を極めて簡単に言い表すと、美的享受は客観化された自己享受であるということになるのである。美的に享受するということは、私とは異なった或る感覚的対象のうちにおいて私自身を享受すること、即ちかかる対象のうちへ私自身を移入することに他ならない。私が対象のうちへ移入するところものは極一般的にいうと生命である。


 「ああ生命の歓喜みてる 新しき生命の薫ゆり」という「雨ふる日」の詩句は、五月という季節の自然の生命力に投入された自己の内部生命であった。「胸」という語が「芽」においては「若き希求」のきざす場として、また「古径」においては失恋の「悲愁」から生まれる荒廃的気分の増大する場として、対象化されているのである。そういう意味において「芽」や「古径」は「雨ふる日」の技法の延長であった。それは単に自己の情緒なり気分の比喩的表現であるのではない。自己と外界とは画然と区別されて認識されているのではなく、自我の対立性の意識を微弱化させることで、外界に融合するところから生まれる表現方法であると考えられるのである。こうした自我意識の処理も感情移入衝動の発現である。
 「廿歳までの抒情詩」には、そのほかにも「ふるさとの」「水」「晴れ間」など、今日でも愛読されている明治40年の制作になる短詩が収められており、それらは露風の青春時代の純粋無垢の情調の記念碑的な作品ともなっていて、まさに露風の抒情小曲集ともいうべき作品群である。
 「水」は、次のような小品である。

 山上の
 おちくぼに
 たたへたる
 ふるきみず
 あまぐもを
 うかべたり

 いつよりか
 かくたたへ
 いつまたも
 乾ぬべきや
 山上の
 ああ水よ

 長詩が泣菫・有明臭をにおわせてともすれば不純な印象を与えているのに比して、かえって単純明快に自己のナイーブな情調を掬い上げていて気負いがない佳品である。
 露風は中学時代の一時を過ごした閑谷の山中の森の散策を追想し、「森の中には池があった。其の池は澄み切ってゐた。静かであるが寂しくはなかった。永久に湛へてゐる水であるやうにその静かさが思はれた。しかも永久に若い、自然を守ってゐるかのやうであった。」と『我が歩める道』に記している。森に囲まれた池が悠久の時間を底に沈め、天空を飲み込んでいるたたずまいに作者の詠嘆の根源があるとすれば、それは自然の生命力に対する神秘的な憧憬を詠ったものであるといえるだろう。その感動は「ああ水よ」に遺憾なく込められている。

2023. 5. 3

露風の初期短歌





 『三木露風全集第一巻』の「初期詩文集」によれば、露風の最初期の短歌は、『中学世界』の明治36年3月1日発行の6巻3号に掲載された「一人行く谷あひの道に日は暮れて狭きみ空に星一つ出でぬ」である。続いて3月15日発行の『言文一致』3月15日号には「あまたたび羽ばたきなして大鷲のみ空仰ぎつ飛びたたんとす」が掲載されている。
 この年の4月に露風は龍野中学に進学する。満14歳である。これより前、短歌中心の緋桜会が結成され、ようやく露風の関心は俳句から短歌に移行し始めた。「一人行く」の歌は散文的で説明的な韻律がたどたどしく、いかにも短歌としては未熟な作である。また「あまたたび」の歌に込められた寓意は、意気軒高たる露風の高い雄志をうたったものであろう。

  江を渡る雁の一つら声更けて蘆間にちさき水なみの音
  うない児が歌うたひつつ紅葉する道踏みて行く奥なつかしき
  絵だくみの仮のすまゐの侘しげに小窓に白う萩乱れたり
  杖つきて渡守呼ぶ旅僧のころもの袖に秋の風吹く
  行く船の遠くかすかに見えずなりこめし狭霧に夕日さし添ふ

 自伝『我が歩める道』に、「明治34年9月に姫路新聞に出てゐる」歌として18首を掲げている。そのうちの5首を掲げた。家森長治郎氏によれば、この掲載年月は誤りで明治36年の作であろうと推定している。根拠として「『三木露風詩集』のあとがきで明治36年は文を多く作り、又、詩作や、短歌や俳句の吟詠が多かった。其れ等の作品は、姫路市から出てゐた姫路新聞に掲げられた」と述べていることや作品の完成度などを挙げている。実はこれらの作品は全集第1巻「初期詩文集」の末尾に収録された「掲載誌(紙)も発表年月も記入されていない作品」の中に「うた袋」「短歌累々」という題の短歌があり、そこにこれらの歌が含まれている。これらはみな明治36年作の作品と思われるので、多分この短歌も36年、それも歌の内容から見て、秋に制作されたものとしていいだろう。なお、「杖つきて」の歌は、『言文一致』明治36年12月1日15年15号にも採録されている。
 作品の内容は、家森氏が論じているように、かなり完成度が高くなっている。秋の情景が細やかに描き出されていて、作者の鋭敏な感性が読み取れる詠草である。万葉集を手本にしたような情景描写を露風はこの頃、志したように感じ取られる。その自然諷詠は尾上柴舟の叙景精神が影響しているかもしれない。

