大正100年の東京郊外

              カフェトーク原稿 20012.11.25 品川 洋子

(Dioの会のこと)

 Dioの会の品川洋子です。今日は、カフェトークの場をかりまして、活動報告として少しお話させていただきます。
 Dioの会は、フリーペーパーとHPで、「遊・学あんない」をうたった情報発信を、主な活動としています。 それが、2、3年ほど前のことですが、大正100年になるのだ、ということに気づきまして、Dioの会のさらなる活動テーマとして、キャッチコピーを思いつきました。

夢二の「宵待草」がうたわれ、露風の童謡「赤とんぼ」が生まれた時代、大正100年を学ぶ

 ですが、どうして「宵待草」と「赤とんぼ」なのか、大正100年を学ぶというのは、どういうことなのか、そのとき、特にイメージがあったわけではありませんでした。ただ、大正時代の始まりから100年になる、ということに、私はとらわれまして、フリーペーパーなどにも盛んにこのコピーを使うようになりました。

(100年うたわれる「宵待草」と「赤とんぼ」)

 Dioの会が発足した6年ほど前に、『三木露風童謡詩集 赤とんぼ』を、福嶋朝治先生がネット武蔵野から出されました。そして、昨年、私は、『「宵待草」ノート 竹久夢二と大正リベラルズ』を、Dioの会の本として、はる書房から出させていただきました。
 これで、いやおうなく、「宵待草」と「赤とんぼ」を中心にした活動が、踏み出されたことになります。

 100年もうたわれることになる「宵待草」(完成詩の発表は大正2年)と「赤とんぼ」(大正10年発表)は、どちらも詩が先行した歌です。作曲されたものが楽譜になったのは、「宵待草」が多忠亮(おおの ただすけ)の曲で大正7年、「赤とんぼ」が山田耕作の曲で昭和2年でした。
 歌曲や童謡が興った時代の作品で、どちらも、草の根的に歌われて広まった歌です。ただ、「赤とんぼ」は、トンボを見た幼いころを回想する童謡です。夢二にも童謡がありますが、「宵待草」は少し違って、悲恋を嘆く小唄です。「まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月もでぬさうな。」、童謡にはそぐわない主題です。
 違う世界を持つふたつの歌を並べてしまっていいのかどうか、これが、少し気になります。

 ただ、どちらも大正デモクラシーの時代の詩なのです。宵待草こと、マツヨイグサは、外来種で、近代になって川原などの痩せた土地に広まった花だったそうです。野に咲く花と、野を飛ぶ虫、そんな小さな生命をうたった詩としてみると、「宵待草」と「赤とんぼ」の作品世界がぐんと近づいてきます。「宵待草」も「赤とんぼ」も、自然と共に生活している人々の抒情がうたわれています。人を思う気持ち、ふるさとを思う気持ち、これは、誰もが持つきわめて個人的な感情です。この個人の感情というものが高まってきたのが、大正時代だったとも言えます。

(大正100年の時間軸と東京駅)

 それでは、これらの歌がうたわれ続けた大正期以降の100年とは、何だったのでしょうか。実は、たまたま今年、修復工事によって蘇ったJRの東京駅に、首都を中心とした100年というヒントを与えられました。

 私の知っているおよそ50年間を思い起せば、高度成長期とバブル経済があった繁栄の25年と、あとは失われた20余年と呼ばれる経済低迷の時代です。それより前の半世紀は、都市が拡充し、全世界的に戦争の動乱があった時だったことになります。あわせて、大正の始まりからの100年でした。
 夏に、復元された東京駅を見ました。大正12年の大震災には、赤レンガの駅舎は被害を受けませんでした。昭和20年の大空襲で焼失してからは、充分な修復工事ができないままになっていました。それが、67年ぶりにもとの姿を取り戻したのです。東京駅は、大正3年に開設されています。以来、100年近く、東京の中心であり、全国の鉄道網の中心であり続けていることになります。
 東京駅からは、中央線をはじめとする様々な路線が次第に伸びていきました。各地に近代化が広がって行ったわけです。 つまり、この100年とは、明治期以来の近代国家が発展をしてきて、都市に人口が集中し、さらには、郊外の田園や原野を、都民のための住宅街として都市化してきた一世紀だった、と見ることができます。政治経済の拠点が都心であるなら、生活拠点として郊外が開発されていきます。東京駅は、その“都市拡散の歴史”を見守る役目を果たして来たのでした。

(「宵待草」と「赤とんぼ」が似合う武蔵野)

