free paper Dio 掲載記事より

   既刊のDioより、一部記事をご紹介します。   刊行記録は、こちら

              


 工事中の東京駅で、
    夢二が降りた広場とそびえるドームを想う。

            free paper Dio vol.9(2011.2.1)頁7 掲載


 
首都の象徴のひとつである東京駅は、現在、白い工事用の布で覆われ、赤煉瓦の駅舎は隠されている。2012年春には改装工事が完成して、今日的な機能が加えられ、同時に大正3年竣工当時の外観が現れる予定である。辰野金吾設計の東京駅は、大戦の空襲で焼け落ちたままだったドーム部分が復元されるのである。
 大正期の旅人、竹久夢二には、彦乃という女性との恋の顛末を伝える歌があり、そこに詠みこまれている東京の建築に、教会と駅がある。前者は、彼女との逢瀬を題材にした歌に登場する神田のニコライ堂こと東京復活大聖堂である。J・コンドル設計、明治24年築のニコライ堂のドームも、大正の大震災で損なわれたが後に復元された。後者が、彼女との京都での生活に破れて、自分の息子、不二彦を連れて帰り着いた東京駅である。(歌集『山へよする』大正8年より)
    
  ニコライのホールに入りて相抱きサンタマリアを拝みにけり
                        (サンタ・マリア)
  親と子が知らぬ他国へきたやうに悄然と下りる広い停車場 
                           (東京駅)

 二人の交際は、彦乃の父親から許しをもらうことができなかった。逃避行など複雑な経過の後、彼女は順天堂病院にて25歳で病死する。彼らの悲恋は、古都をも巡ったが、教会、駅、病院という国際性を持った西欧建築が形成する近代都市を拠点としていた。
 夢二が生きたころの東京は、丸の内界隈も広々として視界が開け、ドームを掲げた赤煉瓦の駅舎がそびえていたのだろう。それから百年近くの間、四角くて巨大なビルが林立してゆき、都市は立体化した。建築なしには有り得ない都市に、歴史的で装飾的なドームが再生するのは、原点への回帰願望からであろうか。
 夢二は、自らの燃焼をうたう短歌に、時空を超えた都市エネルギーとしての近代建築を詠み込んだ。それは、彼の悲恋の舞台であり、また、夢二式の文明批評にスクリーニングされた聖なるドーム建築であった。(ひ)





 号外もだします。


                  free paper Dio 号外(2011.4.15)

 4月15日発刊!! 『「宵待草」ノート -竹久夢二と大正リベラルズ-』 品川洋子著
                        Dioの会編・発行 はる書房 はる書房(図版42点収録)
              画人夢二の代表作が、「宵待草」の歌であることの不思議を説きます。

               

『三鷹という街を書く太宰治「陋屋の机に頬杖ついて」』
            free paper Dio vol.8(2010.6.15)頁1 掲載

〈書評をありがとうございます!〉

200911月に本書を刊行して以来、複数の新聞で取り上げられ、また、Web上のブログなどでも「斬新な切り口の研究書」などとご高評をいただきました。今後も、ご意見、ご感想をお待ちしております。

 *『読売新聞』20091110日(都内版・武蔵野版)

     「太宰が書いた三鷹/33作品から集め、1冊に」 

 *『朝日新聞』20091217日(武蔵野版・西多摩版)
     「太宰世界三鷹に探る/「陋屋」で書かれた街を考察」


 「生活と自然」が密接した武蔵野
                      free paper Dio vol.8(2010.6.15) 掲載

 「え 太宰治って、こんな小さな川で死んだの?」とは、何万回発せられた問いだろうか。そして、かつての玉川上水が水嵩豊富に飲料水を都心に運んでいたこと、役目を終えた後に形だけは流れが復活されたことの説明も、負けずに繰り返される。自然と人工が拮抗する東京郊外は、刻々と変化する。
 遡れば、万葉集には東歌が、伊勢物語には東下りの段がある。近代の東京郊外の原型は、国木田独歩が「武蔵野」で書いている。

