露風は大正7年、二本の詩論を発表している。即ち「詩の製作を論ず」(初出「詩歌の創造」『短歌雑誌』大正7年3月号)と「詩歌制作の根柢力」(所収『短歌の道』大正14年 アルス刊、『三木露風全集第2巻』)である。どちらも詩の根本義、詩の原理について論じたものであるが、一首一鳥は「詩の製作を論ず」の中で使われている成句である。要するに詩歌は、俳句にせよ短歌にせよ詩にせよ一首で完結したものでなければならないという意味である。特に俳句は詩の一行にも満たぬ短詩形の文学であるが、これが一毛のように鳥の軽微な部分であってはならないというのである。羽毛の一片であるよりも一鳥の美をなすものでありたいものだと言って、零細な印象断片に過ぎないような昨今の俳句の流行に批判の矢を放つのである。
同様に、同一事象を補遺的に、また記述的、断片的に連作しているような短歌は、とても一鳥の美をなしているとはいえない。やはり一首一首が作者の主観を完全に表現していて、一首一鳥の美をなしていなければならないという。
このことは、詩においても例外ではない。特に露風がここで問題にしているのは、民衆詩派と人道主義詩派の自由詩運動である。実はこの両派は露風の神秘的な象徴詩を執拗に批判したことで近代詩史上でも有名である。これに対して露風も果敢に反論を繰り返した。その経緯は今は割愛させて頂くとして、それを意識しての論述であることは一言触れておきたい。
露風は、現代の世界思潮である民主的な思想や人道主義的な思想の影響を受けた「傾向詩」が詩壇にあふれているが、それらをみると「感想及記事的程度の内容を、わづかに語勢の力点を以て行(ライン)を切りつつあるにとどまり、詩歌としての思想、詩歌としての美をそこに見出すことが困難である」と論難する。
それでは露風のいう詩歌の真の思想とは何か。「詩歌制作の根柢力」において彼は詩人の内部に持っている根柢力の示現であるという。概念ではなく、詩人の内部に持っている真実な魂の叫びを表現するところに詩の真実があり詩の美が存在するのだという。その好例として彼は柿本人麻呂の長歌をあげる。人麻呂の長歌は、「詩人内部の根柢力と、言語、形式、節操等との影響関係を最も善く、そして強く、顕現してゐる」という。このように、詩は詩人の根柢力が一首をもって完全に表現され、しかも一首の内において照応しあい、一首が一首としての世界を持って生きていなければならないと説く。詩としての本来の思想、詩として真実の美はそのようにして生まれるのであるという。
後年、未刊の歌集『閭外遠望』(所収『三木露風全集巻3』)の巻末の「短歌小論」において、この「一首一鳥論」について改めて触れている。そこで彼は依然として散文的な短歌を制作していることを遺憾とし、戒めている。そしてこの一首一鳥論を改めて主張している。そこで彼も言っていることであるが、この一首一鳥論は彼の作詩上の信念であり、持論といっていいものである。
参考までに『閭外遠望』から三首を選んで以下に掲げる。
たぎちたる湯の音ききつ手をかざしあたたかき日を仰ぎ見るけふ
しまらくは心おちゐてここだくにあらんと思ふ小島の磯に
しかすがに心も弱るこの日ごろ歌などよめるわれににあるかな
露風の少年時代の俳句の会の記事が残っている。『良夜』という題で、三鷹市所蔵の露風資料の内の文献の一つ「切抜帳」に収められているが、全集第1巻「初期詩文集」にも収められている。明治36年9月とあるから、龍野中学1年の時の作である。露風は明治22年の6月生まれだから満14歳ということになる。
金風浙瀝として風物すべて蕭条、庭前白露団団として跫音喞々たり、吾れに詩なかるべけんや。
一夜、菫水が宅に会する者7人、霞日、松籟は共に姫路師範の人、三紅は早稲田大学の士也、嫦娥嬌然として桐梢に懸り、新茶緑り濃やかにして俳句を談じて愈々酣快言ふ可からず。
乃ち硯をよせて筆を噛めば、詩興湧然として良墨の香高し、余の面白しと思ひしを左に掲げつ。
と前書きして同人の作を9句紹介し、