  あさあけや森の女神がとき髪の簪すべりて咲くか白百合(夢野)
  白藤の小傘にふるる下道や美しき子に昼の雨ふる(夢野)
  髪洗ふ女神が茲にわすれたる細櫛と見む湖のゆふづき(吉備路)
  君待つと只あくがれて立ち出でし栗の花散る宵月夜かな(吉備路)
  新しき恋天に得て歓楽の今どよみ来る春の花潮(花潮)
  母恋ふてゆふべ戸に靠る若き子が愁いの袖よ秋を得耐えぬ(なさけ)
  故郷の東へ雲は流れつつ吉備寒うして朝、霰ふる(寂寥)
  尖りたる紅筆くだく京の子の鬢のほつれに春まだ寒き(寂寥)
  吾や七つ母と添寝の夢や夢十とせは情け知らずに過ぎぬ(舞ぎぬ)
  青風のさやぎ涼しき森蔭や人の集読むまろび寝もよし(舞ぎぬ)

 処女詩歌集『夏姫』の短歌113首のうちから10首を掲げた。『夏姫』は明治38年7月自費出版された。露風は詩や短歌の創作に没頭するあまり、学業が疎かになり、落第を心配した父の計らいで、明治37年11月、岡山県閑谷の私立中学閑谷黌に転入学した。岡山での生活は、さらに奔放を極め、文学活動はさらに活発になった。そしてついに38年夏、退学して上京することを決意する。『夏姫』は閑谷を去る記念として自費出版したものである。短歌のほかに詩10篇が収められている。
 家森氏の調査によれば、そのうち初出誌が判明しているのは30首で、もっとも早期の歌は37年10月15日発行の『文庫』27巻2号に掲載された「百合にねし其夜ひと夜の夢さめてちひさき星の恋知り得たり」などの3首であり、もっとも新しい作品は38年8月5日発行の『白虹』2巻2号誌上の「あるときは悲しと泣きし人や人見ながら恋をうばひて行くか」ほか2首であるという。このことから『夏姫』所収の作品の大部分は閑谷黌時代のものと考えられるとしている。
 露風が『文庫』の投稿欄に登場するのは、明治36年11月3日34巻4号が初めてである。それ以後彼はもっぱら『文庫』の熱心な投稿者となり、投稿欄の常連の一人になった。『白虹』は関西中学出身の入沢涼月が編集発行していた地方文芸誌である。『白虹』とのかかわりは彼が閑谷黌に転校してからだから、期間としては短かったが同人たちとの交流は親密なものがあった。そのほかに2、3の同人誌への投稿があるが、全体として30首というのは、全体の30パーセントにも満たない。ということは『夏姫』の編集にあたって必ずしも掲載歌を優先するという意識はなかったということになるかもしれない。
 閑谷での生活環境は龍野での生活と比べようもないほど、激変したようである。そのことは当然、読む歌の内容とともに歌いぶりにも反映していることは、掲歌10篇を一読しただ けでも納得できるだろう。その歌われた主題は、「夢野」「吉備路」「なさけ」「花潮」「寂寥「舞ぎぬ」という表題名によくあらわれている。<あさあけや>〈髪洗ふ〉などの作にみるように、彼の自然観照の態度は閑谷に来てすっかり様変わりして、外界とのかかわりは幻想的、夢幻的で浪漫的な色彩を強めたことは注目に値する。その一方で<君待つと><新しき>など恋心を抒情的に歌うような新境地への進出が図られているようになったことも顕著な特徴である。その背景には、史実として彼の下宿の近くの農家兼商店の娘、太田美代子との恋愛があったと家森氏は論じている。この体験が影響してこの時期の彼が明星調の技法を意識的に模倣したように思われる。
 『夏姫』の批評を乞われた氷簾(松原至文)は『文庫』明治38年9月15日号で、「晶子血、柴舟血、薫園血を混じへ」ていて、「一家特得(ママ)の露風型」の歌風がないと苦言を呈している。そのうえで、「濫りにその素肌を露さずしてよく靚装を整へ得るの才」に関しては高く評価している。そして<髪洗ふ>の歌を例にして露風の歌には「つつましき彫琢」がなされていると称賛している。要するに「骨太からざれども、肉甚だ豊か」でやさしい歌を美しく巧みに詠んでいる点が露風の本来の歌風であるとして、この歩調を乱すことなく精進することを、切望している。この歌興は<白藤や><青風の>などにも共通してみられる露風の本来的な傾向であろうと思われる。
 明治38年8月、念願の上京を果たした露風は、有本芳水とともにその年の暮れに正富汪洋や前田夕暮の斡旋で車前草社に参加する。車前草社は『新声』歌壇に拠っていた正富汪洋、前田夕暮、若山牧水が柴舟を中心に、明治38年夏ころに結成された短歌会である。その詠草は最初「車前草社詩草」として別欄掲載された。のち「車前草社詩稿」と名称を変え明治40年5月まで掲載は続けられた。その詩稿欄に露風は明治39年1月1日号から6月1日号まで掲載し、新進歌人の一人として注目された。
 この半年間に寄稿した露風の詠草は、50首足らずである。その中から数首を次に抄出してみる。