 武蔵野とは、関東平野西部の荒川と多摩川に挟まれた広大な武蔵野台地のことである。本来は、江戸期以降の都心部である江戸城(現、皇居)や上野公園も、武蔵野台地の一角である。そして、独歩が明治30(1897)年ころに住んだ「渋谷村の小さな茅屋」は、現在の渋谷区のNHK前あたりにあった。

  それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。                       (「武蔵野」末尾文)

 独歩は、「武蔵野の範囲の中には東京がある」という説を引きながら、都市部を歴史的な存在である武蔵野から除く考え方をとり、当時の「東京市の町外れ」には着目することを主張する。近世以来の近郊農村を、近代都市とつながった東京郊外として意識するのである。「酒中日記」などで流転の人物を印象深く書いた独歩であるが、人事も自然も社会もよく観照した。

 現実の東京では、発展した都心部から住空間を求める人々が郊外へ移動、転入する現象が起きた。郊外の人口は膨れ上がり、武蔵野はコンクリートと人家で覆われた。独歩が聞いた「武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒の凩」の風音は、渋谷区や世田谷区だけではなく北多摩郡においても昔語りになり、風は建造物の間を吹きすさぶ。

 特に、太宰治が三鷹に住み「乞食学生」ほか武蔵野に取材した作品を多く描いて骨を埋めて以降のここ数十年の現代に、東京郊外、武蔵野の文学は担い手が急増した。それらは、首都の街外れの表現であるからこそ、中枢の動向を反映した事件簿となり、人間を描いているのだろうか。小金井の湧水やハケを作中に取り込んだ大岡昇平「武蔵野夫人」、村上龍が福生市の旧米軍ハウスを題材にした「限りなく透明に近いブルー」、桐野夏生が武蔵村山の弁当工場で働く主婦の逸脱をサスペンスに描く「アウト」など、思い浮かぶ作品は数多くある。文学については、論考も星の数ほどになっただろう。

 「武蔵野」にもどると、独歩は、「山は暮れ野は黄昏の薄かな」(蕪村)の名句を夕暮れの光景として引用している。薄の「萱原」がいにしえの武蔵野の美であった。独歩自身は、ツルゲーネフに触発されて近世以来の落葉樹林と田園を審美する。林と野とが入り乱れた広範な武蔵野を縦横に散策して、「高台は林と畑とでさまざまの区画」をなしていることを見出す。そして、「生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか。」と武蔵野の田園を評する。

 今日では、住宅街のどんなに細い道も舗装されてしまった。だが、散歩していると、建売住宅にまだ浸食されていない生産緑地がある。清水哲男は、「武蔵野に自由民権キウイ咲く」(『打つや太鼓』2003年)と現代の野を詠んでいる。河川には水鳥と魚が復活し、遊歩道からそれら自然の一端がうかがえる。雑木林の美がほとんど失われたように、人間の無頼な営みは自然を破壊する。だが、再生し刷新される自然を感じさせるのが、この地帯である。
 独歩のいう「生活と自然」の密接さとは、人間と自然の共生の妙のことであろう。とすれば、独歩は、歴史的な武蔵野を言い当て、ここまでに進展した東京郊外についても得難い予言をしたように想われる。(う)



   
                     

                free paper Dio vol.6(2009.3.1)頁1guide(表紙) 

  「三鷹駅近くの酒屋伊勢元は、太宰の小説「十二月八日」(昭和17年2月)にも店名が書かれています。
    その店があった場所に、太宰治文学サロンは開設されました。」

案内 立原道造記念館  free paper Dio vol.5(2008.11.3)頁3 guide 掲載


 夢は そのさきには もうゆかない
 なにもかも 忘れ果てようとおもひ
 忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには

 夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
 そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
 星くずにてらされた道を過ぎ去るであらう

