竹久不二彦と辻まことが、大田区馬込などを拠点として親交したことは、近年、注目されています。彼らそれぞれの父親、竹久夢二、辻潤は、類いまれな才能を持った作家であり、大正期を代表する自由人でした。同時代を生きた二組の二代にわたる文化人の軌跡とライフスタイルをうかがいます。
(1884)
明治17年
|
9月16日、竹久夢二(本名、茂次郎)、岡山県邑久郡本庄村(現、瀬戸内市)の酒屋に生まれる。
|
(1884)
明治17年
|
10月4日、辻潤、東京市浅草区柳原町(現、台東区浅草橋)の裕福な下級官吏の家に生まれる。
|
|
|
明治25年
|
父が三重県庁に転勤し、津市に三年間住む。
|
|
|
明治28年
|
開成中学に入学するが、家の都合でやがて退学する。 |
明治32年
|
神戸中学に入学するが中退。
|
明治31年
|
初代荒木竹翁に、尺八を習う。
|
明治34年
|
夏、父親には無断で上京する。 |
(1900)
明治33年
|
英語を独習、小説を乱読する。 |
明治35年
|
9月、早稲田実業に入学。苦学する。
|
明治36年
|
正則国民英学会などで学んだ後に、日本橋区(現、中央区)の千代田尋常高等小学校の助教員となる。この頃より、『平民新聞』を購読する。
|
|
|
明治37年
|
10月、千代田尋常高等小学校の専科正教員となる。
|
(1905)
明治38年
|
早稲田実業専攻科に在学中、『中学世界』で一等賞となった投稿のコマ絵に初めて夢二の署名がある。『直言』『光』などにも社会諷刺画を発表。
|
|
|
明治39年
|
『社会主義の詩』(堺利彦編)に、「絵筆折りてゴルキーの手をとらんにわあまりに細き我腕かな」の歌を収録。 |
|
|
明治40年
|
岸他万喜(たまき)と結婚、牛込区(現、新宿区)に住む。 |
|
|
明治41年
|
2月、長男虹之助生まれる。小石川区(現、文京区)に住む。
|
明治41年
|
浅草区の精華高等小学校で教える。
|
明治42年
|
5月、協議離婚するが、たまきとは、同棲と別れを繰り返すことになる。
12月、『夢二画集 春の巻』刊。
|
明治42年
|
ロンブロオゾオの著作の翻書『天才論』を準備し始める。
|
(1910)
明治43年
|
『夢二画集 夏の巻』『夢二画集 冬の巻』ほか刊。夏には千葉県銚子町海鹿島で、長谷川賢(おしまさん)と会う。
|
|
|
(1911)
明治44年
|
1月、大逆事件の判決と処刑に衝撃を受ける。
5月1日、次男、不二彦生まれる。
|
明治44年
|
4月、下谷区桜木町(現、台東区)の上野女学校の英語教師となる。伊藤野枝が4年生として編入してくる。
|
(1912)
明治45/
大正元年
|
『少女』(6月号)に、原詩「宵待草」を発表する。
7月10日、たまき宛書簡に、啄木の遺稿集『悲しき玩具』より29首の歌を引用する。
11月、夢二作品展覧会を京都府立図書館で開催し大盛況。
|
明治45年
|
伊藤野枝との交際が元で上野女学校を退職する。
6月、巣鴨町上駒込(現、豊島区)にて野枝と同棲。母と妹も同居する。翻訳を仕事にする。
11月、野枝は、『青鞜』に関わる雑用を手伝う。
|
大正2年
|
11月、『絵入小唄集 どんたく』刊。三行詩「宵待草」発表。
|
(1913)
大正2年
|
スタンレイ・マコウアの「響影」を野枝の名前で訳し『青鞜』に掲載する。
9月、長男、まこと(本名、一)生まれる。
|
大正3年
|
4月、『草画』刊。
10月、日本橋呉服町(現、中央区八重洲)に、絵草紙店港屋を開店、夢二意匠の千代紙、半襟、封筒などを扱い、たまきに任せる。若い芸術家らが集う。
そのうちの笠井彦乃(しの)と親密となる。
|
大正3年
|
『天才論』出版され、版を重ねてやがてベストセラーとなる。この頃、アナーキスト大杉栄と辻夫妻が出会う。
|
(1915)
大正4年
|
9月、『絵入歌集』『三味線草』刊。
|
大正4年
|
1月、野枝は、『青鞜』の編集、発行人となる。
7月、野枝との婚姻届を出す。
8月、次男、流二生まれる。
|
大正5年
|
2月、三男、草一生まれる。
