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データ公開Ⅲ
生誕100年-ブログ作家のような太宰治を振り返る
2009年6月公開
(独自に著述・編集し、資料を引用しています。無断複製・プリントは禁じます。 © Dioの会 )
生誕100年の太宰治
生誕100年をむかえた2009年6月、太宰治の人と作品はどのようにとらえることができるだろうか。独白的な作風が、ブログを思わせるという最近の説をもとにして、太宰治の作家像を見なおしておきたい。
生い立ち
1909(明治42)年、太宰治(本名、津島修治)は、青森県北津軽郡金木村(現、五所川原市)に生まれた。現在、太宰治記念館「斜陽館」として公開されている600余坪の敷地を持つ津島家邸宅が建設されて初めての子供で、第10子(6男)だった。父津島源右衛門、母タ子のほか、祖母イシ、叔母キヱが同居し、兄弟姉妹に加え従姉妹たち、さらに使用人がその邸宅で生活していた。父親は、貴族院議員を務めるほどの大地主だったが、太宰が中学校へ進学する直前に亡くなった。
生みの母が病弱だったために、幼少のころには、乳母が付けられ、祖母や叔母にかわいがられた。物心つく頃には、養育係りとして子守のタケがいた。
大正デモクラシーが台頭する時代、青森中学校在学中より同人雑誌を出すなど早くから文学的才能を発揮する。同時に、自分が大地主の子弟に生まれたことに負い目を感じつつ成長した。
東京帝国大学仏文科に在学中の一時期は共産党のシンパ活動をしたこともあり、大学は中退する。太宰治という筆名は、1933(昭和8)年より使い始めた。「葉」「道化の華」「逆行」「猿面冠者」など小説15編による創作集『晩年』を1936(昭和11)年に上梓するが、世評は厳しく、期待された芥川賞の受賞も結果として逃した。
「私はこの本一冊を創るためにのみ生まれた。」(「『晩年』に就いて」)と書いて自負したが、盲腸炎術後の治療に使ったパビナールの中毒症となるなど座礁が待ち受けていた。所帯を持っていた小山初代とは離別することとなる。再起をはかり、1938(昭和13)年には山梨県の天下茶屋に滞在して執筆に励む。このとき、師である井伏鱒二のすすめもあり、甲府の石原美知子と見合いをして結婚することになり、作家活動も中盤に入る。
-作家、太宰は、自殺・心中未遂など自身に起きた事件も素材にして作品化した。実際の生涯は、年譜(『太宰治全集巻13』、『太宰治大事典』に収録)に詳しい。-
ブログのような小説 ―
日記体、レーゼドラマ風、自己戯画化・・・-
1939(昭和14)年1月に、杉並の井伏鱒二宅で挙式した太宰と美知子夫人は、いったんは甲府の御崎町に新居を構えた。そして、同年9月、東京郊外、三鷹村下連雀に新築された借家に入居し、戦時体制に入った時代に執筆活動に専念する。
三鷹に来てからは、「女の決闘」「駆け込み訴え」「走れメロス」など翻案ものの秀作が続いた。最近では、太宰作品にブログの特質があると言われることがある。(『ユリイカ』2008年9月掲載、町田康「後ろめたさとともに書く」、木村綾子「孤独の共犯者」など参照)
これは、従来の日記体という見方の延長上にあるが、作品を分類する概念ではなく、太宰文学の本質的なものを、個室から発信するウェブ上の日誌、ブログにみたてて解明しようとする説である。「走れメロス」を例にしても、太宰においては、翻案ものとブログの要素が両立している。メロスを三人称で書きながら、彼の思いを面々と独白する筆致があるからである。太宰自らは、「LESDRAMAふうの、小説」(「新ハムレット」昭和16年)と言うが、作品全体を作者の声でモノローグしてしまう小説形態である。
太宰は、第三者のことを素材にしながら、メタフィクションとして作者の姿を見せ、既成の物語や自身の述懐、実録と創作を幾重にも入れ込む構成をする。最晩年の「人間失格」(昭和23年)は、そのような独白形態の集大成と考えられる。
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最初の作品集『晩年』に収められた「彼は昔の彼ならず」(『世紀』昭和9年10月)にも自分を語る傾向があり、最後は、「・・あの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。」とやや逆説的に強調して結ばれている。同棲する女性が代わると風貌や生活が変わる木下青扇が主人公で、このような作品は、自己戯画化した小説とも言われる。
「彼は昔の彼ならず」には、語り手が所有している借家が書かれ、家賃を払わない主人公が住んでいる。当時よくある家の造りだったと思われるが、そこは、間取りから百日紅(さるすべり)が植えられていること、駅からやや歩くことまで、不思議にも、後に太宰が住んだ三鷹の家によく似ているのである。
あの家は元来、僕のものだ。三畳と四畳半と六畳と、三間ある。間取りもよいし、日当りもわるくな いのだ。十三坪のひろさの裏庭がついていて、あの二本の紅梅が植えられてあるほかに、かなりの大きさの百日紅もあれば、霧島躑躅が五株ほどもある。昨年の夏には、玄関の傍に南天燭を植えてやった。それで家賃が十八円である。高すぎるとは思わぬ。二十四五円くらい貰いたいのであるが、駅から少し遠いゆえ、そうもなるまい。
『晩年』収録作「彼は昔の彼ならず」(昭和9年)
個室で書かれるブログには自己言及と批評性があるが、自室で一気に仕上げるような太宰の小説スタイルにもそのようなブログを思わせるところがある。「彼は昔の彼ならず」は、太宰のセルフイメージの一端が噴き出すようにして小説化されたのであろう。
その後、三鷹に住んだ太宰は、作品に似てしまった現実の借家生活についてたびたび作中で触れる。そして、実際の自分の家の間取りを活かして創作する。ブログが継続的に書かれるのに似て、同じ家から次々に小説が発信されたことが感じとられる。
私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。 「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」
「東京八景」(昭和16年)