 「sonatine No.1」の最終曲「のちのおもひに」の末尾の2連です。作者は立原道造。
 彼は、知性と感性の調和を重んじ、清雅でハイブロウな詩風を以て昭和期抒情詩の牙城を築いた「四季」派の代表的詩人として活躍しました。
 「音楽の状態をあこがれてつくった」(『萓草に寄す』おぼえがき)と記していますが、この詩は青春の憧れと喪失感を音楽性豊かに謳いあげた絶唱といえましょう。ただ、彼の場合、そうした感情を謳うのではなく、感情それ自体で、情調そのものを詩化するところに新しい抒情の世界があるという試論を提唱していることを考慮すれば、この詩も単なる恋歌として扱うことは出来ないでしょう。
 彼は大正3(1914)年東京日本橋に生まれました。一高を経て東京帝国大学工学部建築科に学び、卒業後石本建築事務所に就職しました。在学中に辰野金吾賞を受賞するなど将来を嘱望される建築家でもありましたが、昭和14(1939)年、2冊の詩集を残し24歳と数ヶ月の生涯を閉じました。
 
 現在、手製の歌集や詩集、草稿、パステル画、設計図、ノート、書簡、遺品など約5千点が遺族の手によって保管されています。
 立原道造記念館は、年4回、企画展示してそうした資料を広く公開しています。
 今年の秋の企画展は、母・弟・友人および生涯を通じて師事した作家堀辰雄宛の書簡を中心として、同時期作の詩稿・絵画・建築設計図・書籍などの初公開を含む関連資料を展示します。
 記念館は東京大学の弥生門と向き合うように建っていますが、「日本一小さな私立
記念館」と創立者が自認するほどこじんまりした建物ですから、見過ごさないように気をつけましょう。(と)

所在地

  「山本有三を読む会」活動報告
―第四号会報にかえて―
          代表 布川 純子

            free paper Dio vol.7(2009.11.10) 掲載

「山本有三を読む会」は二〇〇〇(平成一二)年、成蹊大学大学院関係者を中心に発足しました。以来、現在までほそぼそと会合を続けておりますが、会報は二〇〇四(平成一五)年三月の第三号以後発行しておりませんでした。今回この紙面のお話を頂きましたので、二〇〇四年春から現在までの活動について、簡単にご報告させていただきます(回数・会合開催日・読んだ作品名)。

 二〇〇四年度第一回(四月二四日)「西郷と大久保」、第二回(六月二六日)「霧の中」、第三回(七月一七日)「盲目の弟」、第四回(九月二五日)「女人哀詞」、第五回(一一月二七日)「米百俵」、第六回(一二月一八日)映画ビデオ鑑賞「波」。二〇〇五年度第一回(九月三日)「兄弟」「雪」、第二回(一一月一二日)「子役」。二〇〇六年度第一回(六月一〇日)「チョコレート」、第二回(八月一三日)「不惜身命」、第三回(九月一六日)「こぶ」。二〇〇七年度第一回(五月一九日)「はみかみやのクララ」、第二回(八月八日)「ストウ夫人」、第三回(九月二二日)「路傍の石」①、第二回(一一月一七日)「路傍の石」②、第三回(二月一六日)「路傍の石」③。

 会員全員が山本有三の作品を何作も読んでいたというわけではなかったので、とりあえず新潮社版『山本有三全集』に収められている作品を、戯曲から執筆順に読んでいこうということで活動を始めました。二〇〇四年度で戯曲もほぼ読み終わり、小説に入りました。昨年度九月代表作「路傍の石」をとりあげております。
 「路傍の石」はさすがに小中学生の頃に一度は皆読んでおりましたが、今回あらためて読み直しみると、日露戦争前後の時代背景の中で、地方の慣習習慣、またさまざまな制度など、わからない語句が意外にあることに気づきました。有三は平易な文章を書くことを心がけていたので、文意というより主に文化的・社会的な見地から語句を拾って注釈をつけようということになりました。自分たちの研究や興味のあることにひきつけつつ、現在それぞれ担当ページの調べにはいっております。
 悩みは、手頃な会合場所を見つけることが困難なことと、数名でも日程の調整が難しいことです。当面「路傍の石」全編注釈書完成を目標に、一同楽しみながらがんばっております。



