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データ公開Ⅰ
山本有三旧蔵の近衛文麿書「夜行」(宋詩)
2009年5月公開
(独自に著述・編集し、資料を引用しています。無断複製・プリントは禁じます。© Dioの会 )
忘れられた宋詩「夜行」(晁沖之)
山本有三記念館において、展示公開されている能筆の書軸に「夜行」(宋 晁沖之)がある。第二次世界大戦直前に人望を集めて就任し、後に戦争責任を問われて自害した悲劇の首相、近衛文磨が書いたものである。「夜行」は、朱子の「偶成」(「少年易老学難成」)のようには有名ではないが、中国文学の大きな全集には収録されている。戦前の人々の目に触れる機会はあった漢詩と考えられる。だが、文麿の書軸「夜行」は、有三と文麿の戦前の交友の資料として紹介されることはあるものの、その鑑賞には関心が集まらないままに過ぎている。
「夜行」が宋代の文治主義を伝える漢詩であることは、同記念館の展示解説書では一度取り上げられている。僻村にも、科挙に備えて夜通し明かりを灯し勉学に励む者のいる宋代こそ、多くの文人や詩人を輩出した。もしも、燈火管制が布かれた大戦中にも、この「夜行」が有三の三鷹の家(現、山本有三記念館)に掛けてあり、これを見る者がいたなら、明かりが漏れることも厭わずに読書三昧ができることへの羨望を掻きたてたのではなかったろうか。戦争を体験した文麿らの世代には、読書に没頭できるような時代への憧れがあり、その思いが平和憲法や文化国家建設へつながったのではないかと推察しないではいられない。さらには、この詩を選んだ文麿の内奥はどのようなものだったのだろうか。
山本有三が最晩年に書いた「濁流 雑談 近衛文麿」(1973〔昭和48〕年~)では、この書は、文麿の思想と教養を伝える重要な資料となったはずである。だが、実際には、この実話小説は、宋詩「夜行」に触れないまま未完に終わっている。そして、詩は忘れられたままになったようだ。その「夜行」にまつわることを、昭和の文化史の一端としてここに顧みておきたい。
「夜行」
晁 沖之
(ちょう ちゅうし)
(叙用)
老い去りて功名の意
(こころ)
は転
(いよ)
いよ疎
(おろそ)
かなり
独り痩せ馬に騎
(の)
りて長き途
(みち)
を取
(たど)
る
弧村
(こそん)
暁に到りて 猶お灯火
人家の夜書
(よるしょ)
を読むもの有るを知る
文麿書 「夜行」
読み下し文は、『宋詩概説』(吉川幸次郎 岩波文庫 2006年)を参照
注;山本有三記念館の刊行物で、文麿と彼の書について論じていて参考になるのは次のとおりである。企画展は、京都、陽明文庫の協力により開催されている。
1.企画展冊子『濁流展-有三絶筆「雑談 近衛文麿」-』 2001年5月
2.解説書『山本有三展<昭和の文化観>』
(監修:福嶋朝治 調査協力:揖斐高、山本有三を読む会:布川純子) 2007年4月
山本有三‐未完の「路傍の石」と「濁流 雑談 近衛文麿」
文麿の書軸は山本有三旧蔵として伝わるだけで、いつどのように近衛文麿がこの七言絶句の漢詩を墨書したのかについての詳細は伝わっていない。有三と文麿の交際が密だったのは、昭和10年前後から大戦中にかけてであった。文麿の書体からも、昭和期に入ってからの書と考えられる。文麿は総裁となる以前に一度は大命を拝辞しているが、もしも、その1936(昭和11)年ころ、老境に入った感慨を述べる宋詩「夜行」に自分の思いを託したのであったなら、文麿の逡巡と孤独が伝わってきて興味深い資料となるだろう。
有三と近衛文麿は、1909(明治42)年、一高入学において同級であった。文麿は、やがて当時の華族の子弟が進学する京都帝国大学に転入し、進路は分かれる。だが、1914(大正3)年、第三次『新思潮』を、有三、菊池寛、久米正雄、芥川龍之介らが興したとき、5月、6月の号に文麿は、オスカー・ワイルド「社会主義論」の翻訳を寄稿した。文麿の和漢洋の素養については定評があるが、当時の雑誌に発表された訳業のうちでもこれほどまとまったものは稀ではないだろうか。ただ、当時、このような進歩的な翻訳を掲載したことで物議をかもすことになり、後にも、若き日の近衛公のエピソードとしてたびたび引き合いにだされることになる。
