2022.11.23

露風の芭蕉観





 「心持ちが複雑になればなるだけ、適切な言葉を発見することに苦心をする。適切な言葉と云ふのは、暗示的な気分を含んでゐるものであって、象徴はそこに存在する」と露風は「新しき象徴詩の話」で述べている。喚起された不思議な感動を適切な言葉で暗示しようとする場合には、自ずから詩に美しい力をひびかせるものだというのである。したがって「象徴詩は議論から生じたり、企てられたりするものではない。」という。これは明治43年12月の『新潮』に発表されたエッセイの一文である。11月には第3詩集『寂しき曙』を博報堂から刊行したばかりのころである。ということは『寂しき曙』の詩篇は、象徴主義的な詩法を意識して作られたということができる。その点においてこの詩集が抒情的な第2詩集の『廃園』の世界と大きく異なった様相を示しているといえるのである。しかし、ここに収録された詩篇が、露風も断っているように、いわゆるマラルメらが主張しているようなフランス象徴主義の手法に学んでいるわけではない。「技巧としての象徴詩を論ずるものの有るのは愚の話だ」と述べている。要するに彼が主張している象徴詩とは、先の引用にも使われていたように暗示的象徴主義といっていいものである。フランスの象徴主義が思弁的で観念論的なのに対して、露風の考える象徴主義は自己の体験に基づき、それを情趣的感情的に暗示する象徴主義であるということである。その点において彼の方法は伝統的な美の表現方法と非常に近似していた。
 「幻の田園」の自序で彼は次のように自分の立場を明確に述べている。「象徴は仏蘭西から移入されたといふ説は一応私も肯定する。しかし其精神に於て、必ずしもそうではない。ヴェルレーヌ、マラルメの徒のみならず古き日本の芸術は此精神に胚胎して生まれてゐる。私はこの日本の伝統の精神にゐることを喜ぶ。」ここで彼が象徴の本質といっているのは、かんぜふしの能芸であり、雪舟の水墨画であり、利休の茶の湯であり、そして何よりも俊成、定家、西行らに共通する幽玄美の世界であり、さらには近世の芭蕉にまで継続する寂(さび)の世界であった。とりわけ芭蕉の象徴主義は彼が最も敬愛する詩的表現方法であった。芭蕉もまた「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫通する物は一つなり。」と『笈の小文』で述べている。彼の俳諧の道もまた彼らが求めた幽玄の精神に連なるというのである。
 露風が芭蕉への関心を強く懐き始めたのは、明治45年ころと思われる。明治45年5月、北原白秋あての書簡で、「木陰で芭蕉の句に読み耽る。願くはこの詩人のやうに詩の三昧境で果てたいと思ふ。」と記しているが、そうした芭蕉への傾倒ぶりは、大正元年11月の「時事新報」に5回にわたって掲載された「現代文学と芭蕉」において、うかがい知ることができる。
  正岡子規が「俳人蕪村」において、芭蕉のように寂とか幽玄というような美意識を理想とする東洋の美術文学は消極的な美意識だと批判し、新しい芸術はむしろ蕪村のような艶麗,雄渾、活発などの西洋芸術の積極的趣向を凝らした美意識を重視すべきだと主張した。さらに俳句における複雑的美や精細的美、客観的美について論を進め、いずれにおいても蕪村の技量は芭蕉の及ぶところではないと極言した。