駄作ばかりの詰らなき予の句を出さんにはあまりに恥しく漸くに苦心して三句だけ記るし見つ、あまりアツケなきに笑ひ玉ふ勿れ。
旅僧の峠へかゝる時雨かな
子狐の酒買ふて行く枯野哉
稲妻やつくねんとして石地蔵
柱頭の時鐘、已に十点を報ずれ共興未だ尽きず、月光水のごとく流れ入りて欄灯風に明また滅。
端近く出でゝ振仰ぐ空、銀漠雄大に尾を曳いて白露山頂流星一つ遠に落ちたり
揖保川の淙々の響、夜の帷幄を遠く破つて庭前虫声やうやく滋し。
と結んでいる。
露風が俳句や短歌、散文などを盛んに作るようになったのは、明治35年の春頃からのようである。彼の自伝である『我が歩める道』で、「高等小学に入った頃から、雑誌をよく読んだ。『少国民』『言文一致』と云ふ様な雑誌が鳴皐書院から出てゐた。私は其の二雑誌を特に愛読した。小学に在学した頃、此ニ雑誌に詩と文とを出して常に掲載されてゐた。」と述べている。『少国民』は明治36年1月に『言文一致』と改題している。36年4月以降、彼の投稿した散文がほぼ毎月のように『少国民』に掲載されている。次に引用するのは明治35年11月号に掲載された「車上の白雨」の一節である。露風は弟と別れた父が住んでいる神戸の家に訪れる。その途中の一こまである。
『アラツ降って来るぞッ!』誰れやらが恁う叫むだので、弗と振仰ぐと、成程、向ふの銀行らしい屋根の辺り、悪魔の様な一むれの黒雲が、むらむらと一仕事やつつけ様と言ふ有さま中々に凄まじい!『おい什麽やら来さうだぜ』酒屋の小僧が二人徳利さげてスタスタと走って行く。⋯―と見る間に、黒雲の神は見る見る至る所に、猿びを伸ばして、はては空一面に薄墨を流した様、市内は俄かにどよめきわたって、抜目のなき車夫らは、頻りに乗客を促して居る
題名の「白雨」は夕立のこと。蕪村の句に「白雨や草葉を掴む村雀」という有名な句がある。また蘇軾の詩の一句に「白雨跳珠乱入船」というのがある。露風が「夕立」でもなく「にわか雨」でもなく「白雨」を選んだのは、こうした詩語、俳語を意識したためであろうと推察される。俄かに襲い掛かる黒雲に慌てふためく路上の人々やこれ幸いと客を呼ぶ車夫の情景が、巧みに描かれている一文である。特に注意されるのは、入道雲がたちます空を覆うさまを「至る所に猿臂を伸ばして」と大人びたませた表現をしていることである。
彼はそれ以外にも『中学文壇』などにも投稿し、36年中学に進学すると、『文芸界』、『文庫』や『新声』にも投稿の場を広げていった。
一方で彼は「白紫会」「緋桜会」「柿栗会」などの文学会を主宰する。「白紫会」は、家森氏の『若き日の三木露風』によれば、初めは主に士族屋敷の少年たちの俳句を中心とする集まりであったが、のちには詩歌も盛んに作るようになり、中学進学を機に広く竜野中学の同好の士を迎え入れ、会の名も「緋桜会」と改めた。俳句中心の会合をも存続し、これを「柿栗会」と命名した。そして彼らの散文や詩歌は露風によって「姫路新聞」や「鷺城新聞」に盛んに投稿された。
冒頭に掲げた「良夜」はその投稿の一つではなかっただろうか。「良夜」は秋の代表的な季語で、十五夜のことである。露風たちもこの夜、句会を催したのでのであろう。「金風浙瀝」「庭前白露」「跫音喞々」など4字句をちりばめた堂々たる美文調の候文は、この年齢にしてはずいぶん凝った感じを受けるが、露風はこの語句と文体をどこで習得したのだろうか。
一つとして考えられるのは、彼の家庭環境である。彼は幼少時に父母が離婚し、祖父の家に預けられた。祖父制は龍野藩の奉行を務めた武士であったが、維新後は九十四国立銀行頭取、竜野町長を歴任した町の名士であった。露風は後年「祖父のおもかげ」という回想記の中で次のように述べている。