 太宰治はスタイリッシュに書き継いだ・・。鴎外や思想や宗教について。
                      free paper Dio vol.6(2009.3.1)頁7 study 掲載

 太宰治が、移転先に三鷹の下連雀を選んだことについて明らかな理由は見つけられていない。昭和14年の結婚後、都心や文学仲間とちょうどよい距離を保とうとして借家を探すと、三鷹になったのだろうと言われている。

 ただ、三鷹移転より以前の作品から、すでに彼が三鷹を大きな農家のある土地として認識していたことを知ることができる。「ダス・ゲマイネ」(昭和10年)では、ヴァイオリンケースを抱えた登場人物は、「三鷹下連雀」の「地主か何か」の息子として設定されているのである。

 そして、三鷹に住んだ太宰は、鴎外翻訳から題材を採った「女の決闘」(昭和15年)を発表し、「花吹雪」(昭和19年)では、三鷹禅林寺の鴎外の清潔な墓所について言及する。それ以前より、「彼は昔の彼ならず」(昭和9年)では「あの青年という小説の主人公は私なのです。」と作中人物に言わせ、「狂言の神」(昭和11年)には「たち拠らば大樹の陰、たとえば鴎外」と書くなど、明治のジレッタント鴎外を、太宰は好んでとりあげている。その鴎外の墓が、大震災後に三鷹に移転されていたことも予め知っていた可能性はあるだろう。

 当時の玉川上水の流域には、三木露風、武者小路実篤、山本有三という、大正期前後に独自の境地を拓いた作家も、中央文壇から離れて家を構えていた。有三の洋館(現山本有三記念館)は、太宰が住んだ借家から徒歩数分の距離である。作家として勉強家で他者から学ぶこと大だった太宰が、先住の大先輩にも関心がなかったはずはない。

 太宰は、「鴎」「俗天使」(昭和15年)「作家の手帖」(昭和19年)などの小説に童謡・唱歌を書き込んでいる。「津軽」(昭和19年)で自分の子守だったタケと逢う山場は、カトリックに入信した露風が「ねえや」を歌い込んだ童謡「赤とんぼ」の延長上の世界ではないだろうか。また、実篤を中心とする『白樺』のような同人雑誌は、継続は難しかったが太宰の理想であった。彼は文学仲間や画家との気兼ねのない交流を大切にし、「友情」を主題とした「走れメロス」(昭和16年)を書く。素材が近く短編への傾斜ということであるが、実篤に『童話劇三篇』(大正10年)『井原西鶴』(昭和7年)があり、太宰は、『お伽草紙』『新釈諸国噺』(昭和20年)をまとめる。

 主観的な語りを得意とする太宰が、鴎外のような理知的な文体に憧れを持ったことは頷ける。では、同時代を生きる人物を三人称で書いて国民的作家と呼ばれた山本有三に対しては、どうだったのだろうか。有三の「女の一生」(昭和7年)「唇に歌を持て」(昭和10年)などは、西欧的な聖母像を下敷きにしている。太宰の「I can speak」(昭和13年)「俗天使」以降の作品群に、有三からバトンを受け取るように、「陋巷のマリヤ」を書こうとする姿勢が見えるのは筆者だけだろうか。
 太宰の「虚構の春」(昭和11年)には、作中人物の来信書簡として次のようなフレーズがある。
 「倉田百三か。山本有三かね。『宗教』といわれて、その程度のことしか思い浮かばんのかね。」

 太宰は、菊池寛や豊島与志雄など、有三とは親友で『新思潮』の大先輩にあたる作家にも近づきがあった。三鷹を仕事場にした太宰の矜持には、同地に地縁ある先達に対する敬愛と挑戦が潜んでいたはずである。明治生まれの作家にとって、西欧的な思想や宗教をいかに独自な文学とするかは重要な課題だった。世界大戦を挟んだ変動期に、まだ都市化の途中の田園の街-三鷹で、太宰はその課題に心意気で取り組み、書き継いだ、とでもいえばいいだろうか。(う)




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