3月、『ねむの木』刊。「巻のはじめに(母を失ひし児を父のうたへる歌)」がある。以降、童謡・童話で不二彦をモデルにし念頭にした作品が生まれる。
11月、たまきから逃れて京都へ旅立つ。古美術など研究。
12月、不二彦、京都へ着く。
|
大正5年
|
『青鞜』は廃刊となる。野枝は大杉を追って出奔する。潤は、やがて「英語、尺八、ヴァイオリンの教授」の看板を掲げ、「バンタライ社」と称する。
|
大正6年
|
京都市高台寺南門鳥居脇に、不二彦と共に居住し、旅にも出る。三人の息子のうち不二彦が手許に残ったことになる。
6月、彦乃、夢二の許へ来て暮らすようになる。
|
大正6年
|
京都の比叡山で禅坊暮らしをする。
|
大正7年
|
4月、竹久夢二抒情画展覧会を京都府立図書館で開催。
9月、多忠亮作曲で『宵待草』がセノオ楽譜として出される。
病気が進行した彦乃を、父親が連れ去る。
11月、不二彦と共に帰京する。
一時、恩地孝四郎宅に滞在。
|
大正7年
|
訳書(スタンレイ・マコウア著)『響影-狂楽人日記』刊。
知人宅に居候するなど生活は転々とする。
|
大正8年
|
2月、彦乃との経緯を詠み、絵にした歌集『山へよする』刊。不二彦を詠んだ歌も多数収録。
春頃より、菊富士ホテル(現、文京区本郷)に滞在し、モデル佐々木カ子(ネ)ヨ(お葉)が通うようになる。<黒船屋>などが制作される。
8月、『歌時計』刊。「ちこへ」と不二彦を愛称で呼んで書く。
10月、『たそやあんど』刊。
|
|
|
(1920)
大正9年
|
1月、彦乃、順天堂病院にて満23歳の生涯を閉じる。
2月、<長崎十二景>制作。
|
|
|
大正10年
|
初夏より渋谷町宇田川(現、渋谷区)の借家でお葉と住む。
|
大正10年
|
神奈川県川崎町砂子に移住。
12月、『自我経』(全訳)行。
|
大正11年
|
8月、不二彦と富士登山する。
12月、『あやとりかけとり』刊。
|
大正11年
|
6月、『浮浪漫語』刊。
9月、「ダダの話」を『改造』に発表する。
|
大正12年
|
8月、小説「岬」を挿絵入りで『都新聞』に連載し始める。
9月、大震災後、多種の媒体に絵入りの被災報告記事を載せる。『都新聞』では「岬」を中断させて、「東京災難画信」を連載する。震災で、企画中だった“どんたく図案社”は壊滅。
|
大正12年
|
2月、小島きよと同棲する。
9月、大震災後の混乱下、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一(甥)が、憲兵大尉甘粕正彦らに虐殺されたことを新聞の号外で知る。
|
大正13年
|
8月、『婦人グラフ』の表紙・挿絵を機械刷木版によって受け持つようになる。
12月、東京府下荏原郡松沢村松原(現、世田谷区)にアトリエ付き住居「少年山荘(山帰来荘)」を建設し、お葉と息子たちと住む。
|
大正13年
|
2月、野枝の事件について述べた「ふもれすく」を『婦人公論』に発表する。
7月、『ですぺら』刊。
東京市外蒲田新宿に移り住む。
|
(1925)
大正14年
|
5月、山田順子の小説『流るゝままに』を装幀したことから恋愛関係となる。お葉去る。まもなく順子とも別れる。
|
大正14年
|
9月、「辻潤後援会」発足。
|
(1926)
大正15年/昭和元年
|
12月、『童話 春』『童謡 凧』刊。前書の「はしがき」には、「私の手許から」小学校や中学へ通った子供の成長に合わせて作品を書いたとある。
|
|
|
昭和2年
|
5~9月、自伝絵画小説「出帆」を『都新聞』に連載する。冒頭は、不二彦に相当する子供の誕生日である5月祭を回想。
|
(1928)
昭和3年
|
1月、読売新聞社の第一回文芸特置員として渡仏する。
まこと、静岡工業高等学校を中退後、父に伴ってパリへ赴く。まことは、この時、画家になる希望を失う。二人とも、パリにて中里介山の『大菩薩峠』に読みふける。「巴里通信」などを連載する。まことは、「エレンブルグに会ふ」を帰国後に書いて発表する。
|
|
|
昭和4年
|
1月、帰国する。大岡山に住む。
|
(1930)
昭和5年
|