物心つきてより我は書を読みふけりぬ。倉の小箪笥に父君の蔵し給ひし書物の中よりとりいでて馬琴の八犬伝など読めり、そのほか読み尽くしぬ。ただ触ることのなら(でき)ぬものは祖父君の傍らなる資治通鑑、宋朝通観などの文字記されたる書庫なりき、われはその中に梁川星厳詩集をとり出して読めり。浪速橋上の詩などありたりと覚ゆ。写本にして朱点を入れられたり、今は如何にせし失くなりたるは惜し。祖父は時々詩物語したまひぬ。祖父は君公の傍にありて大槻盤渓、梁川星厳、斉藤拙堂などより詩文を学びぬ。ある時我に言ひたまはく拙堂先生は言葉も多く文調華麗なり、星厳先生はさにあらず言葉もむつかしからず文も飾りたまはぬが心幽に情け深しと、名匠とすべきは星厳先生ならむと。
露風は登校前に従兄らとともに、祖父から四書五経の素読を課されていたが、さらに江戸時代の漢詩文にも接していたのである。星厳は天保3年に亡くなっているが、天保12年には星厳集26巻が一括刊行されているほどの著名な漢詩人であった。「星厳自身の詩も、唐詩尊重とはいいながらも、盛唐まではさかのぼらず、中晩唐にとどまっていたといわれ、古詩よりも律詩、絶句の近体にすぐれているとされる。」(入谷仙介 『江戸詩人選集』第8巻 岩波書店 1990)このように彼の詩の傾向を述べたうえで、星厳の用語法の特徴として「好んで用例の少ない字(僻字)を用いるくせがあった」点を挙げている。
露風もこれに倣ったというのではないだろうが、「良夜」の用語例を見ると、随所に難解な熟語が用いられている。金風浙瀝、跫音喞々、嫦娥嬌然、淙々の響、夜の帷幄などである。これらの美辞麗句をちりばめた文章が年少の手になるものとは、読者は思ってもみなかったに相違ない。
露風は、この頃はもっぱら少年投稿雑誌『言文一致』の熱心な投稿者の一人で、俳句の外にも互報欄、文壇欄、新体詩欄、月旦欄、美文欄、などに36年2月から12月まで12回掲載されている。それらの文を見ると、今日のわれわれには、随分難しいと思われる漢語が数多く使われているのに驚かされる。たとえば遉に、甚麼、這麼、恁麼、什麼、日外、遮莫などの副詞や呶々する、加饗する、鏘とす、侫す、唾手するなどの動詞である。また、紅噋の東天に沖する、侃々の論諤々の弁、閴寥たる家内、紅塵に跼蹐する、炳然たる金箭などの漢語使用も随所に見られる。これを若者特有の衒気と考えることもできようが、露風の場合は幼少より培われた漢詩文の素養の影響と考えたほうがふさわしいように思う。
そして中学に入ると露風の読書範囲はさらに拡大して、「文庫」「新声」以外にも『文芸界』『文芸倶楽部』『新小説』など当代の文芸雑誌までも購読するようになる。こうした旺盛な読書欲の結果が彼の語彙習得の糧となったとも考えられる。使用された語句のうち、たとえば「さすがに」は辞書をひらけば「遉に」「さもあらばあれ」には「遮莫」という漢字が示されているが、「いつぞや」のような場合は、「日外」という漢字は示されないので、露風はどこかで漢和辞書をひも解き、よみを習得していたことになる。「這麼」(こんな)についても同様であろう。また「呶々するの愚」「閴寥たる家内」などの言い回しも彼の広範な読書により習得したものであろう。この頃の露風は俳句や短歌もさることながら、むしろ小説を耽読していた形跡がある。その証拠を次のような一文に見ることができる。
荷風の『夢の女』が出た。(略)一躰に文章が艶麗で而かも其筆に熱情の籠って居るのは、自分をして洵に面白く読ませたゆえんで有らう。(略)荷風の筆が他の作家とは違って、一種独特の妙致を備へるに至っては、自分の大に渠れに嘱望して居る所なので、事に依れば、春葉、魯庵の手合に比肩して決して退けを取るものではないと断言するに蹰躇しない一人で有る。此篇を読むだ自分は先きに於ける『地獄の花』とは、今一段の進歩をなせるの余りに早きに驚かずに居られなかった。(誤植などは改めた)
これは明治36年8月1日号の『言文一致』に掲載された文芸時評の一節である。彼はまだ中学に入って数か月にもなっていなかった。『地獄の花』は35年9月の刊行、『夢の女』は36年5月の刊行である。露風はともに単行本を読んでいるようだ。