  こもり沼や太古の精が永劫にぬる守歌と冬のあめ降る
  たそがれは湖の底より来るらし十歩をへだつ君とわれとに
  悲しき日雪国なれば日おくれてぬれてとどきし母の文かな
  ああ君は別るるのちの悲みを会ふのはじめに思へと強ふる
  寂寥ははなるるまなくしたしみて胸に住まひぬ影かのやうに
  暗闇に落ちたる夢のおもひ出をさぐるに似たるこの悲しみや
  母こひし竹の花咲く山の日はうづら追ひたるふるさとの家

 前田夕暮は露風の相聞歌について「牧水の情緒的、汪洋の体臭的なのに比して心理的だった」と述べているが、残念ながらこれらの歌にみられるように、『夏姫』の世界を進展させもせず、深化させもしなかった。
 露風はこの5月号への寄稿を最後に、車前草社を脱退した。理由について露風は『我が歩める道』で「思ふところあって」と明言を避けているが、夕暮は「明治回想記」で、発表順位や採択歌数、それと柴舟の会員に対する処遇などに対して、露風が不平不満を抱いたと述べ、「僕のこんな秀歌をこんなところに押し込めるとは尾上氏もひどい」というような恨言を夕暮に向かって放ったと記している。確かに露風の歌が巻頭を飾ることは一度もなかった。しかし客観的に見て露風の作品は、すでに独自の歌風を持って新進歌人として頭角を現していた牧水や夕暮の作品に比べて優れているとは、いえない。結局、露風は夕暮の言を借りれば「歌人としての不抜の信念を持たなかった」という一言に尽きるかもしれない。
    
 葛飾やくろ土凍る菜畑の青きがつづくうえに雪降る
 こぼれにし麦が芽をふく米倉のかげに残れる春の雪かな
 恋はかく寂しきものかなやましと涙するなりうら若き子は
 昼の月背丈ばかりの夏草の中に相見し日を思ふかな
 空垂れて涙しぬべき灰色の海はけぶりて夕べとなりぬ
 春の雲ふるさと出づる一ひらの影を思ひぬ山ざくら花
 なつかしき人待つここち暮れの戸にたたづみて見つ白梅の花
 紅き芽は伸びぬ日毎に名も知らぬ野の草なれど花待ちて見む
 
 前の6首は明治40年2月1日『新声』16編2号、後の2首は同じ月の『婦人世界』2巻2号に発表したものである。
 露風は、39年5月ころ、4校目に編入した水道橋際の商業学校から退学処分を受け、そのことが親の知るところとなり、仕送りが絶たれる。そのため「極めて境遇は惨苦に遭遇して苦しめられ、生活は危急を告げた」と翌年7月の内海信之に告白しているほどの惨状を呈した。そうした環境の激変は当然彼の創作活動にも影を落として、ここに掲げた歌はどれも、車前草歌稿と比較して、繊細な自然描写の背後に作者の深い悲痛の叫びが聞こえてくるように思われる。このような象徴的な作風に深く沈潜したら、新たな地平が開かれたかもしれないと思うと、彼がこれを最後に歌壇を去ったことは残念である。しかし露風はこのころ短歌の形式に窮屈で、飽き足らない思いを強く懐いていたようで、これを最後に詩作に専念するようになった。