5月、「榛名山美術研究所建設につき」の産業美術宣言文を、島崎藤村、藤島武二、有島生馬、森口多里ら知人文化人の賛同で発表する。年末には、榛名湖畔(群馬県)に榛名山荘が完成する。 |
昭和5年
|
11月、『絶望の書』刊。
この年、松尾季子(としこ)を知り、同棲。
まこと、法政工業学校(夜間部)2年に入学。昼間は子供の科学社に勤務する。
|
昭和6年
|
5月、アメリカへ向けて、秩父丸にて日本を立つ。
6月、ハワイ経由で、アメリカ西海岸に着く。サンフランシスコでの画会は不振だった。
|
|
|
昭和7年
|
モントレイ、ロサンゼルスなどで展覧会を開催。枕屏風<青山河>制作。
9月、欧州へ向けて、タマコ号にてアメリカを立つ。
10月、ハンブルグ着。欧州各地を歩く。
|
昭和7年
|
転々と移り住む。
2月、天狗になって屋根から飛んだという噂が広がり、新聞のゴシップ記事になる。青山脳病院に入院する。
4月、二回目の「辻潤後援会」が発足。
6月、伊豆大島にて静養。
名古屋方面で、虚無僧姿で門付をする。
9月、帰京して友人宅に居候の後、まことと共に目黒区洗足に住む。
|
昭和8年
|
「滞欧画信」を『若草』に送って連載する。
6月、ベルリンのイッテン画塾で「日本画についての概念」と題した講習をする。
9月、靖国丸にて、神戸港へ着き帰国。
台湾へ画会のために旅するが、帰国後、病臥する。
|
昭和8年
|
7月、名古屋市を放浪中に警察に保護され、東山寮精神病院に収容される。まこと、潤を引き取りに行く。
8月、目黒署に保護され、市外豊島郡石神井の慈雲堂病院に入院する。
まことは、法政工業学校中退。広告宣伝会社オリオン社に入る。不二彦と同僚となる。
|
(1934)
昭和9年
|
1月、友人、正木不如丘が所長を務める富士見高原療養所に入所。「旅中備忘録」を『若草』に連載。「病床遺録」は、後に藤村によって『改造』に発表される。
9月1日、結核のため逝去。(享年49歳)看護の人々へ「ありがとう」の言葉を残す。
青島へ行っていた不二彦は、臨終に間に合わなかった。
10月、友人、有島生馬により、雑司ヶ谷霊園(豊島区)に、「夢二を埋む」と刻まれた墓碑が建てられる。
『令女界』(11月号)夢二追悼号では、不二彦は、「秋風よ情あらば」を寄せる。これ以降、夢二についての回想記述・作品編集、絵画の鑑定に関わる。
|
昭和9年
|
4月、慈雲堂病院を退院。宮城県石巻の松巖寺に招かれて滞在する。以降、次々に友人宅に居候する。
9月、「辻潤君全快を祝う会」が催される。
|
|
不二彦は、夢二没後には、大森に瀟洒な洋館を借りて、妻百登枝と住んだ。文化学院卒で、レタリングやデザインが得意だった彼は、オリオン社でまことと同僚として知り合う。
西湖のほとり「ツブラ小屋」では若い世代の交流があった。
|
昭和10年
|
5月、大森区馬込町(現、大田区)のまこと宅に同居する。大森警察署に保護されたこともあった。
8月、『痴人の独語』刊。
11月、尺八の門付をしているうちに錯乱状態となり、王子の滝之川警察署に保護される。まことや松尾季子の監視のもとで、栃木県塩原町の甘湯温泉で静養する。
12月、大森区馬込町の東館に住む。
|
|
|
昭和11年
|
6月、東京を発って、小田原、名古屋、伊勢、京都、大阪などを放浪する。
まことは、退社して、デザイン会社Zスタジオや喫茶店-数寄屋茶廊を経営。この頃より山歩きを始める。
|
昭和12年
|
まこと、福田了三の友人と共に金鉱探しに東北地方の山に行く。まことが諦めても、福田と一緒に朝鮮半島の山まで行ったとされる。
|
昭和12年
|
6月、京都で、西陣警察署に保護される。さらに下鴨警察署に保護され、岩倉病院に収容される。
まことは、不二彦など友人と共に金鉱探しに熱中し上信越、東北の山々を歩く。
|
|
昭和10年代の不二彦の家は、いつも大人の居候が4,5人いたと言われる。一時は、まこと夫妻も住んでいた。二組の夫婦は、颯爽と銀座などで遊んだ。
潤の次男、若松流二もいたことがあった。
兄、虹之助のひとり娘、竹久みなみを、しばしば預かり育てた。
|
(1938)
昭和13年
|
4月、「まだ生きている」を『詩歌文学』に発表。
菅笠姿で放浪生活が続く。