以上見てきたように、少年時代の露風は、俳句や短歌に限らず、幅広く文芸批評や日常生活を主題とした散文にも強い関心を懐いていたようである。そして俳句や短歌よりも批評文などに彼の文才は発揮されたように思われる。のちに彼は俳句や短歌を棄てて詩作の道を歩むのであるが、初期の抒情小曲を例外として、思索的、観念的な象徴詩を作るようになったのは、若山牧水や北原白秋のような抒情的感性を素質として持ち合わせていなかったためではないかと推察される。
西條八十が露風の門をたたいたのは、彼の詩作品よりも詩論に敬服したからだと語っていたのはその一つの証左といえるだろう。露風の全集全3巻に占める試論、詩話の多さは、近代詩人の
中でも類をみない。ほかにも宗教論、文化論に至るまで広範囲の論評があり、それらを読むといかに彼が批評精神が旺盛であったかが分かるのである。
「心持ちが複雑になればなるだけ、適切な言葉を発見することに苦心をする。適切な言葉と云ふのは、暗示的な気分を含んでゐるものであって、象徴はそこに存在する」と露風は「新しき象徴詩の話」で述べている。喚起された不思議な感動を適切な言葉で暗示しようとする場合には、自ずから詩に美しい力をひびかせるものだというのである。したがって「象徴詩は議論から生じたり、企てられたりするものではない。」という。これは明治43年12月の『新潮』に発表されたエッセイの一文である。11月には第3詩集『寂しき曙』を博報堂から刊行したばかりのころである。ということは『寂しき曙』の詩篇は、象徴主義的な詩法を意識して作られたということができる。その点においてこの詩集が抒情的な第2詩集の『廃園』の世界と大きく異なった様相を示しているといえるのである。しかし、ここに収録された詩篇が、露風も断っているように、いわゆるマラルメらが主張しているようなフランス象徴主義の手法に学んでいるわけではない。「技巧としての象徴詩を論ずるものの有るのは愚の話だ」と述べている。要するに彼が主張している象徴詩とは、先の引用にも使われていたように暗示的象徴主義といっていいものである。フランスの象徴主義が思弁的で観念論的なのに対して、露風の考える象徴主義は自己の体験に基づき、それを情趣的感情的に暗示する象徴主義であるということである。その点において彼の方法は伝統的な美の表現方法と非常に近似していた。
「幻の田園」の自序で彼は次のように自分の立場を明確に述べている。「象徴は仏蘭西から移入されたといふ説は一応私も肯定する。しかし其精神に於て、必ずしもそうではない。ヴェルレーヌ、マラルメの徒のみならず古き日本の芸術は此精神に胚胎して生まれてゐる。私はこの日本の伝統の精神にゐることを喜ぶ。」ここで彼が象徴の本質といっているのは、かんぜふしの能芸であり、雪舟の水墨画であり、利休の茶の湯であり、そして何よりも俊成、定家、西行らに共通する幽玄美の世界であり、さらには近世の芭蕉にまで継続する寂(さび)の世界であった。とりわけ芭蕉の象徴主義は彼が最も敬愛する詩的表現方法であった。芭蕉もまた「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫通する物は一つなり。」と『笈の小文』で述べている。彼の俳諧の道もまた彼らが求めた幽玄の精神に連なるというのである。
露風が芭蕉への関心を強く懐き始めたのは、明治45年ころと思われる。明治45年5月、北原白秋あての書簡で、「木陰で芭蕉の句に読み耽る。願くはこの詩人のやうに詩の三昧境で果てたいと思ふ。」と記しているが、そうした芭蕉への傾倒ぶりは、大正元年11月の「時事新報」に5回にわたって掲載された「現代文学と芭蕉」において、うかがい知ることができる。
正岡子規が「俳人蕪村」において、芭蕉のように寂とか幽玄というような美意識を理想とする東洋の美術文学は消極的な美意識だと批判し、新しい芸術はむしろ蕪村のような艶麗,雄渾、活発などの西洋芸術の積極的趣向を凝らした美意識を重視すべきだと主張した。さらに俳句における複雑的美や精細的美、客観的美について論を進め、いずれにおいても蕪村の技量は芭蕉の及ぶところではないと極言した。