2023. 2. 14

一首一鳥論





 露風は大正7年、二本の詩論を発表している。即ち「詩の製作を論ず」(初出「詩歌の創造」『短歌雑誌』大正7年3月号)と「詩歌制作の根柢力」(所収『短歌の道』大正14年 アルス刊、『三木露風全集第2巻』)である。どちらも詩の根本義、詩の原理について論じたものであるが、一首一鳥は「詩の製作を論ず」の中で使われている成句である。要するに詩歌は、俳句にせよ短歌にせよ詩にせよ一首で完結したものでなければならないという意味である。特に俳句は詩の一行にも満たぬ短詩形の文学であるが、これが一毛のように鳥の軽微な部分であってはならないというのである。羽毛の一片であるよりも一鳥の美をなすものでありたいものだと言って、零細な印象断片に過ぎないような昨今の俳句の流行に批判の矢を放つのである。
 同様に、同一事象を補遺的に、また記述的、断片的に連作しているような短歌は、とても一鳥の美をなしているとはいえない。やはり一首一首が作者の主観を完全に表現していて、一首一鳥の美をなしていなければならないという。
 このことは、詩においても例外ではない。特に露風がここで問題にしているのは、民衆詩派と人道主義詩派の自由詩運動である。実はこの両派は露風の神秘的な象徴詩を執拗に批判したことで近代詩史上でも有名である。これに対して露風も果敢に反論を繰り返した。その経緯は今は割愛させて頂くとして、それを意識しての論述であることは一言触れておきたい。
 露風は、現代の世界思潮である民主的な思想や人道主義的な思想の影響を受けた「傾向詩」が詩壇にあふれているが、それらをみると「感想及記事的程度の内容を、わづかに語勢の力点を以て行(ライン)を切りつつあるにとどまり、詩歌としての思想、詩歌としての美をそこに見出すことが困難である」と論難する。
 それでは露風のいう詩歌の真の思想とは何か。「詩歌制作の根柢力」において彼は詩人の内部に持っている根柢力の示現であるという。概念ではなく、詩人の内部に持っている真実な魂の叫びを表現するところに詩の真実があり詩の美が存在するのだという。その好例として彼は柿本人麻呂の長歌をあげる。人麻呂の長歌は、「詩人内部の根柢力と、言語、形式、節操等との影響関係を最も善く、そして強く、顕現してゐる」という。このように、詩は詩人の根柢力が一首をもって完全に表現され、しかも一首の内において照応しあい、一首が一首としての世界を持って生きていなければならないと説く。詩としての本来の思想、詩として真実の美はそのようにして生まれるのであるという。
 後年、未刊の歌集『閭外遠望』(所収『三木露風全集巻3』)の巻末の「短歌小論」において、この「一首一鳥論」について改めて触れている。そこで彼は依然として散文的な短歌を制作していることを遺憾とし、戒めている。そしてこの一首一鳥論を改めて主張している。そこで彼も言っていることであるが、この一首一鳥論は彼の作詩上の信念であり、持論といっていいものである。
 参考までに『閭外遠望』から三首を選んで以下に掲げる。

  たぎちたる湯の音ききつ手をかざしあたたかき日を仰ぎ見るけふ
  しまらくは心おちゐてここだくにあらんと思ふ小島の磯に
  しかすがに心も弱るこの日ごろ歌などよめるわれににあるかな

2023. 1. 9

露風の投稿時代





 露風の少年時代の俳句の会の記事が残っている。『良夜』という題で、三鷹市所蔵の露風資料の内の文献の一つ「切抜帳」に収められているが、全集第1巻「初期詩文集」にも収められている。明治36年9月とあるから、龍野中学1年の時の作である。露風は明治22年の6月生まれだから満14歳ということになる。

 金風浙瀝として風物すべて蕭条、庭前白露団団として跫音喞々たり、吾れに詩なかるべけんや。
 一夜、菫水が宅に会する者7人、霞日、松籟は共に姫路師範の人、三紅は早稲田大学の士也、嫦娥嬌然として桐梢に懸り、新茶緑り濃やかにして俳句を談じて愈々酣快言ふ可からず。
 乃ち硯をよせて筆を噛めば、詩興湧然として良墨の香高し、余の面白しと思ひしを左に掲げつ。

と前書きして同人の作を9句紹介し、

 駄作ばかりの詰らなき予の句を出さんにはあまりに恥しく漸くに苦心して三句だけ記るし見つ、あまりアツケなきに笑ひ玉ふ勿れ。
  旅僧の峠へかゝる時雨かな
  子狐の酒買ふて行く枯野哉
  稲妻やつくねんとして石地蔵
  柱頭の時鐘、已に十点を報ずれ共興未だ尽きず、月光水のごとく流れ入りて欄灯風に明また滅。
  端近く出でゝ振仰ぐ空、銀漠雄大に尾を曳いて白露山頂流星一つ遠に落ちたり
  揖保川の淙々の響、夜の帷幄を遠く破つて庭前虫声やうやく滋し。

と結んでいる。
 露風が俳句や短歌、散文などを盛んに作るようになったのは、明治35年の春頃からのようである。彼の自伝である『我が歩める道』で、「高等小学に入った頃から、雑誌をよく読んだ。『少国民』『言文一致』と云ふ様な雑誌が鳴皐書院から出てゐた。私は其の二雑誌を特に愛読した。小学に在学した頃、此ニ雑誌に詩と文とを出して常に掲載されてゐた。」と述べている。『少国民』は明治36年1月に『言文一致』と改題している。36年4月以降、彼の投稿した散文がほぼ毎月のように『少国民』に掲載されている。次に引用するのは明治35年11月号に掲載された「車上の白雨」の一節である。露風は弟と別れた父が住んでいる神戸の家に訪れる。その途中の一こまである。

 『アラツ降って来るぞッ!』誰れやらが恁う叫むだので、弗と振仰ぐと、成程、向ふの銀行らしい屋根の辺り、悪魔の様な一むれの黒雲が、むらむらと一仕事やつつけ様と言ふ有さま中々に凄まじい!『おい什麽やら来さうだぜ』酒屋の小僧が二人徳利さげてスタスタと走って行く。⋯―と見る間に、黒雲の神は見る見る至る所に、猿びを伸ばして、はては空一面に薄墨を流した様、市内は俄かにどよめきわたって、抜目のなき車夫らは、頻りに乗客を促して居る