まことは、潤の親友、武林無想庵の娘イヴォンヌと結婚。
|
|
|
昭和14年
|
8月、大森区新井宿(現、大田区)のまこと宅に同居する。
|
|
|
(1940)
昭和15年
|
まことに長女、野生(のぶ)生まれる。
|
|
|
昭和16年
|
12月、気仙沼(宮城県)の菅野宅に居候。
同月8日、真珠湾奇襲を聞いて「日本必敗」を予言して「降参党バンザイ」を叫ぶ。
|
昭和17年
|
潤は、不二彦宅で、孫である野生を可愛がった。
|
昭和17年
|
まこと、長女、野生を不二彦の養女とし、東亜新報記者として中国に渡り、天津支社に勤務。
4月、大森区新井宿(現、大田区)の竹久不二彦宅に居候。
11月、「痴人の独語」を『書物展望』に発表。
|
|
|
昭和18年
|
まこと、陸軍に徴用され、報道班員として従軍する。その後は青島支社に転じ、妻イヴォンヌと次女イブとともに人類学者赤堀英三の食客となる。
|
|
|
(1944)
昭和19年
|
1月、淀橋区上落合(現、新宿区)の空き家、静怡寮に住む。
6月、「続水島流吉の覚え書」を『書物展望会報』に発表。
7月、放浪の後、東京へもどり、静怡寮に住む。11月24日、寮で餓死する。(享年60歳)翌日発見され、弟、義郎、次男、若松流二により、染井の西福寺(現、豊島区駒込)に葬られる。まことは、従軍中であった。
|
(1945)
昭和20年
|
大田区募集の北海道開拓移民に、疎開のつもりで応募する。
9月15日、不二彦、百登枝、流二、みなみ、野生の一家は、出発し、日高門別(現、北海道沙流郡日高町)に着く。住まいに、夢二が使ったカーテンを持ち込んで使う。酪農を目指す。
|
(1945)
昭和20年
|
まこと、年頭に父の死の後始末のために一時帰国。再び天津で現地招集される。戦後は抑留され、復員事務に使役される。
|
|
|
昭和22年
|
帰国する。
|
|
|
昭和23年
|
離婚し、イヴォンヌは次女イブを連れて去る。草野心平主宰の詩誌『歴程』同人となり、短文、カットなどの発表を継続する。
|
昭和24年
|
日高門別の富川中学校の美術教師を務め、校章デザインをする。同じ頃、富川高等学校の校章もデザインした。
当地には、10年ほど住む。
帰京後、デザイナーとして勤務。
|
昭和24年
|
松本良子と結婚する。
|
(1957)
昭和32年
|
マクリーン作・平井イサク訳『ナヴァロンの要塞』ほか、ハヤカワノヴェルズのカバーデザインをする。
|
昭和29年
|
諷刺画文「虫類画譜」を『歴程』に連載。娘、直生(なお)、生まれる。
|
|
|
昭和33年
|
山の雑誌『アルプ』に「ツブラ小屋のはなし」を寄稿し、若いころの交流について記す。
|
昭和37年
|
「父の死の秘密」を『本の手帖』2-1(1月)に掲載する。
|
昭和39年
|
3月末より2ヶ月、欧州旅行。
『虫類図譜』刊。
|
昭和41年
|
『猫 竹久夢二木版豆本』(加藤版画研究所)の編集をする。
|
(1965)
昭和40年
|
「余白の余白」を『歴程』に連載する。
|
(1967)
昭和42年
|
妻、百登枝、急逝。
|
昭和43年
|
日本画廊で油絵の個展を開催。
|
|
|
昭和46年
|
『山の声』刊。
|
|
|
昭和47年
|
胃癌の手術を受け、療養する。
|
|
|
(1975)
昭和50年
|
画文「すぎゆくアダモ」を『同時代』に寄稿する。
12月19日、死す。(享年62歳)
12月21日、草野心平を委員長とする歴程葬が百草団地集会所で営まれた。
|
昭和51年
|
「松沢村の家」を、『別冊週刊読売 特集夢二』(1月)に掲載する。
|
昭和51年
|
1月、妻良子死す。娘直生は、両親の墓を福島県双葉郡川内村長福寺に建てる。
|
昭和52年
|
『別冊太陽 日本の心 特集竹久夢二』(9月)に、「手づくりのデザイン」を掲載。
|
|
|
(1985)
昭和60年
|
「父の思い出-夢二と、わたしの『母たち』」を、『夢二美術館1』(5月)に書く。
|
|
|
昭和62年
|
「父・夢二と私-竹久不二彦氏に聞く-」が、『弥生美術館だより№2』(3月)に載る。昭和59年開館の弥生美術館では、理事長、鹿野琢見に依頼されて館長を務め、後に姉妹館竹久夢二美術館開設に尽くす。