 これに対して露風は、蕪村の句は写実的で色彩があり、官能に富んでいるが、あくまでも蕪村の世界は外延的に拡大しているだけで、官能の把持力、官能の精神にまで及んでいないと反論し、芭蕉の情趣は霊魂を示すまでになっていると擁護し、自然と自分との表面の接触ではなく自然の奥秘に忍び込もうとしているとして芭蕉の象徴的な詩法を高く評価する。
 露風は、「評論三則」(『詩歌』大正5年2月号)でも両者の暗示の方法の違いについて論じていて、芭蕉の暗示は精神の運びであるが、蕪村の暗示は官能の印象であるという。即ち「芭蕉の表してゐるものは『内』からの世界である」が、「蕪村の物は外に見出す興趣である」というのである。そして「霊感より来る暗示には朽ちない物がこもってゐる」に反して、「興趣を初めよりする暗示は時と場所と物との雰囲気を示すにとどまる」と批判した。芭蕉の興趣はそういう意味で同じ感覚でも感覚の精神であり、感覚の把持力であるというのである。
 露風の芭蕉論はほかにも、「象徴詩と芭蕉」(大正2年10月、講演)、「行くべき道」(『現代詩文』大正3年4月号)、「調和の人」(『国民文学』大正3年12月号)などがあるが、外にも芭蕉研究として、「桃青会」の活動などがる。この会は、後に『俳諧七部集』(朝日古典全集 昭和25年)を著す俳人・萩原羅月 や国文学者で多くの芭蕉研究書を著した俳人・沼波瓊音などが参加している。この会の活動としては、外に「6月の日記」(露風全集第3巻所収)に、芭蕉の少年時代の研究をしたことなども記されている。また『未来』(大正4年2月)には、「芭蕉評伝の稿が済み次第白き手の猟人以後の詩を整理にかかる」という記事が見える。日頃の芭蕉研究の成果をまとめて出版する計画を懐いていたことが分かる。
 事実、『幻の田園』(大正4年4月刊)の末尾には『芭蕉評伝』と『校訂芭蕉全集』の近刊広告が掲載されている。それによると評伝は、先見を捨てて独創の見地に基づき書いたものであり、全集は久しく芭蕉の生涯に私淑憧憬した露風が群書を渉猟して編んだものだうたっている。しかしこの両書は残念ながら発行されなかった。
 しかしながら評伝の方は、「芭蕉評論」昭和4年8月と表紙に記された草稿が、霞城館と三鷹市に残されている。霞城館の「芭蕉評伝」は家森長次郎氏の復刻版に依って読むことができる。三鷹市所蔵の草稿は霞城館の草稿の最初の部分に重なるが、かなり省略された箇所がある。霞城館の草稿はノートに記されたもので、約6万語に及ぶ。400字詰原稿用紙約500枚に相当する。まさに長文である。広告文では、四六版6百頁とあるので、これが大正4年の評伝と同一のものか判断はできない。推測するに書き直されているのではないかと思われる。
 「芭蕉評伝」は第24章で終わっている。完結したかどうかわからない。第17章までが「伝記双びに、芭蕉の俳諧の心境の考察と批評を主とした」部分であり、それ以降が「芭蕉の俳諧の本質をきはめ、比較的詳細に論評」したものである。芭蕉の俳諧に対するまとまった評釈は、「貝おほひ」からであり、序文と3番までの判者としての芭蕉の批評を論じている。序文については「かなりよく描かれてある。殊に文体としてよい。そこに又彼が伊賀に於ける生活の高い調子が、暗々に表はれているのだ」と彼の素養の高さとともに、韻文的な調子に注目している。そして「貝おほひ」は、貞徳と宗因の影響を脱し切れていないが、独自の情味が込められていて、初期詩集としては上等の方だど、評価している。その一方で、「江戸三百韻」は、江戸の卑俗な気分を主にして詠まれた句が多く風雅の心が感じられず、芸術性が乏しいと言わざるを得ないと痛烈に批判している。

 露風によれば、芭蕉が蕉風に目覚めたのは『野ざらし紀行』においてであるという。特に「野ざらしを心に風のしむ身かな」と「雲とへだつ友かや雁のなき別れ」の句をあげて、「見ちがへる様にすぐれたる面目を示し」ていると言い、さらに「雲しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」の吟詠は幽玄の趣を表していると称賛している。
 露風は次いで『野ざらし紀行』以降、『奥の細道』までの紀行文と落柿舎、幻住庵での生活と臨終について略説しているが、芭蕉の旅の意義については、次のように論じている。