 題名の「白雨」は夕立のこと。蕪村の句に「白雨や草葉を掴む村雀」という有名な句がある。また蘇軾の詩の一句に「白雨跳珠乱入船」というのがある。露風が「夕立」でもなく「にわか雨」でもなく「白雨」を選んだのは、こうした詩語、俳語を意識したためであろうと推察される。俄かに襲い掛かる黒雲に慌てふためく路上の人々やこれ幸いと客を呼ぶ車夫の情景が、巧みに描かれている一文である。特に注意されるのは、入道雲がたちます空を覆うさまを「至る所に猿臂を伸ばして」と大人びたませた表現をしていることである。

 彼はそれ以外にも『中学文壇』などにも投稿し、36年中学に進学すると、『文芸界』、『文庫』や『新声』にも投稿の場を広げていった。
 一方で彼は「白紫会」「緋桜会」「柿栗会」などの文学会を主宰する。「白紫会」は、家森氏の『若き日の三木露風』によれば、初めは主に士族屋敷の少年たちの俳句を中心とする集まりであったが、のちには詩歌も盛んに作るようになり、中学進学を機に広く竜野中学の同好の士を迎え入れ、会の名も「緋桜会」と改めた。俳句中心の会合をも存続し、これを「柿栗会」と命名した。そして彼らの散文や詩歌は露風によって「姫路新聞」や「鷺城新聞」に盛んに投稿された。
 冒頭に掲げた「良夜」はその投稿の一つではなかっただろうか。「良夜」は秋の代表的な季語で、十五夜のことである。露風たちもこの夜、句会を催したのでのであろう。「金風浙瀝」「庭前白露」「跫音喞々」など4字句をちりばめた堂々たる美文調の候文は、この年齢にしてはずいぶん凝った感じを受けるが、露風はこの語句と文体をどこで習得したのだろうか。
 一つとして考えられるのは、彼の家庭環境である。彼は幼少時に父母が離婚し、祖父の家に預けられた。祖父制は龍野藩の奉行を務めた武士であったが、維新後は九十四国立銀行頭取、竜野町長を歴任した町の名士であった。露風は後年「祖父のおもかげ」という回想記の中で次のように述べている。

 物心つきてより我は書を読みふけりぬ。倉の小箪笥に父君の蔵し給ひし書物の中よりとりいでて馬琴の八犬伝など読めり、そのほか読み尽くしぬ。ただ触ることのなら(でき)ぬものは祖父君の傍らなる資治通鑑、宋朝通観などの文字記されたる書庫なりき、われはその中に梁川星厳詩集をとり出して読めり。浪速橋上の詩などありたりと覚ゆ。写本にして朱点を入れられたり、今は如何にせし失くなりたるは惜し。祖父は時々詩物語したまひぬ。祖父は君公の傍にありて大槻盤渓、梁川星厳、斉藤拙堂などより詩文を学びぬ。ある時我に言ひたまはく拙堂先生は言葉も多く文調華麗なり、星厳先生はさにあらず言葉もむつかしからず文も飾りたまはぬが心幽に情け深しと、名匠とすべきは星厳先生ならむと。

 露風は登校前に従兄らとともに、祖父から四書五経の素読を課されていたが、さらに江戸時代の漢詩文にも接していたのである。星厳は天保3年に亡くなっているが、天保12年には星厳集26巻が一括刊行されているほどの著名な漢詩人であった。「星厳自身の詩も、唐詩尊重とはいいながらも、盛唐まではさかのぼらず、中晩唐にとどまっていたといわれ、古詩よりも律詩、絶句の近体にすぐれているとされる。」(入谷仙介 『江戸詩人選集』第8巻 岩波書店 1990)このように彼の詩の傾向を述べたうえで、星厳の用語法の特徴として「好んで用例の少ない字(僻字)を用いるくせがあった」点を挙げている。
 露風もこれに倣ったというのではないだろうが、「良夜」の用語例を見ると、随所に難解な熟語が用いられている。金風浙瀝、跫音喞々、嫦娥嬌然、淙々の響、夜の帷幄などである。これらの美辞麗句をちりばめた文章が年少の手になるものとは、読者は思ってもみなかったに相違ない。
 露風は、この頃はもっぱら少年投稿雑誌『言文一致』の熱心な投稿者の一人で、俳句の外にも互報欄、文壇欄、新体詩欄、月旦欄、美文欄、などに36年2月から12月まで12回掲載されている。それらの文を見ると、今日のわれわれには、随分難しいと思われる漢語が数多く使われているのに驚かされる。たとえば遉に、甚麼、這麼、恁麼、什麼、日外、遮莫などの副詞や呶々する、加饗する、鏘とす、侫す、唾手するなどの動詞である。また、紅噋の東天に沖する、侃々の論諤々の弁、閴寥たる家内、紅塵に跼蹐する、炳然たる金箭などの漢語使用も随所に見られる。これを若者特有の衒気と考えることもできようが、露風の場合は幼少より培われた漢詩文の素養の影響と考えたほうがふさわしいように思う。
 そして中学に入ると露風の読書範囲はさらに拡大して、「文庫」「新声」以外にも『文芸界』『文芸倶楽部』『新小説』など当代の文芸雑誌までも購読するようになる。こうした旺盛な読書欲の結果が彼の語彙習得の糧となったとも考えられる。使用された語句のうち、たとえば「さすがに」は辞書をひらけば「遉に」「さもあらばあれ」には「遮莫」という漢字が示されているが、「いつぞや」のような場合は、「日外」という漢字は示されないので、露風はどこかで漢和辞書をひも解き、よみを習得していたことになる。「這麼」(こんな)についても同様であろう。また「呶々するの愚」「閴寥たる家内」などの言い回しも彼の広範な読書により習得したものであろう。この頃の露風は俳句や短歌もさることながら、むしろ小説を耽読していた形跡がある。その証拠を次のような一文に見ることができる。