東京市外の三鷹町に、六畳、四畳半、三畳の家を借り、神妙に小説を書いて、二年後には女の子が生まれた。
「帰去来」(昭和18年)
わが居宅は六畳、四畳半、三畳の三部屋なり。いま一部屋欲しと思わぬわけにもあらず。子供の騒ぎ廻る部屋にて仕事をするはいたく難儀にして、引越そうか、とふっと思う事あれども、わが前途の収入も心細ければ、また、無類のおっくうがりの男なれば、すべて沙汰やみとなるなり。一部屋欲しと思う心はたしかにあり。居宅に望なき人の心境とはおのずから万里の距離あり。
「花吹雪」(昭和18年執筆)
たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落とすほど淋しく、思わず溜息をついて、すこし伸びあがってお勝手の格子窓から外を見ますと、・・・・中略・・・・
うちで寝る時は、夫は、八時頃にもう、六畳間にご自分の蒲団とマサ子の蒲団を敷いて蚊帳を吊り、・・・・・中略・・・・・
私は隣の四畳半に長男と次女を寝かせ、それから十一時頃まで針仕事をして、それから蚊帳を吊って長男と次女の間に「川」の字ではなく「小」の字になってやすみます。 ・・・・・中略・・・・・・
玄関の式台に腰をおろし、とてもいらいらしているように顔をしかめながら、雨のやむのを待ち、ふいと一言、
「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら。」
と呟きました。
玄関の前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。
「おさん」(昭和22年)
夏、家族全部三畳間に集り、大にぎやか、大混雑の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、・・・後略・・・
「桜桃」(昭和23年)
女性独白体という”虚”で浮かび上がること
『晩年』にも、「漁服記」のようにスワという山間に住む若い女性を主人公として、その思春期の感受性を描いた作品がある。だが、女性の言葉を借りて小説を語る女性独白体という太宰特有の手法は、中期以降に確立された。「女生徒」(昭和14年)「きりぎりす」(昭和15年)「十二月八日」(昭和16年)「ヴィヨンの妻」(昭和22年)などが注目される。先に引いた「おさん」(昭和22年)もそうだが、“妻が無頼な夫を語る形態”は、自己戯画化が進み、幾重にも屈折した作者の告白になる。だが、「斜陽」(昭和22年)は、女性独白体をとりながら、書簡体や手記の形式を交えて構成している。太宰は、女性の語りを得意としながら、それだけで充分な小説が成り立つと考えていたわけではなかった。
小説『津軽』(昭和19年)は、戦中の小説で、紀行文の形をとっている。故郷の人々と旧交をあたため、タケという自分の子守だった女性と再会することが主題である。
まず、『晩年』中の「思い出」(『世紀』昭和8年)では、母親代わりだった叔母のことに続いて、タケについて次のようにある。(小説では、たけと平仮名にしている。)
六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読みあった。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさんの本を読み合った。読む本がなくなればたけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。(中略)
(たけは或漁村へ嫁に行った)その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代って知らせたようだ。たけは、油断大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。
『晩年』収録作「思い出」(昭和8年)
『津軽』では、「私は、たけの子だ。」と書いて、自分の兄たちとは違う逞しく庶民的な性質について述べる。かつては母のように慕っていた叔母には会わなかったように書き、太宰は、生家の人々を懐かしみながらも、彼らと自分の間に距離を設けた。そして、この小説の山場を、人生の最初に人間としての徳性をのばすように保育してくれた子守のタケとの再会に設定した。そこには血縁への懐疑としての近親嫌悪の情と、キリスト教的な博愛主義が作用しているとみることができる。
再会の場面では、たけの心のうちを長い独白のように書いている。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」
『津軽』(昭和19年)
けれども、実は、現実のたけはこのように饒舌ではなく、再会の時には特に詳しい話はしなかったことが明らかにされている。(参照『太宰治 戦中と戦後』郡継夫))この長い語りは、作者がタケに語り手である自分自身を語らせた創作である。この母性に満ちた女性の独白によって、「たけの子」という作中の主題が強調されているのである。
太宰治の文学と人生
実際の太宰においては、生活費については生家が長く世話をしていた。タケ本人の太宰への感情は、実の子供に対するものとはまた違ったものだったはずである。現実の世界には、生まれたときから資産を持っている者と、そうではない者、幼少の頃から奉公人に支えられる者と、年少で奉公に出される者があった。太宰の小説は、そういう現実への抗弁として、人と人が共感や愛情によってつながっていることをあらわそうとしている。
ただ、実際の戦後となると、優位な階級であったはずの地主階級は没落する。そして太宰は、恐れながら予知していた、社会変動、つまり平等思想の急激な実現とともに、命を縮めてしまったかのように見える。彼は、執筆生活の負担から病を重くし、新体制によって対等の立場となった女性と共に玉川上水に身を投じて命を失った。太宰治は、博愛をもって生きようとして小説を書いたが、とどのつまりは、人道的な社会改革ではなく、世界大戦後の変動期が訪れ、その混乱に巻き込まれたようにうかがえるのである。
〔引用文は、『太宰治全集』(筑摩書房)を底本とし現代表記とした〕
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