 芭蕉における旅の重要性については、「芭蕉と旅行は関係が深い。旅なければ芭蕉の大部分の価値は生まれなかったであらう。句は元より 文もさまでに見るべきものがなかったとおもふ。」と述べ、度重なる旅が彼の人生観や芸術観にもたらした影響の大きさを特に重視している。とりわけ、『奥の細道』彼は造化にしたがひて造化にかへるといってゐる。自然にあり、自然にしたがひて帰る、即ち死ぬることを意味したであらう。」と述べとりわけ、『奥の細道』については、「芭蕉の紀行文中最も長いものであると共に、その白眉とすべきものであらう。且つ又その旅の長いことと難渋したことに於て、彼の人生と旅行との上から見て、最も意義の深いものであらう。従って俳諧修行ともいふべき、芸術上の目的に対しても大いに得るところがあっに違ひない。この経験を基礎として彼の俳諧の道も、益々深くなって行ったと思はれる。」と、蕉風俳諧の醇化に有意義であったという評価を下している。

 評伝の後半は、主に芭蕉七部集の連句の短評を試みている。その際、芭蕉俳諧を論ずるに際しては、彼が生存していた頃に強い影響を受けた先輩俳人の業績について論じている。特に西山宗因の談林風と松永貞徳の貞門俳諧を重視して、その影響関係を比較対照しながら論を進めている。
 特に注目すべきは、宗因の俳句に対して露風が高い評価を下していることである。例えば、     言の葉の遠山つとやほととぎす   宗因
    花の木の間のやや茂るころ     正方
について、これは機知に富む句だが、すらすらと解することによって一層よく作者の心が伝わってくる。そして「ほととぎす」に宗因らの俳諧道の寓意的表現を込めて、「景趣のままに力強く、しかもすらすらと渋滞なくよんでいる。」こういった句法は巨匠でなくてはかなわないことだと述べ、正方の付句についても、「よく上句に照応して情趣を表現している」と称賛している。
 これに対して、芭蕉の『冬の日』や「春の日」の連句は、
      袂より硯をひらき山かげに  芭蕉
     ひとりは典侍の局か内侍か  杜国
を例に引いて、「冬の日」にあらはれた芭蕉の句は、概して言うと詰屈晦渋で見るべきものはないと酷評している。それのみか今日芭蕉の代表的な名句と誰もが推奨する
     古池や蛙とびこむ水の音
についても、この句に禅意があるというような鑑賞の仕方をするが、それについて、芭蕉自身の本意が定かでない以上勝手な解釈をすべきではないと戒めている。また、
    雲折々人をやすむる月見かな
については、これは佳句ではあるがそれほど優秀であるとは思わないといい
    馬をさへながむる雪のあした哉
については作為技巧のあとが見えて劣っているといい、
    父母のしきりに恋し雉の声
は、声調がよく、情味に富んでいる句であるが、平凡で別段とりたてて称賛するに当たらないと評している。
 こうして六部集を一渡り論評したのち露風は、改めて宗因の俳諧について論じて「うるはしくして、さだめがたく鷹揚にして繊細、渾然として、わざとらしからぬ天衣無縫の配合」など「詩の諸性質を一つとして含まざるはない」と絶賛し、宗因の独創的な風雅の趣について、もっと関心を深めるべきだと主張している。
 露風が大正初期に芭蕉に心酔したのには、彼自身の性情からの親近感が大きく関係したのであったが、当時の詩歌の世界の動向も見逃せない。即ち明星派の運動に代表されるローマン主義の隆盛である。なかでも北原白秋によってもたらされた耽美的世界は、詩壇に衝撃的な驚異であった。そこには一言でいえば子規が求めた「艶麗、活発、奇警」などの多彩な積極的美の世界が充満していた。まさにそれは「寂といひ雅びといひ幽玄といひ細みといひ以て美の極となす」伝統的な美意識と対照的な世界の現出であった。露風はこうした別の言葉でいえば、エキゾチックで、人間の本能を開放するローマン的な風潮に対してあえて異を唱え、子規が消極的美といって貶しているストイックな詩精神を信奉する道を選ぶ。その精神は中世から近世に貫通する宗教的な世界観であった。