 荷風の『夢の女』が出た。(略)一躰に文章が艶麗で而かも其筆に熱情の籠って居るのは、自分をして洵に面白く読ませたゆえんで有らう。(略)荷風の筆が他の作家とは違って、一種独特の妙致を備へるに至っては、自分の大に渠れに嘱望して居る所なので、事に依れば、春葉、魯庵の手合に比肩して決して退けを取るものではないと断言するに蹰躇しない一人で有る。此篇を読むだ自分は先きに於ける『地獄の花』とは、今一段の進歩をなせるの余りに早きに驚かずに居られなかった。(誤植などは改めた)  

 これは明治36年8月1日号の『言文一致』に掲載された文芸時評の一節である。彼はまだ中学に入って数か月にもなっていなかった。『地獄の花』は35年9月の刊行、『夢の女』は36年5月の刊行である。露風はともに単行本を読んでいるようだ。
 以上見てきたように、少年時代の露風は、俳句や短歌に限らず、幅広く文芸批評や日常生活を主題とした散文にも強い関心を懐いていたようである。そして俳句や短歌よりも批評文などに彼の文才は発揮されたように思われる。のちに彼は俳句や短歌を棄てて詩作の道を歩むのであるが、初期の抒情小曲を例外として、思索的、観念的な象徴詩を作るようになったのは、若山牧水や北原白秋のような抒情的感性を素質として持ち合わせていなかったためではないかと推察される。
 西條八十が露風の門をたたいたのは、彼の詩作品よりも詩論に敬服したからだと語っていたのはその一つの証左といえるだろう。露風の全集全3巻に占める試論、詩話の多さは、近代詩人の 中でも類をみない。ほかにも宗教論、文化論に至るまで広範囲の論評があり、それらを読むといかに彼が批評精神が旺盛であったかが分かるのである。


2022.11.23

露風の芭蕉観





 「心持ちが複雑になればなるだけ、適切な言葉を発見することに苦心をする。適切な言葉と云ふのは、暗示的な気分を含んでゐるものであって、象徴はそこに存在する」と露風は「新しき象徴詩の話」で述べている。喚起された不思議な感動を適切な言葉で暗示しようとする場合には、自ずから詩に美しい力をひびかせるものだというのである。したがって「象徴詩は議論から生じたり、企てられたりするものではない。」という。これは明治43年12月の『新潮』に発表されたエッセイの一文である。11月には第3詩集『寂しき曙』を博報堂から刊行したばかりのころである。ということは『寂しき曙』の詩篇は、象徴主義的な詩法を意識して作られたということができる。その点においてこの詩集が抒情的な第2詩集の『廃園』の世界と大きく異なった様相を示しているといえるのである。しかし、ここに収録された詩篇が、露風も断っているように、いわゆるマラルメらが主張しているようなフランス象徴主義の手法に学んでいるわけではない。「技巧としての象徴詩を論ずるものの有るのは愚の話だ」と述べている。要するに彼が主張している象徴詩とは、先の引用にも使われていたように暗示的象徴主義といっていいものである。フランスの象徴主義が思弁的で観念論的なのに対して、露風の考える象徴主義は自己の体験に基づき、それを情趣的感情的に暗示する象徴主義であるということである。その点において彼の方法は伝統的な美の表現方法と非常に近似していた。
 「幻の田園」の自序で彼は次のように自分の立場を明確に述べている。「象徴は仏蘭西から移入されたといふ説は一応私も肯定する。しかし其精神に於て、必ずしもそうではない。ヴェルレーヌ、マラルメの徒のみならず古き日本の芸術は此精神に胚胎して生まれてゐる。私はこの日本の伝統の精神にゐることを喜ぶ。」ここで彼が象徴の本質といっているのは、かんぜふしの能芸であり、雪舟の水墨画であり、利休の茶の湯であり、そして何よりも俊成、定家、西行らに共通する幽玄美の世界であり、さらには近世の芭蕉にまで継続する寂(さび)の世界であった。とりわけ芭蕉の象徴主義は彼が最も敬愛する詩的表現方法であった。芭蕉もまた「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫通する物は一つなり。」と『笈の小文』で述べている。彼の俳諧の道もまた彼らが求めた幽玄の精神に連なるというのである。
 露風が芭蕉への関心を強く懐き始めたのは、明治45年ころと思われる。明治45年5月、北原白秋あての書簡で、「木陰で芭蕉の句に読み耽る。願くはこの詩人のやうに詩の三昧境で果てたいと思ふ。」と記しているが、そうした芭蕉への傾倒ぶりは、大正元年11月の「時事新報」に5回にわたって掲載された「現代文学と芭蕉」において、うかがい知ることができる。
  正岡子規が「俳人蕪村」において、芭蕉のように寂とか幽玄というような美意識を理想とする東洋の美術文学は消極的な美意識だと批判し、新しい芸術はむしろ蕪村のような艶麗,雄渾、活発などの西洋芸術の積極的趣向を凝らした美意識を重視すべきだと主張した。さらに俳句における複雑的美や精細的美、客観的美について論を進め、いずれにおいても蕪村の技量は芭蕉の及ぶところではないと極言した。