この後、公爵として貴族院議員となり国際的な政治にかかわった近衛文麿と、文学の道に進んだ有三の交際は、大正期より断続して復活した。1935(昭和10)年より、有三の企画編集で、『日本少国民文庫』全16巻の刊行が始まったときには、叢書の推薦文を文麿が書いている。軍国主義の時代に、次代への教育を配慮して成された事業であった。
文麿が総裁の大命を一旦は拝辞した1936(昭和11)年、『文藝春秋』7月号に発表された「近衛文麿公閑談會」には、かつての一高の仲間、有三、菊池寛、久米正雄が集った。各自の近況や華族の存在、鎌足を祖とする近衛家についてなど話題は広がっている。近衛の大命排辞のことにも話題は及び、政治面で近衛に期待するような発言も出ている。
1937(昭和12)年6月1日、文麿がついに大命拝受し、第一次近衛内閣が組閣されると、有三は、談話「近衛公を語る」(『読売新聞』6月2日)を発表し、以降は、近衛ブレーンとして動くことになる。奇しくも、「路傍の石」第一部の『朝日新聞』連載が終了する時期であった。そして、有三の国語改良を近衛がバックアップするようなかたちで、「ことば」の文化から改革をして行こうとする戦後にいたるまでの流れができていく。誰もがつかいやすい平易な現代国語の実現が有三のねらいであり、戦後の国語審議会などにつながっていくのである。
第二次世界大戦が終結した1945(昭和20)年暮には、近衛文麿は、戦争責任を追及されて自害することになる。かたや有三は、憲法の口語化を進言し、貴族院議員に推され、戦後最初の参議院議員となり、戦後の文化国家建設に尽くす活躍をするが、戦前より準備されていた方針にのっとっての働きであったことは言うまでもないことであろう。
有三の作家活動について言えば、家庭の事情で進学をはばまれるなど逆境のなかで健気に生きる吾一少年の物語「路傍の石」第一部発表の後、『主婦之友』に「新篇 路傍の石」としてこの小説を書き直して連載した。だが、吾一が成人するまでに筋が進まないうちに、社会主義青年の登場する場面で検閲干渉が激しくなり、1940(昭和15)年夏、有三は筆を折ることになる。これ以降の有三は、自宅(現、山本有三記念館)に“ミタカ少国民文庫”(昭和17年)を開いて読む本のない戦中の子供たちに蔵書を開放し、人材育成の課題を盛り込んだ戯曲「米百俵」(昭和18年)を書くなどの活躍をした。だが、新聞連載の長編小説はもう書くことはなかった。
国会議員生活を終えてからの有三のライフワークは歴史小説であったが、調べ物に凝って構想に終始した。最晩年に自分の友人であった近衛を擁護する小説を、「路傍の石」から数えて36年目の新聞小説として『毎日新聞』に発表するものの、それも完成することはなかった。その「濁流 雑談 近衛文麿」執筆においても、有三は調べられるだけの史料を調査しつくした。有三は、本来的に作品としては書きにくい歴史的事実や実話と取り組むために、調査に徹したのである。
文麿書としての晁沖之「夜行」
有三は、「濁流 雑談 近衛文麿」を連載途中に病に倒れ、1974(昭和49)年1月に死去した(86歳)。この「濁流」は、恐らく予定の3分の1ほどしか書かなかったのではなかったかと言われている。実話小説として、戦中における文麿とのやりとりや、ほとんどの若者が召集されてしまったときに、「若い人」がいないかと言われたことなどが書かれている。有三が文麿の伝記を引き受けないではいられなかった経過が作品化されているのである。そして、文麿の生い立ちや人柄について書き始めたあたりで中断され、どのような筋が用意されていたのかはわかっていない。作中では、『近衛日記』『大本営機密日誌』ほか非常に多くの図書が参照されていて、書き手が自らの回想や伝聞に頼るだけではなく、史実を文献に探りながら書く形態となっている。
だが、作中には、文麿書「夜行」は登場しないで終わっているのである。「濁流」は、戦争回避できなかった責任を問われて自害した元首相を弁護する内容の小説である。中国宋代の文治主義を伝える「夜行」を文麿が書いていることについて紹介したなら、彼の平和志向を伝えることができたのではないだろうか。終戦の年になる1945(昭和20)年の初めには、戦後対策を考える知識人の集まりとして三年会が結成された。まさに、燈火管制の布かれた時代に密かに有識者が集まって、来るべき民主主義について語り合われたのであろう。有三や志賀直哉などの作家も参加し、文麿の支援があったと言われていて、その功績は見逃すことができない。このことについても、「濁流」には書かれないで終った。