|
|
|
(1990)
平成2年
|
竹久夢二美術館(文京区)の名誉館長となる。
|
|
|
(1994)
平成6年
|
4月19日、肺炎のため急逝。(享年82歳)
4月24日、カトリック洗足教会(大田区上池台)にて葬儀
|
|
|
|
|
|
|
注:人名における敬称は略しました。
竹久夢二については、『初版本復複刻竹久夢二全集』「年譜(長田幹雄編)(ほるぷ出版社)を参照し、不二彦については、とくに年譜が作成されてないため、簡略に記載しました。
辻潤については、『辻潤エッセイ選』「年譜(高木譲編)」(講談社文芸文庫)を、まことについては、矢内原伊作編の「年譜」を参照。『辻まこと・父親辻潤』折原脩三著(平凡社ライブラリー)も参考にしました。
不二彦と辻一家との交流については、近年、次のような文章で注目されています。
*「竹久家の昭和 夢二のまわりから(その一~六)」竹久みなみ(掲載『現代女性文化研究所ニュースNo.22~27』2009年1月~2010年9月)
*「なにものでもなかったひと 辻まこと伝 第三回 辻潤家と竹久夢二の子どもたち②」駒村吉重(掲載『新潮45』2010年9月)
<レジュメ >
馬込文士村のあたりは、文士が誘い合うようにして住み、様々な交流が生まれたところでした。竹久夢二・不二彦と辻潤・まことの二組の父子の関わりも、昭和前期までの古き良き時代のヒューマニティ溢れる交流の一例と考えられます。
1.概略-二組の父子の足跡-
夢二と潤は、岡山出身と江戸っ子という違いはありますが、同時代人としての共通項があります。生家が比較的裕福でありながら、経済的事情の変化により中学を中退していることなどです。大学進学へのコースはとらずに世に出るという、いわば、後の山本有三の小説「路傍の石」の吾一少年のような、彼らの世代にはしばしばあった境遇でした。辻潤においては、教え子、伊藤野枝との恋愛と結婚生活の破綻など、やはり有三作「波」の行介に近い体験があります。
既製の概念にとらわれない自由な旅人としての生き方、複数の恋愛体験などが、両者に見られます。彼らは、はからずも離婚により、母親を持たない子供を育てることになります。また、それぞれの息子は、父親のそばで、個性の強い親の存在を直に受け止め、自分なりの人生を模索して行ったとうかがえます。
2.二代の時代背景
明治期の新しい機運、大逆事件、国際化の大正期、自由主義、デモクラシー、大震災、経済恐慌、軍国主義、世界大戦、戦後の混乱、民主主義体制、経済成長・・・。
特に、女権拡張運動の高まりが夢二、辻潤の時代に興ったことを見逃せません。イプセンの社会劇「人形の家」が反響を呼び、一種の近代の古典となります。
3.作家としての傾向
夢二-画家、デザイナー、詩人、童話・童謡作家
<多才で絵画小説も書く>
(夭折した石川啄木に自分とは違うものを見出し密かに理想と考えた。)
潤-翻訳家、随筆家、ダダイスト
<野枝との数奇な関わりが思想を決定したか>
(萩原朔太郎の詩人としての在り方を評価し、共感をエッセイに書く。)
―夢二と潤との交流は特に伝えられてはいない。-
不二彦-デザイナー、編集者、理想家、ヒューマニスト
<父夢二を伝える>
まこと-画家、詩人
<山岳をテーマにしたものと文明批評的な画文が特徴>
―不二彦とまことは、若き日に親交があったがそれぞれの道をゆく。―
4.父子の関係
夢二は、童話・童謡も不二彦を念頭にして書き、外遊するのも彼の成長を待ってからでした。不二彦は、一時の反抗期を除けば、生涯を通して夢二を敬愛し、伝えます。(弥生美術館での回想あり)兄虹之助の一人娘みなみと、まことの長女野生の育ての親となったのも、急逝した「優しい」おやじの継承だったと思われます。
潤は、まことを渡仏の時に随行させるなど父親としての精一杯のことをしています。ですが、奇行と精神錯乱に陥っていく高年の潤は、まことでも支えることができない存在でした。まことは、画家にはならないと言いながら、詩人として、画文の表現という父とは異なる道を選んだことになります。
|