 これに対して露風は、蕪村の句は写実的で色彩があり、官能に富んでいるが、あくまでも蕪村の世界は外延的に拡大しているだけで、官能の把持力、官能の精神にまで及んでいないと反論し、芭蕉の情趣は霊魂を示すまでになっていると擁護し、自然と自分との表面の接触ではなく自然の奥秘に忍び込もうとしているとして芭蕉の象徴的な詩法を高く評価する。
 露風は、「評論三則」(『詩歌』大正5年2月号)でも両者の暗示の方法の違いについて論じていて、芭蕉の暗示は精神の運びであるが、蕪村の暗示は官能の印象であるという。即ち「芭蕉の表してゐるものは『内』からの世界である」が、「蕪村の物は外に見出す興趣である」というのである。そして「霊感より来る暗示には朽ちない物がこもってゐる」に反して、「興趣を初めよりする暗示は時と場所と物との雰囲気を示すにとどまる」と批判した。芭蕉の興趣はそういう意味で同じ感覚でも感覚の精神であり、感覚の把持力であるというのである。
 露風の芭蕉論はほかにも、「象徴詩と芭蕉」(大正2年10月、講演)、「行くべき道」(『現代詩文』大正3年4月号)、「調和の人」(『国民文学』大正3年12月号)などがあるが、外にも芭蕉研究として、「桃青会」の活動などがる。この会は、後に『俳諧七部集』(朝日古典全集 昭和25年)を著す俳人・萩原羅月 や国文学者で多くの芭蕉研究書を著した俳人・沼波瓊音などが参加している。この会の活動としては、外に「6月の日記」(露風全集第3巻所収)に、芭蕉の少年時代の研究をしたことなども記されている。また『未来』(大正4年2月)には、「芭蕉評伝の稿が済み次第白き手の猟人以後の詩を整理にかかる」という記事が見える。日頃の芭蕉研究の成果をまとめて出版する計画を懐いていたことが分かる。
 事実、『幻の田園』(大正4年4月刊)の末尾には『芭蕉評伝』と『校訂芭蕉全集』の近刊広告が掲載されている。それによると評伝は、先見を捨てて独創の見地に基づき書いたものであり、全集は久しく芭蕉の生涯に私淑憧憬した露風が群書を渉猟して編んだものだうたっている。しかしこの両書は残念ながら発行されなかった。
 しかしながら評伝の方は、「芭蕉評論」昭和4年8月と表紙に記された草稿が、霞城館と三鷹市に残されている。霞城館の「芭蕉評伝」は家森長次郎氏の復刻版に依って読むことができる。三鷹市所蔵の草稿は霞城館の草稿の最初の部分に重なるが、かなり省略された箇所がある。霞城館の草稿はノートに記されたもので、約6万語に及ぶ。400字詰原稿用紙約500枚に相当する。まさに長文である。広告文では、四六版6百頁とあるので、これが大正4年の評伝と同一のものか判断はできない。推測するに書き直されているのではないかと思われる。
 「芭蕉評伝」は第24章で終わっている。完結したかどうかわからない。第17章までが「伝記双びに、芭蕉の俳諧の心境の考察と批評を主とした」部分であり、それ以降が「芭蕉の俳諧の本質をきはめ、比較的詳細に論評」したものである。芭蕉の俳諧に対するまとまった評釈は、「貝おほひ」からであり、序文と3番までの判者としての芭蕉の批評を論じている。序文については「かなりよく描かれてある。殊に文体としてよい。そこに又彼が伊賀に於ける生活の高い調子が、暗々に表はれているのだ」と彼の素養の高さとともに、韻文的な調子に注目している。そして「貝おほひ」は、貞徳と宗因の影響を脱し切れていないが、独自の情味が込められていて、初期詩集としては上等の方だど、評価している。その一方で、「江戸三百韻」は、江戸の卑俗な気分を主にして詠まれた句が多く風雅の心が感じられず、芸術性が乏しいと言わざるを得ないと痛烈に批判している。

