遊・学あんない
Dioの会
データ公開Ⅵ
「食通」の無頼派 -太宰治の味覚を偲ぶ-
2010年6月開設
(独自に著述・編集し、資料を引用しています。無断複製・プリントは禁じます。 © Dioの会 )
うなぎの若松屋‐国分寺にのれん復活
太宰治は、滋養のある鰻を好物としていました。若松屋という鰻屋の主人と懇意にしていて、自分の連絡係を頼んでいたほどです。戦後、昭和21~23年の太宰は、子供のいる自宅に来客があることを嫌い、三鷹駅付近に極秘の仕事部屋をあちこちに設けるようになります。そのため、知人や編集者が太宰に会いたいときには、まず、若松屋が三鷹駅前近くに出していた屋台に訪ねて行きました。そして、若松屋の主人小川隆司氏が太宰に連絡をとり、訪問者は彼によって太宰の居場所へ案内されたのでした。
太宰の戦後の街を伝える短編作品のなかでも、「眉山」(昭和23年)には、「若松屋というさかなや」が登場します。また、「メリイクリスマス」(昭和22年)には、若松屋とおぼしき三鷹駅付近の屋台で鰻を食べる場面があります。
若松屋
は、後に国分寺に移り、二代目小川雅也氏が、今でも当時のレシピで焼いた鰻をメニューに出しています。店は、途中、豆腐屋、次には鮨屋として運営され、屋号は東鮨でしたが、父親の隆司氏より受け継いだ鰻の蒲焼をメニューに入れていました。この鰻の味は、太宰ファンや常連客に長く支持され、今年2010年5月21日には、店は若松屋の屋号を継ぎました。場所は、三鷹から国分寺に移りましたが、太宰が好んだ鰻の味が広く知られるようになり、若松屋の屋号が復活したのです。
電気ブラン - 浅草の神谷バーで飲みましょう
愛飲家だった太宰ゆかりの酒の店としては、三鷹では、伊勢元酒店(現在の太宰治文学サロンの場所にあった)と銀座の文壇バーとして知られるルパンがもっとも知られています。バールパンで撮影された太宰は、戦後に帰京したときの新たな気分が滲んでいる一枚(昭和21年秋 撮影林忠彦)として、あまりにも有名です。林忠彦が、織田作之助をルパンで撮影していたときに、1枚だけ残っていたフラッシュバルブで、お酒に酔ってリラックスした洋服姿の太宰を捉えたものです。
太宰は、小心なので不安を忘れるために酒を飲むのだと随想「酒ぎらい」には書いています。ただし、酒ならなんでもよかったのではなかったようです。清酒をもっとも好み、ウイスキーの小瓶を愛用し、当時は高級飲料だったビールも愛飲したそうです。
もうひとつ、今日ではレトロなお酒として静かなブームになっている電気ブランという酒が「人間失格」に登場します。若き日に、友人と飲み歩いたころのことを回想するかたちで書かれています。
酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、・・
(「人間失格」第二の手記、より)
電気ブランは、浅草の
神谷バー
の創設者である神谷傳兵衛氏が創案したブランデーベースのカクテルで、原型は1882(明治15)年に醸造販売されています。ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、そして薬草が配合されているそうですが、詳細は企業秘密とのことです。現在も、合同酒精(オエノンホールディングス)で製造販売されていて、神谷バーで入手することができます。
明治期には、電気という言葉を商品につけることが流行ったために、電気ブランという名称になったそうです。アルコール度数が高い飲料ですが、飲むと口のなかが痺れるために電気と命名されたという説は否定されています。このハイカラなお酒を、若き太宰も浅草でたしなんだために、彼の小説のなかにも登場しているのでしょう。
また、神谷バーは、浅草区花川戸町四番地(現、台東区浅草1丁目1番地1号)にあり、文化人が集った名所としても知られています。萩原朔太郎には「
一人にて酒をのみ居れる憐れなるとなりの男になにを思ふらん 神谷バァにて
」という歌があります。また、三浦哲郎の「忍ぶ川」ではデートの場所として登場します。
現在も使用されているビルは、1921(大正10)年に落成したもので、大正ロマンの香りと昭和モダンな雰囲気を伝えています。合理的な会計で、幅広い層に親しまれる店として今日でも運営されています。
おでんと湯豆腐‐「安くておいしものを、たくさん・・・」
太宰治は、当時では庶民の飲食店だったと思われるおでん屋を作品にしばしば登場させています。
とうとう兄は、銀座裏の、おでんやに入った。
(「一燈」より)
私の父は以前、浅草公園の瓢箪池のほとりに、おでんの屋台を出していました。
(「ヴィヨンの妻」より)
また、「食通」という随想は、「安くておいしいものを、たくさん食べ」ようという太宰の食通の奥義を伝えるもので、やはりおでんについて述べています。短い文章なので、全文を紹介します。
食通というのは、大食いの事をいうのだと聞いている。私は、いまはそうでも無いけれども、かつて、非常な大食いであった。その時期には、私は自分を非常な食通だとばかり思っていた。友人の檀一雄などに、食通というのは、大食いの事をいうのだと真面目な顔をして教えて、おでんや等で、豆腐、がんもどき、大根、また豆腐というような順序で際限も無く食べて見せると、檀君は眼を丸くして、君は余程の食通だねえ、と言って感服したものであった。伊馬鵜平君にも、私はその食通の定義を教えたのであるが、伊馬君は、みるみる喜色を満面に湛え、ことによると、僕も食通かも知れぬ、と言った。伊馬君とそれから五、六回、一緒に飲食したが、果して、まぎれもない大食通であった。
安くておいしいものを、たくさん食べられたら、これに越した事はないじゃないか。当り前の話だ。すなわち食通の奥義である。
いつか新橋のおでんやで、若い男が、海老の鬼がら焼きを、箸で器用に剥いて、おかみに褒められ、てれるどころかいよいよ澄まして、またもや一つ、つるりとむいたが、実にみっともなかった。非常に馬鹿に見えた。手で剥いたって、いいじゃないか。ロシヤでは、ライスカレーでも、手で食べるそうだ。
(「食通」昭和17年)‐太宰作品は青空文庫より調整して引用-
「食通」文中には、おでんの種として、「豆腐」があります。太宰が、豆腐を「湯豆腐」として食べることも、非常に好んだことも忘れてはならないことです。
「十五年間」(昭和21年)では、新婚のころには、「午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々と飲んでいた」ことについて書いています。それを裏付けるように、美知子夫人は、『回想の太宰治』のなかで、新婚のころは「酒の肴はもっぱら湯豆腐」だったと述べています。太宰は、「豆腐は酒の毒を消す、味噌汁は煙草の毒を消す」と言っていたとも書いています。さらに、彼は歯が悪かったことも豆腐を好んだ理由としてあげられ、豆腐はたくさん食べても値が張らないという合理的な考えもあったと追想されています。
湯豆腐は、特に、昭和期の父親たちに愛された料理です。太宰が好んだことについても不思議はありません。ですが、ひとつ気になることがあります。実は、電気ブランを飲ませた店、神谷バーの定番メニューに、鰹節をたくさんかけた湯豆腐があるそうです。もしかすると、鰹節を使った湯豆腐が酒好きの男性の間に広まったことには、この神谷バーの湯豆腐メニューが一役かっていたのかもしれません。
太宰の食通の奥義が大食いということなのは、、無頼だったと言うことができるでしょう。ですが、経済面も健康面も考慮されていることは、太宰の意外な一面だったと思われます。
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