これに対して露風は、蕪村の句は写実的で色彩があり、官能に富んでいるが、あくまでも蕪村の世界は外延的に拡大しているだけで、官能の把持力、官能の精神にまで及んでいないと反論し、芭蕉の情趣は霊魂を示すまでになっていると擁護し、自然と自分との表面の接触ではなく自然の奥秘に忍び込もうとしているとして芭蕉の象徴的な詩法を高く評価する。
露風は、「評論三則」(『詩歌』大正5年2月号)でも両者の暗示の方法の違いについて論じていて、芭蕉の暗示は精神の運びであるが、蕪村の暗示は官能の印象であるという。即ち「芭蕉の表してゐるものは『内』からの世界である」が、「蕪村の物は外に見出す興趣である」というのである。そして「霊感より来る暗示には朽ちない物がこもってゐる」に反して、「興趣を初めよりする暗示は時と場所と物との雰囲気を示すにとどまる」と批判した。芭蕉の興趣はそういう意味で同じ感覚でも感覚の精神であり、感覚の把持力であるというのである。
露風の芭蕉論はほかにも、「象徴詩と芭蕉」(大正2年10月、講演)、「行くべき道」(『現代詩文』大正3年4月号)、「調和の人」(『国民文学』大正3年12月号)などがあるが、外にも芭蕉研究として、「桃青会」の活動などがる。この会は、後に『俳諧七部集』(朝日古典全集 昭和25年)を著す俳人・萩原羅月
や国文学者で多くの芭蕉研究書を著した俳人・沼波瓊音などが参加している。この会の活動としては、外に「6月の日記」(露風全集第3巻所収)に、芭蕉の少年時代の研究をしたことなども記されている。また『未来』(大正4年2月)には、「芭蕉評伝の稿が済み次第白き手の猟人以後の詩を整理にかかる」という記事が見える。日頃の芭蕉研究の成果をまとめて出版する計画を懐いていたことが分かる。
事実、『幻の田園』(大正4年4月刊)の末尾には『芭蕉評伝』と『校訂芭蕉全集』の近刊広告が掲載されている。それによると評伝は、先見を捨てて独創の見地に基づき書いたものであり、全集は久しく芭蕉の生涯に私淑憧憬した露風が群書を渉猟して編んだものだうたっている。しかしこの両書は残念ながら発行されなかった。
しかしながら評伝の方は、「芭蕉評論」昭和4年8月と表紙に記された草稿が、霞城館と三鷹市に残されている。霞城館の「芭蕉評伝」は家森長次郎氏の復刻版に依って読むことができる。三鷹市所蔵の草稿は霞城館の草稿の最初の部分に重なるが、かなり省略された箇所がある。霞城館の草稿はノートに記されたもので、約6万語に及ぶ。400字詰原稿用紙約500枚に相当する。まさに長文である。広告文では、四六版6百頁とあるので、これが大正4年の評伝と同一のものか判断はできない。推測するに書き直されているのではないかと思われる。
「芭蕉評伝」は第24章で終わっている。完結したかどうかわからない。第17章までが「伝記双びに、芭蕉の俳諧の心境の考察と批評を主とした」部分であり、それ以降が「芭蕉の俳諧の本質をきはめ、比較的詳細に論評」したものである。芭蕉の俳諧に対するまとまった評釈は、「貝おほひ」からであり、序文と3番までの判者としての芭蕉の批評を論じている。序文については「かなりよく描かれてある。殊に文体としてよい。そこに又彼が伊賀に於ける生活の高い調子が、暗々に表はれているのだ」と彼の素養の高さとともに、韻文的な調子に注目している。そして「貝おほひ」は、貞徳と宗因の影響を脱し切れていないが、独自の情味が込められていて、初期詩集としては上等の方だど、評価している。その一方で、「江戸三百韻」は、江戸の卑俗な気分を主にして詠まれた句が多く風雅の心が感じられず、芸術性が乏しいと言わざるを得ないと痛烈に批判している。
露風によれば、芭蕉が蕉風に目覚めたのは『野ざらし紀行』においてであるという。特に「野ざらしを心に風のしむ身かな」と「雲とへだつ友かや雁のなき別れ」の句をあげて、「見ちがへる様にすぐれたる面目を示し」ていると言い、さらに「雲しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」の吟詠は幽玄の趣を表していると称賛している。