 露風によれば、芭蕉が蕉風に目覚めたのは『野ざらし紀行』においてであるという。特に「野ざらしを心に風のしむ身かな」と「雲とへだつ友かや雁のなき別れ」の句をあげて、「見ちがへる様にすぐれたる面目を示し」ていると言い、さらに「雲しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」の吟詠は幽玄の趣を表していると称賛している。
 露風は次いで『野ざらし紀行』以降、『奥の細道』までの紀行文と落柿舎、幻住庵での生活と臨終について略説しているが、芭蕉の旅の意義については、次のように論じている。

 芭蕉における旅の重要性については、「芭蕉と旅行は関係が深い。旅なければ芭蕉の大部分の価値は生まれなかったであらう。句は元より 文もさまでに見るべきものがなかったとおもふ。」と述べ、度重なる旅が彼の人生観や芸術観にもたらした影響の大きさを特に重視している。とりわけ、『奥の細道』については、「芭蕉の紀行文中最も長いものであると共に、その白眉とすべきものであらう。且つ又その旅の長いことと難渋したことに於て、彼の人生と旅行との上から見て、最も意義の深いものであらう。従って俳諧修行ともいふべき、芸術上の目的に対しても大いに得るところがあったに違ひない。この経験を基礎として彼の俳諧の道も、益々深くなって行ったと思はれる。」と、蕉風俳諧の醇化に有意義であったという評価を下している。

 評伝の後半は、主に芭蕉七部集の連句の短評を試みている。その際、芭蕉俳諧を論ずるに際しては、彼が生存していた頃に強い影響を受けた先輩俳人の業績について論じている。特に西山宗因の談林風と松永貞徳の貞門俳諧を重視して、その影響関係を比較対照しながら論を進めている。
 特に注目すべきは、宗因の俳句に対して露風が高い評価を下していることである。例えば、     言の葉の遠山つとやほととぎす   宗因
    花の木の間のやや茂るころ     正方
について、これは機知に富む句だが、すらすらと解することによって一層よく作者の心が伝わってくる。そして「ほととぎす」に宗因らの俳諧道の寓意的表現を込めて、「景趣のままに力強く、しかもすらすらと渋滞なくよんでいる。」こういった句法は巨匠でなくてはかなわないことだと述べ、正方の付句についても、「よく上句に照応して情趣を表現している」と称賛している。
 これに対して、芭蕉の『冬の日』や「春の日」の連句は、
      袂より硯をひらき山かげに  芭蕉
     ひとりは典侍の局か内侍か  杜国
を例に引いて、「冬の日」にあらはれた芭蕉の句は、概して言うと詰屈晦渋で見るべきものはないと酷評している。それのみか今日芭蕉の代表的な名句と誰もが推奨する
     古池や蛙とびこむ水の音
についても、この句に禅意があるというような鑑賞の仕方をするが、それについて、芭蕉自身の本意が定かでない以上勝手な解釈をすべきではないと戒めている。また、
    雲折々人をやすむる月見かな
については、これは佳句ではあるがそれほど優秀であるとは思わないといい
    馬をさへながむる雪のあした哉
については作為技巧のあとが見えて劣っているといい、
    父母のしきりに恋し雉の声
は、声調がよく、情味に富んでいる句であるが、平凡で別段とりたてて称賛するに当たらないと評している。
 こうして六部集を一渡り論評したのち露風は、改めて宗因の俳諧について論じて「うるはしくして、さだめがたく鷹揚にして繊細、渾然として、わざとらしからぬ天衣無縫の配合」など「詩の諸性質を一つとして含まざるはない」と絶賛し、宗因の独創的な風雅の趣について、もっと関心を深めるべきだと主張している。
 露風が大正初期に芭蕉に心酔したのには、彼自身の性情からの親近感が大きく関係したのであったが、当時の詩歌の世界の動向も見逃せない。即ち明星派の運動に代表されるローマン主義の隆盛である。なかでも北原白秋によってもたらされた耽美的世界は、詩壇に衝撃的な驚異であった。そこには一言でいえば子規が求めた「艶麗、活発、奇警」などの多彩な積極的美の世界が充満していた。まさにそれは「寂といひ雅びといひ幽玄といひ細みといひ以て美の極となす」伝統的な美意識と対照的な世界の現出であった。露風はこうした別の言葉でいえば、エキゾチックで、人間の本能を開放するローマン的な風潮に対してあえて異を唱え、子規が消極的美といって貶しているストイックな詩精神を信奉する道を選ぶ。その精神は中世から近世に貫通する宗教的な世界観であった。