*
「夜行」の作者晁沖之(叙用)は、宋代において、いわば世をすねた詩人だったようで、著名な詩人蘇軾の弟子と伝えられるが生没年など詳しいことはわかっていない。生涯、職位につかずに詩人として暮したといわれる。学問の家でもあった五摂家のうちの近衛家当主、文麿が、どのような書物から、「夜行」を引用したのかということも、何も知られていない。
「夜行」の意は、科挙をめざして夜を徹して勉学に励んでいる者が僻村にもいることを知り、そのような意欲を持たない詩人が自らの老境を悟るというものである。少し深読みすれば、厭世感も滲んだ詩である。試験制度や能力主義は、個人においては機会均等、国家においては広く人材を求められる利便性がある。だが、それだけで、社会に平等な幸福が実現するとは限らない。科挙制度による社会体制があった宋の時代に、そのような世の中を傍観、もしくは達観している詩人の姿がある。「夜行」作者の晁沖之は、文人政治家でも官僚でもないのである。
歴史的に為政者側の家柄で、しかも知識が幅広かった文麿は、社会改革の難しさを誰よりも見越していたのではなかったろうか。平和な文化国家への思いもあったろうが、達成の困難さに鬱屈する思いも強かったであろう。そういう心境もまた、世をすねた晁沖之の「夜行」への共感となったかもしれない。彼が若き日に翻訳したオスカー・ワイルドの「社会主義論」も、題名に「社会主義」とあるために当時は危険視する体制があったが、内容的には文学的な文明批評である。「夜行」にもそのような文学的批評性があり、このような文麿の文学志向は、注目に値するものである。むしろ、文麿はどのような日本の近代作家よりも、文学者の魂を持っていたように思われる。といえば、文麿へのうがった同情が強すぎてしまうだろうか。
有三が、「濁流 雑談 近衛文麿」において伝えたかった文麿像を掘り起こすには、文麿書「夜行」が重要な鍵になる。しかしながら、書かれなかったことの究明は、至難のことである。
思うに、大正期の教養主義は、軍国主義の圧力を受けながらも昭和前期までは有識者の間に残っていた。そして、第二次世界大戦によって、そのような旧来の文化と近代文化を融合させた教養主義も人道主義も、崩壊した。「路傍の石」で進学を阻まれる吾一少年が書かれたことと同様に、「濁流」が教養深い華族である文麿の人となりを描き切らずに終わったことは、教養主義が終焉した昭和の文化史を象徴的にあらわしていると受け止めておくよりほかにない。
<参考-太宰治が書いた「燈火管制」
>
燈火管制については、太宰治が
「十二月八日」
(1942〔昭和17〕年)に書いている。女性独白体で主婦の日記の形を借りた小説からは、太平洋戦争開戦のその日から三鷹でも本格的な燈火管制があったことがうかがえる。
銭湯へ行く時には、道も明るかったのに、帰る時には、もう真っ暗だった。燈火管制なのだ。もうこれは、演習でないのだ。心の異様に引きしまるのを覚える。でも、これは少し暗すぎるのではあるまいか。こんな暗い道、今まで歩いた事がない。一歩一歩、さぐるようにして進んだけれど、道は遠いのだし、途方に暮れた。あの独活《うど》の畑から杉林にさしかかるところ、それこそ真の闇で物凄かった。女学校四年生の時、野沢温泉から木島まで吹雪の中をスキイで突破した時のおそろしさを、ふいと思い出した。あの時のリュックサックの代りに、いまは背中に園子が眠っている。園子は何も知らずに眠っている。
背後から、我が大君に召されえたあるう、と実に調子のはずれた歌をうたいながら、乱暴な足どりで歩いて来る男がある。ゴホンゴホンと二つ、特徴のある咳《せき》をしたので、私には、はっきりわかった。
「園子が難儀していますよ。」
と私が言ったら、
「なあんだ。」と大きな声で言って、「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
と、どんどん先に立って歩きました。
どこまで正気なのか、本当に、呆《あき》れた主人であります。 (<青空文庫>より)
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