露風は次いで『野ざらし紀行』以降、『奥の細道』までの紀行文と落柿舎、幻住庵での生活と臨終について略説しているが、芭蕉の旅の意義については、次のように論じている。
芭蕉における旅の重要性については、「芭蕉と旅行は関係が深い。旅なければ芭蕉の大部分の価値は生まれなかったであらう。句は元より 文もさまでに見るべきものがなかったとおもふ。」と述べ、度重なる旅が彼の人生観や芸術観にもたらした影響の大きさを特に重視している。とりわけ、『奥の細道』については、「芭蕉の紀行文中最も長いものであると共に、その白眉とすべきものであらう。且つ又その旅の長いことと難渋したことに於て、彼の人生と旅行との上から見て、最も意義の深いものであらう。従って俳諧修行ともいふべき、芸術上の目的に対しても大いに得るところがあったに違ひない。この経験を基礎として彼の俳諧の道も、益々深くなって行ったと思はれる。」と、蕉風俳諧の醇化に有意義であったという評価を下している。
評伝の後半は、主に芭蕉七部集の連句の短評を試みている。その際、芭蕉俳諧を論ずるに際しては、彼が生存していた頃に強い影響を受けた先輩俳人の業績について論じている。特に西山宗因の談林風と松永貞徳の貞門俳諧を重視して、その影響関係を比較対照しながら論を進めている。
特に注目すべきは、宗因の俳句に対して露風が高い評価を下していることである。例えば、 言の葉の遠山つとやほととぎす 宗因
花の木の間のやや茂るころ 正方
について、これは機知に富む句だが、すらすらと解することによって一層よく作者の心が伝わってくる。そして「ほととぎす」に宗因らの俳諧道の寓意的表現を込めて、「景趣のままに力強く、しかもすらすらと渋滞なくよんでいる。」こういった句法は巨匠でなくてはかなわないことだと述べ、正方の付句についても、「よく上句に照応して情趣を表現している」と称賛している。
これに対して、芭蕉の『冬の日』や「春の日」の連句は、
袂より硯をひらき山かげに 芭蕉
ひとりは典侍の局か内侍か 杜国
を例に引いて、「冬の日」にあらはれた芭蕉の句は、概して言うと詰屈晦渋で見るべきものはないと酷評している。それのみか今日芭蕉の代表的な名句と誰もが推奨する
古池や蛙とびこむ水の音
についても、この句に禅意があるというような鑑賞の仕方をするが、それについて、芭蕉自身の本意が定かでない以上勝手な解釈をすべきではないと戒めている。また、
雲折々人をやすむる月見かな
については、これは佳句ではあるがそれほど優秀であるとは思わないといい
馬をさへながむる雪のあした哉
については作為技巧のあとが見えて劣っているといい、
父母のしきりに恋し雉の声
は、声調がよく、情味に富んでいる句であるが、平凡で別段とりたてて称賛するに当たらないと評している。
こうして六部集を一渡り論評したのち露風は、改めて宗因の俳諧について論じて「うるはしくして、さだめがたく鷹揚にして繊細、渾然として、わざとらしからぬ天衣無縫の配合」など「詩の諸性質を一つとして含まざるはない」と絶賛し、宗因の独創的な風雅の趣について、もっと関心を深めるべきだと主張している。
露風が大正初期に芭蕉に心酔したのには、彼自身の性情からの親近感が大きく関係したのであったが、当時の詩歌の世界の動向も見逃せない。即ち明星派の運動に代表されるローマン主義の隆盛である。なかでも北原白秋によってもたらされた耽美的世界は、詩壇に衝撃的な驚異であった。そこには一言でいえば子規が求めた「艶麗、活発、奇警」などの多彩な積極的美の世界が充満していた。まさにそれは「寂といひ雅びといひ幽玄といひ細みといひ以て美の極となす」伝統的な美意識と対照的な世界の現出であった。露風はこうした別の言葉でいえば、エキゾチックで、人間の本能を開放するローマン的な風潮に対してあえて異を唱え、子規が消極的美といって貶しているストイックな詩精神を信奉する道を選ぶ。その精神は中世から近世に貫通する宗教的な世界観であった。