 特に、大正の大震災の後には、地震に強い東京郊外、武蔵野に宅地をもとめる人が増えました。夢二も露風も震災後のこの流れに沿って、武蔵野に家を建てて住んでいます。
 ただし、彼らの代表的な歌である「宵待草」も、「赤とんぼ」も、東京郊外に住む以前に書かれています。
 彼らは、東京で暮らしながら、地方にも滞在しました。夢二の「宵待草」は、千葉県銚子の海鹿島という避暑地でカタという女性とであったことから生まれました。彼女には婚約者がいたのです。そして、「宵待草」は、悲恋の多かった夢二のテーマソングといわれるようになります。
 また、露風の「赤とんぼ」は、北海道の函館トラピスト修道院に滞在していたときに、望郷の思いを童謡にしたものです。
 夢二は岡山県、露風は兵庫県というふるさとを離れて上京し、転々としながらも一時代を築く仕事をします。夢二は抒情的な絵で一世を風靡し、露風は『白き手の猟人』などで日本の象徴主義の詩を極めました。
 
 その活躍の後に、彼らは東京郊外に家を構えたのです。夢二が大正13年、世田谷に少年山荘というアトリエ兼住居を建てたのが40歳、露風が昭和3年、三鷹牟礼に遠霞荘という家を建てたのが39歳でした。
 ただ、夢二は、露風のように隠居したのではなく、あいかわらず活躍を続け、昭和に入ってから念願の欧米旅行をして、その後、病に倒れます。旅の多かった夢二ですが、昭和9年に50歳を目前にして亡くなります。
 ともかくも、「宵待草」と「赤とんぼ」の作者は、それぞれにひと仕事を成した後の40歳前後に、新たなふるさとを見出したといえます。それが、東京郊外としての武蔵野だったのです。時代の流れによって、実際のふるさとの人も光景も幻になってしまうことがあります。それなら、東京の外れに自然と親しみながら住むほかない、というようなことだったでしょうか。露風の自然を愛する生活については、福嶋先生のお話にありました。

 夢二について言いますと、彼は山や草木を絵にも描いています。新たなふるさとを求める心境については、短歌にうかがうことができます。夢二は、一時期、京都に滞在して、日本の古い美術を学んでいたことがありました。同時に、彦乃という女性との悲恋がありまして、大正7年の終わり頃には自分の次男不二彦の手を引いてふる巣である東京にもどります。
 そのときに東京駅を詠んだ歌が3首あります。(「東京駅」 歌集『山へよする』大正8年)

 ふるさとへ帰る心できたものをながれてくればやはり寂しい
 親と子が知らぬ他国へきたやうに悄然と下りる広い停車場
 親と子がある寒い日に東京へ下りたと書けば詩のやうだけれど

 それから、東京での仮住まいや大震災があり、夢二は世田谷の少年山荘での暮らしに入ったわけです。 そして、郊外での暮らしも数年を経たころには、武蔵野を詠んだ歌があります。これは、昭和の初期に文芸雑誌に発表されたものです。夢二ファンにも知られていない歌だと思いますが、ご紹介します。

 武蔵野のならの木立にたたずめる我をわがみる春のゆふぐれ (「夜曲」『スバル』昭和5年4月)

 武蔵野は、もともとは芒の美しさで知られていました。近代には、自然のなかで人が生活することにより、林と野が入り組んだ田園地帯となったようです。楢の林は、国木田独歩が「武蔵野」に書いています。伝統的に称えられている松林と比べて、西洋的な詩趣に溢れているというのです。紅葉し落葉して、新緑も美しいし豊かに自然が感じられるということでしょう。 夢二は、武蔵野特有の楢の木を短歌に詠み、東京郊外の自然に自分を取り戻したことを表現しているのです。

 そして、2012年の今の東京郊外は、戦後の急成長を経て、住宅街として都心よりも人口が多くなり、結果として林が失われ、建造物が密集しています。このカフェのあるあたりも、100年前には雑木林のなかだったはずなのです。 ですが、都市化が進んだ後にも、武蔵野は、都心に組み込まれたとは限らず、やはり、人が、自然と共生することのできる地帯としてあるのではないでしょうか。例えば、「生産緑地」というものが、このあたりの街のなかで目につきます。 武蔵野には、「宵待草」も「赤とんぼ」も似合います。
 夢二と露風の詩は、人との絆やふるさとを失いがちな現代人の哀しみや寂しさをうたっています。そして、どのような形にしても自然と共にある生活こそ人に必要なものであることを伝えてくれます。武蔵野は、そのような生活ができるところです。あるいは、そうであったらいいなあ、と思わせるところです。

 今後も、大正100年の表現について顧みる活動を行なっていきます。そして、これから、私たちは、東京郊外から、どこへ行くのでしょうか、そういうことも考えることができればと思います。





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